2013年 7月20日 私はこの黒松で生を受けたのだがすぐに神戸に出てしまったため黒松とはほとんど縁が無かったと言っても良い。 まあ、そのためにこの古傳をやろうと思いついたのだが・・・。地元の人とは違う視線で見れば、おもしろい 発想で描けることもあるのではないかと思ったからだ。
そのもっとも大きなものがこの『大島神社例大祭』だ。子供の頃夏休みに帰省するのはほとんどがお盆だった。
したがって7月に行われるこのお祭りを見た記憶が無い。(小さい頃に稚児として参加したことがあるそうだが、
ほとんど記憶は無い)うちのお袋もほぼ数十年は観ていないはず。
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大島と黒松との位置関係はこのようになっている。ちなみに大島から仮殿までの直線距離は2.7kmほどだ |
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黒松は不思議な村で、JRの黒松駅を中心として小さなエリアにそのほとんどがあるのだが、 地図にある宝殿ヶ鼻までの海岸線部分だけが黒松のものとしてある。 江戸時代の係争の結果としてそうなったそうだが、それはもちろん漁業権が主だったかもしれない。 が、ひょっとして大島という黒松にとって重要な宗教地点までの海岸線を確保したいということも 案外無関係ではかなったかも・・・。 |
東灘にある富士見橋付近からだと絶景だ |
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地図だとわかりにくいので写真を貼り付けてみた。地図にある富士見橋付近から西方向を撮してみた海岸線全景である。 ここは東灘と言って小さな入り江になっているために水深が浅く、潮の流れも無いために子供には うってつけの水泳エリアだ。
さらにここは大崎鼻という場所で陸地が大きく二つに割れて水路になっている。
二割れと呼ばれるここには小さなコンクリ橋が架かっていて『富士見橋』という名前まである。
(私が子供の頃は名前はなかったような気がする)
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大島神社仮殿の裏山から見ると・・・ |
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場所を変えて大島神社の仮殿から海を見るとこうなる。黒松に住んでいる人にとっては 毎日見る当たり前の風景だが、もし他地域の人がこのレポートを見るにあたっては 地形がわからないと祭りの詳細もわかりにくいと思われるので地図と写真を貼り付けてみました。
それぞれの村にあるそれぞれの祭りは歴史、風土はもちろんだが地形によって在りようが
大きく違ってくる。
山の村には山の祭りがあるし、川の畔の村にはそれなりの祭りがある。
地図と写真でわかるように、ここ黒松は典型的な海の祭りが予想される。
我が家(もうないけど・・・)の裏手にある大島神社仮殿は祭りの準備が整っているようだった。 普段は周囲を雨戸でふさがれている。昔の仮殿は写真手前の畳敷きの所が板間になっていて、 夏場などはここに寝転ぶと涼しく、お年寄りが将棋などをしていたような記憶がある。 が、昭和57年に現在のように改築されてからは 祭りの時だけ開けられるようだ。 大島神社の神紋は『三つ亀に花剣菱』で、これは 広島厳島神社の神紋にほかならない。つまり大島神社は厳島の分社と言えるのだが 厳島でお祭りしている宗像三女神のうちの 市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)だけが 大島神社の御祭神となっている。 普通に考えれば市杵島姫命を厳島から勧請してきたと言う所だが、黒松に古くから伝わる 民話はおもしろい変化(へんげ)をしている。 古事記では素戔嗚尊が生んだ宗像三女神はここでは二人となっていて、その二人に 大島と宮島のどちらが良いか選ばせるという設定になっている。 大島を選んだ市杵島姫命は大島とは名ばかりでそのあまりの小ささに嘆き悲しんだというが、 ある日、大島の東に浮かんだ小さな島に喜んで、浮かんだ島を女島、大島を男島と名づけたという。
さらに黒松の伝承では市杵島姫命が姉神となっていて、妹である
宮島は黒松の祭りが終わらないと祭りができなかったと・・・。
それが真実であればすごく優越感に浸れるのだが実際はどうだろう??(^_^;)
ちなみに厳島神社の創建は公式HPでは推古元(593)年で、ここ大島の創建は 黒松史によると推古五(598)年とあって似通っているのがいかにも真実みが漂っていておもしろい。 黒松の年表には最初に鎮座したのはこの大島ではなく、向いにある宝殿ヶ鼻にあったというが、 万寿三(1026)年にあった大津波で流されたために大島に本殿を建て現在に至っているという。 さて、この大島にある本殿と、仮殿とのあいだでどのような祭礼が行われているのだろうか。 それは『大島神社例大祭』その2に続く予定です・・・。 |