生野の古道をさぐる

2015.12.20.  日曜日  

ずいぶんと以前のことだが生野のジローさんのお父さんである文夫さんとの対談で生野にはいくつかの古道があるということを 聞いた。それをもとにして歩いたのが去年の 菅町の坂と小豆坂 というレポートです。今回はその続きとも言える古道探しです。 まずは上生野上流から魚ヶ滝を結ぶ峠を探してみる。
魚ヶ滝手前の地図

現在の429号線ではほとんど高低差無しに出会い橋から魚ヶ滝の集落跡までを 結んでいるが、文夫さんが言うには市川が大きく曲がっているポイントではその昔は右上断崖の上に道があったと・・・。

にわかには信じがたい話だったが現地で周辺の地形をじっくりと見ると、なるほど そうだったかもしれないと感じるはじめる。そうなると自分の目と足で確認するのが一番だ。 まずはそこにある石仏ポイントに車を止める。

コーナーに車を止める(アングルの都合で古い写真を使用)そこから上を仰ぎ見る

そのコーナー部分には岩だなの上に二基の石仏と一基の名号塔がある。文夫さんは これらの石仏はいうところの峠にあったのだと。それを現在地に降ろしたのだと。 予想ではその峠には現在も石の基台が残っているはずだと。
とりあえずこの辺から登ってみるまもなく『A』地点だが、あきらかに道のよう

車を出て写真の場所から登り始める。これはちょっと失敗。もうちょっと先にある谷ぐらいから 登るのがよかったかも。どちらにしてもこのあたりは道らしきものは無いので獣の歩いた 跡を探りながら高度を上げる。すると予定していた『A』の近くからあきらかに道のような 跡を歩くこととなる。それより魚ヶ滝方向は間伐材とか崩れで道跡は無い。この道跡があることから 峠だったのではと期待は膨らむ。
『A』地点に到着

『A』に到着。文夫さんが思っていた石仏のあった石の基台があれば真っ先に目に飛び込んでくるはず だったがそれらしいものはなかった。代わりに電柱(コン柱ではなく木柱)跡と周辺に散らばる 絶縁碍子があった。峠だったかどうか、う〜ん、微妙や。断崖の縁になる『B』へ行ってみる。
『B』地点に到着

高いところが苦手なので写真の場所より前には出られない。というか、足元はずるずるで 滑るのだ。覗き込んでも木が邪魔で石仏も自分の車も見られない。ここにはとても 石仏があったとは思えない。やはり先ほどの『A』地点がそうだったのか?

ひょっとして石の基台はさらに上にあるのではないかと思って『C』地点まで行ってみたが それらしいものも左右に下る道跡もなかった。つまりは電柱跡のあった『A』地点が 一番の候補だ。

思うに、はるかな昔にはこの周囲は岩肌の断崖だったと思われるので迂回のために 『A』を通過するのが一番合理的だったかも。そう思いながら『A』から『D』に向かって 下って行く。こちらは獣道ほどの踏み跡が残っている。周囲は植林で電柱が残っているかと 目を凝らしてみたが無かった。

1月7日追記
ジローさんより昭和40年頃の魚ヶ滝集落の写真を提供してもらった。するとこの頃は問題の場所は植林がされておらず、 拡大すると確かに古道が見えるのだった。国道429号線も未舗装のようだ。 カシミールというソフトで撮影場所を特定してみた(巻頭地図の『あ』ぐらいからの撮影だと思われる)。

昭和40年ごろの魚ヶ滝集落

続けて平家坂を歩いてみる

新平家坂橋周辺の地図

続けて『平家坂』を歩いてみる。これも初めて聞く名前だがよくよく周辺を見れば『新平家坂橋』という 橋が国道429に架かっている。その橋の存在さえ知ることができれば地元の人でなくても「この辺になにやらありそうだ」と 感じることができるはず。

ここはすでに文夫さんも歩いており、生野銀山史談会による『一里塚』第11号にその詳細が 書かれている(執筆はもちろん文夫さん)。その記載をもとに平家坂の入り口をさぐる。

