ひょっとしたらこの寺が黒松のオリジンではないかと思えるほどいろんな謎と伝説を含んだ
お寺である。2014年4月、親父の7回忌で帰省したものの時間が無いので朝早く起きて、
まずは一人で訪れてみた。
予想通りおもしろい所だったので母親と妹親子も連れて数十分後に再訪することに。
母親は子供の頃に訪れて以来というから70年近く来ていないことになる?
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川と住宅に挟まれた通路 | 東の隧道 |
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住宅と川(東川)に挟まれた細い通路を行く。これでも立派な生活道路なのだ。やがてJRの真下を抜ける 隧道に到着。黒松には三つの隧道があり、これは一番大きな東の隧道だ。山陰本線は徐々に延伸され この黒松にも駅ができたのだが、それと同時に隧道ができたとすれば大正7年のこととなる。
隧道を抜けると数軒の民家と耕作地がある。自動車はたぶん入ることができないので けっこう不便だと思う。隧道から左に曲がった最奥に楽音寺がある。
こんな不便?な所なのに、昔はここに役場があったという。家が忙しいので
長女である母親が末の妹の出生届を出しに来た思い出がある。
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ここに役場があった | 階段を上る |
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JRの軌道を通すために盛り土したために集落が南北に寸断されてしまう。 黒松にある三つの隧道はそれらを結ぶためのものです。
母親の記憶では楽音寺へ来るのは別のコースだったようで(今回帰りに利用する)この階段で上ることは
なかったらしい。
見た目きれいな本堂ですが、これは昭和44年に再建されたもので、母親が知っているお堂は昭和22年に 焼失しています。ほんとかどうかわかりませんが、戦後引き上げてきた人が寝泊まりしていて、 その人の失火ということですが・・・。
本堂の横手にある小さなお堂には小さな石仏とかがある。周辺にも石造物があるのだが、いずれも
状態がよくない。このあたりは福光石と呼ばれる凝灰岩で造られた墓石とか石仏などが多いのだが
もろいためにすぐにボロボロになってしまう。
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謎の石碑 | 凝灰岩は劣化が早い |
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興味ある石塔があった。文面はまったくわからないが、側面には『維持(ときに)文政四辛巳(1821)・・・』とだけ わかる。もう片面には『郷原長左衛門 重親建之』とあった。母親も郷原という姓は聞いたことがあると 言っていたがなぞの文面が気になる。歌碑かな?
本堂は施錠されているので中をうかがうことはできませんでしたが、本尊は健在なんでしょうか?
母親が子供の頃、お盆になると地獄・極楽の絵解きの掛け軸が本堂に掛けられていて、それらを子供たちだけで
見て楽しんでいたという。
中はとてもきれいで中央にはさらにガラス戸がある。なにやら物があるのは見えるが 仏像かどうかはわからない。ひょっとして火事で焼けてしまってるとか。
扁額には『瑠璃光殿』とあり、扉の横には『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』とあることから
本尊は薬師如来だということがわかる。平城天皇の大同年間(806〜810)このお薬師さんは村の北端付近にある
黒島の立岩付近の海中から発見されこの地に安置されたという。その後、時々裏山の松に瑞祥が現れるのを見て
『萬松山』と名付ける。
本堂の横手にはこれらのことを詳細に書かれた案内板(平成13年)があるのだが、文字が薄れてしまい ほとんど読み取れないのが残念。それでもこんなおもしろいことが書かれていた。 それは大島大明神の由来に関すること。
『・・・当時の住職が薬師如来のお告げを得て、大島に降臨したもう大弁財天女(神道だと市杵島姫命)を
供養したところ、天女は歓喜愉悦して琵琶を・・・・(この部分判読できず)その楽音、妙に
幽玄な響きに聞こえ以来寺名を楽音寺と称す』ということで、寺名の命名には大島と関係があったことが
判明。
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本堂の横手に線路がある | それを渡る |
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後半はさらに読みにくいが、薬師如来の出現した黒島、さらに楽音寺の山号である萬松山から この村の名前を黒松としたとも書かれていた。歴史も平安までさかのぼるほど古く、 大島との関係、村名の由来などまさに黒松村のオリジンと言える寺である。
帰路は線路を渡る。妹は踏切の無い線路を渡るのはいやだと言うが、母親などは
子供の頃この線路で福光まで歩いて行ったという。そもそも1時間に一本の通過があるかどうか
の運行なので心配は無用。これを渡ると個人医院跡の横を通って道路へ出る。
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