黒松古傳 『三つの隧道』

2015年 8月14日

黒松の町内にはJRの軌道下をくぐる三つの小さな隧道がある。子供の頃、お盆に帰省すると ここを通ってお墓参りした記憶がある。

地図に示してみたが『A』が『東の隧道』、『B』が『中の隧道』、『C』が『西の隧道』と 呼ばれている。地元では東西に並んでいるように呼んでいるが、正確には南北に並んでいると 言った方がいいような位置関係である。

隧道の位置

国鉄山陰本線の黒松駅が出来たのは大正7年(祖父、孝一が小学校5年生ぐらい)のこと。したがって これらの隧道が出来たのも同じ年だと思われるが隧道にはそれを示す銘板などはない。

国鉄の軌道は集落を東西に二分しているが、その東側にはほとんど民家はなく、西側の 海岸沿いが黒松の中心地と言って良い。その東側に通じる隧道をなぜ地図の地点に 作ったかというと、そこには三つの川があるからです。 それらの川を寸断する土盛りの下に隧道(水路)を作ったのは当然の成り行きと言える。 (ひょっとして『東の隧道』『中の隧道』などは川の名前にちなんでの命名かな?)

西の隧道の入り口高さはこれぐらい

地図にある『C』の 西の隧道は倉谷川に沿ってあるのだがその入り口を見ると川が寸断しているように見える。 地図を見ても川が途切れているような感じだが水量が多くなったらどうなるのだろうか? どうやら暗渠になっていて隧道の下を流れ隧道を抜けた向こうにある川上に繋がっていると思われる。 入り口手前左側には石仏を祀った小さな祠があった。

実は三つの隧道はそれぞれ大きさも高さも違っている。ここは写真のような高さと大きさである。 しかし出口までの距離は三つともほぼ同じだと思う。

『C’』の9号線の隧道9号線隧道の中から振り返る

西の隧道を抜けるとすぐ目の前にはもう一つの隧道『C’』がある。 これは国道9号線の下を抜けるものだ。 これはいつ頃出来たのだろうか?現在の9号線は昭和40年に県道から国道に昇格したもの らしい。ということはそれ以前からあった可能性が大きい。
中の隧道の入り口狭いし高さも低い

西の隧道とうってかわって中の隧道(地図の『B』)は川そのものです。 入り口のアーチ部分は西はてっぺんに要石は無いもののアーチ状に 迫石がきれいに並べられている。こちらは要石はあるものの迫石は無い。 幅も一番小さく、高さも2mは無い。比べてみて初めてわかる違いだった。
向こうに見える9号線の隧道『B’』中は物置??

足下の両側が水路になっているためにカニが這っていたり、子供の頃はメダカもいた。 低い天井にはムカデが張り付いていたりして通り抜けるのが怖かったものだ。 中の隧道も抜けるとその先に9号線の隧道『B’』がある。行ってみると 向こう側の出口が見えるものの利用者が無いためか中は物置のようになっていた。
ここが一番大きい東の隧道『A』

最後は東の隧道だが、ここは 『萬松山 楽音寺』 というレポートでも紹介しています。 写真を見てわかるのはここが三つの隧道のうちで一番規模が大きいこと。 さらにアーチ部分が赤煉瓦で出来ているということがわかる。 赤煉瓦は見栄えも良くいかにも大正時代のものだという雰囲気がある。 他の二つの内壁はコンクリートの打ちっ放しだった(たぶん最近の補修跡だと思うが)。
内部も煉瓦壁だし照明もある出ると何軒か民家がある

川は隧道内では暗渠になっている(三つとも隧道付近は川というよりも水路という感じですが、 これでも昔は大水で氾濫したこともあった らしい)。隧道を出て左へ直角に曲がると楽音寺と数軒の民家がある。 昔は役場もあったという。そのために一番大きいのかもしれない。 直進すると写真には無いが9号線をくぐる隧道『A’』があるらしい。

こうやって改めて三つの隧道を見比べてみると同じ時期に作られてにもかかわらず 一つとして同じものが無いのに驚く。



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