はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『谷川』を参照していただくようお願いいたします。 2017. 2.12. 日曜日 曇り時々晴れ 気温 寒い
このレポートは西脇市黒田庄の荘厳寺から加東市の朝光寺までを歩くという企画なのですが そもそもは荘厳寺の入口にあったこの案内板がきっかけでした。
それによると荘厳寺から西光寺山を経て加東市の朝光寺まで尾根沿いに修験の回峰行が 行われていたという。宝暦年間にはさかんに行われ隔年ごとにお互いを行き来していたという。 現在、荘厳寺は黒田官兵衛に関連があるということで脚光を浴びたようだし、 朝光寺は国宝の本堂があり訪れる人も多い。 西光寺は廃寺となっていてその跡地には礎石らしいものしか残ってなく、その山名で 寺があったのだなあとわかるぐらいだ。 その案内板を見て、行者たちが歩いたという尾根を我々も歩いてみようと思い立ったわけです。 意気込みは強かったのですが、初回が2010年だからなんと7年たってもまだ完歩できてないないという体たらく。 まずは1回目からのレポートを列記してみましょう。(関連したものも紹介)
権現山(三草山)
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やしろ鴨川の郷がスタート地点 | 捨てられていた道標(2002年) |
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これらのレポートを見てもらえれば荘厳寺をスタートしてやしろ鴨川の郷まで来たことがわかると思う。 今回はここをスタートとするわけだが、300年前の行者たちはどういうルートを取ったのだろう? ここから道路を歩いて三草山へ行くにはあまりにつまらない。
そこでしら坂トンネルの真上にある尾根を辿って大坂山まで縦走することにしよう。
鴨川の郷の駐車場を10時05分スタート。名前はわからないが施設の西にある林道を行く。
2002年だったがこの林道に石の道標(二つに折れていた)がうち捨てられていた。
この林道にあったのか、これから行く峠にあったのか、どこからか運んできたのか
どちらにしても文化財の一つだと思うのだが粗大ゴミとして処理したのか今は無い。
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ここを左折したがこれは間違いだった | 無名峠に着 |
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峠道の入口を間違ってしまい谷からダイレクトに取り付いてしまった。稜線近くで峠道と合流して (この道なら楽ちんだったのに・・・)そのまま峠に着。峠の反対側にも下る道があるが、今は ゴルフ場になっている。本来は塚口町へ続いていたはず。 写真でもわかるように昨日の雪が残っている。しかもこれから向かう稜線上は腰までシダが密集している。 つまりこの先びしょ濡れ確実ということだ。さすがに南斜面は乾いているがもう手遅れ。 やけくそで進んでいくと目的の入道岩(婆婆岩)が見えてきた。
奇岩というのはまさしくこういう岩を指すのだろう。ろうそくのように屹立しているのだが、その
根本は細くて力強く押すと今にも倒れてしまいそう。
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入道岩(婆婆岩) | 入道岩(婆婆岩)にハグする |
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この岩の真下にはしら坂トンネルがあって西脇側にちょっと下ったところの 道路沿いにこんな看板がある。
多田繁治氏の著書で初めてこの岩の存在を知ったのだが、それには『入道岩』と書かれていた。
しかしこの西脇側の看板には『婆婆岩』とある。単純に思ったのは加東市の呼び名が『入道岩』で
西脇市側が『婆婆岩』だと。しかも西脇側にはなかなかおもしろげな由来が書かれていて
読んでいても楽しい。
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婆婆岩由来の看板 |
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西脇市のHPにもこの由来がアップされていて、さらに日本各地の言い伝えなどを集めた本にも 採用され記載されているのでした。しかし!実はこの看板を書いた人を偶然知ることとなり、 その人に聞いてみたら「ああ、あれはわしの創作や」と、衝撃発言で驚いた記憶がある。 でも考えてみたら伝承とか伝説なんてこういったきっかけで生まれてくるものだと思う。 かの、民俗学の宮本常一氏も若い頃に肺を患って長期に療養していたときのこと。 ようやく動けるようになり 野山や周辺をうろうろ歩き回るようになった。その様子を見て村の人は気がふれたと思ったようだ。
あるとき大便がしたくなって松林のなかでようをたしていた。その脇に小さな稲荷の祠があったのだが
村人には常一氏が拝んでいるように見えたのだろう。やがて全快して大阪で教員として復職した常一氏をみて、
その稲荷が霊験あらたかということで地元で大流行したという。『私は伝説などの根源をそこに見るような思いがした』と
氏の著書にある。
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展望岩場から西を見る | 同じく東を見る |
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少し進むと『鴨川の郷』という道標と下に下って行く道があった。地図から推測するとトンネル付近のどこかのようだ (帰りに車から見てみたがわからなかった)。婆婆岩の登り口がわからない人が多いがこれだと簡単に登れそうだ。 やがて岩場の登りとなる。昔なかったロープがぶら下がっていてけっこう整備されているように思えた。 そして登り切ると、ここも展望地だ。
378を過ぎた所には鉱山跡がある。しら坂峠を越えた所にも同じように埋もれかけた抗口
があった。何が摂れていたのかは地元で知っている人はいるのだろうか。
うっすらと雪の積もったしら坂峠に着。昔は重要な街道だったと思う。 というのも、しら坂トンネルができたのは1996年のことで、 徒歩でJRに乗ろうと思うとこの峠を越えるのが一番の早道だったからだ さらに昔は清水寺への道でもあった。
その証しがこの石仏だ。地蔵菩薩立像で線刻の錫杖が目を引く。その
錫杖側には『嘉永三年(1850)戌三月二十四日』 と
あり、反対の向かって右には『清岩恵明禅尼』とある。
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しら坂峠の石仏 | 吉川町の峠にある石仏 |
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この石仏もネットで検索すると、曰く、ここで亡くなった人を供養した石仏だろう・・・とか、 前述の婆婆岩の伝説に関するものだろう・・・とか、想像力豊かな人が多いのに驚かされる。
禅尼とは在家のままで仏門に入った女性のことを言うのであって、勝手に殺さないでもらいたい。
この女性はしら坂峠だけでなく
吉川町にあるとある峠にも観音の石仏を寄進しているのだった。
写真ではわかりにくいが光背部分に『清〇恵明禅尼』と確認できる。
どちらの峠も清水寺へのルートなので周辺を探すとまだ『清岩恵明禅尼』さんの
石仏があるかも・・・・。
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もうかんべんして〜 | まだまだ遠い |
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峠からはさらに藪がひどくなる。とりあえず前進するものの、気持ちはどんどんと 落ち込んでくる。全身どろどろで点名『御所』に到着。ここのランチとする。 せ山の向こうにある大坂山まではまだまだだし、かといって ここからしら坂峠に戻るのも遠い。 |
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鞍部にあった石柱 | 峠道から谷にエスケープ |
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意を決して『K』の鞍部から下山することにする。石仏などはなかったが写真のような 石柱が転がっていた。ちなみにこの鞍部は明治の地形図には 馬瀬と塚口を結ぶ峠として記載されていて、当時使われていたと思われる道があったが これもまたひどい藪でたまらず谷にエスケープする。
この谷も歩きにくかったがなんとか舗装路に脱出できた。ここに降りたということは 次回はここから登らなくてはいけない。どろどろにならないためにも、せめて晴れて乾燥した日にしよう と思う。
今回のシラ坂峠〜尾根縦走の地図は
こちら(約600k)
でごらんください。 |