山上参り(道仙寺奥の院)への道


先日(5月31日)にTQFさんと道仙寺奥の院から後山へ登ることができた。 これは2008年に続いて二度目となる山行きだったわけだが、山岳仏教とか修験に少しでも興味のある人にとっては とてもおもしろい山行きとなるコースだった。

初めて奥の院に訪れた後に知ったのは兵庫の但馬の人々の多くがここにお詣りしていたということだった。 なんの本だったか忘れたのだが建屋餅耕地の朝日さんが この奥の院へ行くまでの具体的な道中記のようなものを資料として残していて、それを読んで断片として覚えていたことを 山行きレポートの中にちょこっと書いています。

その資料原本を家中探したがみつからず。はてさて、どこに行ったものかと思っていたら、 作畑ガールからおもしろい資料をもらえたのでここに全文からの抜粋を掲載しようと思う。

昭和48年3月の日付があります

写真の本の中の第七節『山上さん』という表題です。

盆の月は農閑期で、男たちは山上さんへ詣った。・・・という文から始まります。 この場合の山上とは後山中腹にある道仙寺奥の院のことで、西の山上と呼ばれており、 東の山上は奈良の大峯(山上が岳)のこと。当時、朝来、養父、大屋、関宮の人々は西の山上へ詣っていたとある。

建屋の石ヶ坪から佐仲へ抜ける峠

建屋地区では8月16日の午後に出発し、石ヶ坪から峠を越えて朝来町佐仲へ。 佐仲から佐仲川を下り、現国道429号線に合流するのだが、佐仲には森林鉄道があって (大正10年以前からあったといわれている)明延の一円電車のように住民も利用していたかもしれず、 講の一行はひょっとしたらこのトロッコの荷台に乗ったかも・・・。
現笠杉トンネルの上にある神子畑峠

神子畑を通過した一行は神子畑峠(本では黒原峠となっている)で一宮町黒原−岸田を経て三方で朝食。 (時間軸から考えて、記述にはないが黒原か岸田付近で一泊していると思われる。三方で朝食と なっていることから旅籠などでなく、地蔵堂のような所に泊まったのかも)
一宮と波賀を結ぶ野峠

一宮町三方の三叉路から野峠を越えて波賀町上野。現29号線と合流するもそのまま429号線を行く。 そして、大甲山の麓である斎木で昼食。
鳥ヶ乢トンネルの上にある旧峠

鳥ヶ乢から千種へ入って泊まりとなるのだが17日夜半の早立ちとなる。
現在は何も無い上が乢

ここで興味ある記述。一行は県境にある志引峠を越えるのではなく、奥の院に近い上が乢で岡山に入っている。 そこを通ったのではないかなあと想像はしていたがその通りだった。 こちらのほうが理にかなったルートなのは間違いない。さてここからは我々が歩いたルートと同じになるはずだが・・・??
垢離取り場を通過

・・・何回か谷川で垢離を取り、岩をよじ登る「アリの戸渡り」。鎖を頼りに絶壁を登る「カンカケ」。 大きな岩の上から千仞の谷を覗く「大のぞき」その他数々の行場で修行して・・・とある。

どうやら彼らはまっすぐに奥の院へ行ったのではなく、わざわざ難路である東山行場へ向かったようだ。 我々が昼食を摂った「大のぞき」の記述はあるが、東山行場には「アリの戸渡り」とか「カンカケ」の行場もあるようだ (あえて行きたいとは思わないけど)。

奥の院にある籠り堂

その他数々の行場で修行して頂上の(ほんとは中腹だけど)道仙寺の役行者堂に詣り、十八日午後千種に帰って 一泊。・・・とあっさりとした記述で終わっている。ただ、この後の記述がおもしろい。
行者現る!

十八日午後千種に帰って一泊。同夜半に出発して往路を逆に歩いて神子畑に帰って昼食とするが、ここでは 村人が「山上さん、またいでおくれ」と通路に横倒しになり、また「先達さん、錫杖をいただかせておくれ」とか「 腰が痛いで、錫杖でなでておくれ」などと頼まれた。それを快く引き受けて昼食の接待を受けるきまりであった。

女人禁制の行場なれど、役行者の力を分け与えられた先達の隔ての無い功徳。これが明治政府が修験道禁止の 達しの後も廃れることなく続いてきた原因なのだろう。

こうして建屋へ帰るのは十九日の薄暮の頃で、道に横転して跨いでもらう人が絶えなかった。またいで もらうと病魔や災難を防いでくださると信じていたからである。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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