はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『生野』を参照していただくようお願いいたします。 2014. 4.13. 日曜日 曇り時々晴れ 気温 ふつう
表題の『菅町の坂と小豆坂』を知る人はまずいないだろう。かくいう私も生野の佐藤文夫さんから 教えていただき初めて知ったのです。それは生野ダムのために廃村となった上生野(こうじくの)と 菅町にあった古峠の名称ですが、最新の地形図でその場所を特定するのはほぼ不可能。古い地形図で ようやく「こんなところが峠だったの?」という驚きの場所なのだ。 単独を計画していたが作畑ガールが上生野と作畑の関係をレポートしたいので連れて行って欲しいという。 写真のセルフ撮りが面倒だが同行者がいると写しあいができて楽なので同行を許可。
まずは『菅町の坂』を訪ねてみる。菅町はその場所と標高からして、水没を免れる地域だったのだが
住人たちはそこに留まることはなかったようだ。民家のあった所は現在はキャンプ場となっているのだが、
実際行ってみるとその荒廃ぶりからして、どうみても営業している感じはしない。
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菅町キャンプ場 | 飛び石の向こう岸がテントサイト |
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昔の写真と言っても昭和の40年代ですから写っている家屋もごく普通なもの。 今でも見かけるような・・・、いや、それ以上に豪邸と言ってもいいような造りです。 今のキャンプ場からは到底想像もできません。
話を戻して、いよいよ『菅町の坂』へ。当初の予定から、駐車ポイントはキャンプ場ではなく
青草橋のたもととする。そこから再度キャンプ場方向へ歩いて行くと祠がある。
そこが注目ポイントの一つだ。
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ミツマタが覆い被さるように祠がある | 書き込みのある地蔵菩薩 |
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中には石塔と、地蔵菩薩の石仏がある。『當村女講中』とある。他に彫り文字は見当たらなかったが 生野書院にある資料には『天保11年(1840)』の石仏とあった。 元々はこれから登る峠にあったそうで、その昔は盆の24日に女性たちがこの地蔵に煎り豆をそなえていたという。 その女性たちの祈りの証拠がこの光背部分にある。いったい何時に書かれたものだろうか? 墨書きで書いた文字の上にさらに書き加えられているために読み取りが難しい。 すぐに読み取れるのは『南無地蔵大菩薩』そのほかにもいくつもの文字がある。
さらに目を凝らすと左手の袖の部分にも細かい書き込みがあった。かろうじて読み取れるのは
『坂道』『但馬』など・・。これらの書き込みは何十年(あるいは百年)続いていた女講の
習わしだったのかもしれません。
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祠の先にある石段を登る | まもなく峠 |
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道は明確で迷うこと無く峠まで導いてくれる。途中には炭焼き窯跡もあった。 あれこれ言うまもなく峠が見えてきた。ゆっくり登っても10分ほどか。 |
峠には石組みと・・・ | 切り倒された電柱があった! |
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峠『菅町の坂』に到着。ゆるいタワでわりと広めの峠だった。 峠の向こう側には上生野の城山が見えている。昔はとても明るい峠だったに違いない。 足下には石組みがあって、ひょっとしたらここに石仏があったのかもしれません。 他に何かないかと周辺を見渡すと・・・・。
切り倒された電柱がありました。近くには絶縁碍子が転がっており製造年月日は
1968年(昭和43年)7月とある。ちなみに生野ダムの工事が始まるのが昭和45年だ。
電柱にあるべき銘板の跡はあるものちぎれ飛んだのか無くなっているようだ。
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さて、ここから銀山湖へ向かってくだるのだが、すぐ下に道路は見えているものの 傾斜がきつく、しかもあるべき道が不明瞭だ。峠から下りかけると石垣があった。 そこから下は作畑ガールには危ない斜面だったのでまずは私が下って様子を見る。 すると、そこにも電柱があった。 |
こちらは銘板あり | ジグザグに下る |
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それには『菅町 支 18』『43年9M』とある(菅町への支線で18本目の電柱。昭和43年9月設置)。 菅町へ給電するための電柱だったということか? 肝心の道はジグザグにあって途中は崩れかけているが なんとか降りられそうなのでガールにも降りるように指示。途中には 石段の跡もあったりする。