新平家坂橋を越えたら分岐『E』があるそこにある新しい看板

国道429にある新平家坂橋を渡ると道は二手に別れます。その昔、ここまで落ちのびた平家の郎等たちは ここから長野方向へ向かいました(もち、伝説だとは思いますけど)。今見ると自動車も通れる舗装路ですが 当時は長野川に沿った崖だったようです。これから歩く平家坂がその当時から大正時代までのメインルートだったと 『一里塚』にもあります。
ここが入り口するとこんな感じ

『E』にある入り口から入るとおどろくほど明確な道がある。最初は市川沿いにある429の 国道が下に見え、尾根に乗ると長野川沿いの県道が真下に見えるようになる。 さほど長い距離ではなく緩やかに県道へ向かって下って行く。何度もこの県道を車で 走っていたが頭上にこんな道があるとは夢にも思わなかった。
『F』地点に到着。ここの榎木にいろんな逸話が!

降り立った所には立派な榎木がある。当時(平安末期)からあったとは思えないがここには この木のそばに平家の墓があったという。また、この木を切り倒そうとすると腹痛がおこり お坊さん(大明寺の住職?)にお経を上げてもらい治ったとか。驚くべきは、その道路改修のとき(大正5年頃)に この榎木の所から大量の刀が出てきたのだ。このへんの顛末は『一里塚』第11号を ご覧あれ。
『G』地点。ここが細平だと思う

榎木から少し行ったところが細平(ほそびら)という名前通りに左右に細長い平坦地がある。 ここが落ち武者たちの住居跡だったという。飢餓(あるいは疫病?)のために死に絶えたとか。

さらに進んで見よう

高路、梅ヶ畑周辺の地図

今歩いている長野川の最奥にある集落が長野だが、その手前には小さな山塊を挟んで高路と梅ヶ畑がある。 二つの集落を行き来するにはぐるーっと大回りしないといけませんが、ここには地図にあるように峠があります。 そこを高路側から探してみます。
高路橋『H』を渡る最終民家奥から振り返る

さて、どのへんに峠の入り口があるのか?わからないのですが峠の鞍部はもう見えています。 その方向へ進んでいって植林の中の斜面を闇雲に這い上がってみるとそこには 立派な道がありました。どうやら最終民家付近から登り口があったよう(『J』ぐらいかな)。
峠道を登る峠『K』に到着

高路集落も写真でわかるように家屋は残っていますが無住の廃村状態です。梅ヶ畑も つい最近無住になってしまいました。この峠は梅ヶ畑の老婦人(最後の住人?)から教えて もらった所です。そのときに峠の名前とか由来とかを聞いておけばよかったと後悔。 こうして廃村になると同時にそこの歴史が消失という悲しいことになるのです。 それをなんとか残そうとしていたのが文夫さんをはじめとする生野の有志たち。
金比羅宮『L』外壁は朽ちつつある

峠から梅ヶ畑へは下らずに金比羅のお宮に立ち寄る。小さなお宮だが その前には少し土盛りが・・・、ひょっとしたら土俵跡なのかも。 ここから左右を見下ろせば高路と梅ヶ畑の両方の集落が見渡せる(木々が なければ)という絶好地なのだ。お祭はきっと両方で賑わったと想像したい。

小豆島の霊場のお札とかが床に散乱していて 覆屋(おおいや)の外壁もぼろぼろで寄付などの記銘板が残されていれば 時代とともにどういう人たちによるものかがわかるのにこれまた残念。

裏側から日吉神社へ参拝?本殿はきれい

ここから尾根を歩いて梅ヶ畑入り口にある日吉神社(地図の鳥井マーク)まで行ってみる。 裏から見るとここの覆屋もちょっと傷みぎみだったが中の本殿はきれいだった。 境内には昭和16年の社殿改築の碑が建っているが、それよりははるかに 新しいものだと思う。
『M』地点。ここから大外へ行けます

最後の古道は『M』から始まる大外へ抜ける峠道。入り口には石仏もあってかすかに『左 たんば』 と読める。ここを抜けると大外にあった黒川尋常小学校へ行けるのです。この 峠を歩いたレポートは青玉神社〜青倉神社(実施編) の中程にあります。残念なことにこの峠も名前がわかっていません。

文夫さんから聞いたことで残っているのが『笹峠〜屏風岩』までのルート。いつかまた歩いてみたいです。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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