後日、文夫さんと対談したときに、我々が下ったのはあくまでも電柱の道(管理道)だったので
急坂をまっすぐに下っていたのではなかろうか。実際の峠道は二つ前の写真にある石垣の上を黄色の矢印方向に
斜めに下る道が正解ではなかったかという話になった。実際明治の古地図にはその方向に
道の破線が描かれているのだった。
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ここに出ました | 廃線レポに続いての川渡り |
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で、道路に降り立ちました。この時点ではこれが峠道だと思い込んでいるので大満足。 さて、次は上生野にあったという『小豆坂』を歩いてみたい。取り付き場所は道路沿いに 石仏のある『く』地点だ。とりあえずそこまで歩いて行くつもりだったのだが、なにげに 銀山湖を見ると、な、なんと、湖底が干上がっており、しかも流れも広がっているので水深はきわめて浅いと見た。 わざわざ舗装路で遠回りしなくても、ここを渡りきればショートカットで『小豆坂』へ行くことができそうだ。 |
浅いです | 渡りきると石垣が |
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出会い橋(矢印)方向を見る | 魚ヶ滝方向を見る。矢印が菅町の峠 |
水深の浅い場所を探りながら川を渡る。こんな所を歩いているのは誰が見ても怪しく感じるのか、 国道を走る車の多くが止めてこちらを不思議そうに見ているのがなんともおかしい。 渡りきった対岸には横方向に途切れることの無い石垣がある。 日頃は水没して見ることのできないもので、文夫さんが言うにはここらは水田だったらしい。 |
『小豆坂』への道は良い感じ | 小豆坂に到着 |
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小豆坂という名称で思い出すのは氷ノ山の北にある氷の越えという峠の 兵庫側にある『小豆転がし』だ。この名は急坂を表す形容詞として よく使われているようで、実際『小豆転がし』は氷の越えという峠でも難所であった。 丹波市と福知山市を結ぶ『穴の裏峠』というのもその由来はおもしろい。前を登る人の肛門が見えるほど 急坂ということで付けられた名前だが、実際はさほどの道でもない。
上生野の『小豆坂』も集落側からはけっこう急だが、こちらからだと緩やかで、しかもしっかりと道が
残っている。快適に上り詰めて峠に着。後で聞いた話ではこの付近の土が赤くて小豆のようだというのが
由来とか。実際赤かったかどうかは未確認。
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ここから上生野側を見下ろすと、もう道路が見えており石仏のある祠もあるのがわかるぐらいだった。 しかし、道は斜面を南に向かってあった。すごく良い道だったのだが、それをたどると道路の法面の所で寸断されていた。 昔、道路の無かった頃はそのまま上生野の製材所方向に下っていたと思われる。 |
仕方なくまっすぐ降りる | 祠の所に降りる |
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正規の峠道で下れないため、仕方なく峠から斜面をまっすぐに下りる。 国道429とその脇にある祠の屋根が近くなってきた。横手にある階段を利用して 道路に降りる。 祠には石仏が2体。1体の首が無く基台には『天明三癸卯天(1783)』とあった。2体とも地蔵だと思っていたので あえて像様は確認しなかったが(前垂れをめくるとぞろぞろと虫が這い出たので・・・)、天明の石仏は どうやら阿弥陀らしい?え〜、ほんま?
本来は小豆坂にあったらしく、それを上生野に一旦下ろしたものの、ダムに沈むことになったので
またぞろこの道路沿いにまで持って上がったというものらしい。祠に入れて祀られたのは昭和50年のことと
書かれていた。
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目的の二つの峠を歩けて菅町方向へ道路を歩く。 ちょうど出合橋にさしかかった時、赤い軽自動車が橋の真ん中で止まるのが見えた。 なんやろ?と思っていたら、車内から出てきたのは黒川の古民家民宿『まるつね』さんの ご夫婦だった。リュック担いでいる変な人がいるので見たら我々だったので止まってくれたのだ。 | ||
『まるつね』は去年の大持山のときに宿泊させてもらって既知の仲である。 橋のど真ん中で立ち止まっていろいろと話をする。 「出合橋で出会いましたねえ」といつもどおりのつまらない洒落を言ってお別れする。
今回の菅町の坂と小豆坂への地図は
こちら(約300k)
でごらんください。 |