はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『大背』を参照していただくようお願いいたします。 2014. 8.31. 日曜日 晴れ 気温 暑い
お盆休み、津山の中上さんに連れて行ってもらった黒尾峠とうん乢 は中央分水嶺でもあり、廃道でもあり、石仏満載だし、由来もおもしろいし、そしてMTBでも遊べそうだというのもわかった。 さっそく24日に訪れてみたがあいにくの雨で撤退。1週間後の今日再チャレンジだ。
先週下見した所に駐車してMTBを準備する。後ろに見える赤い橋は現53号線だ。地形図からすると
この駐車場所も旧53号線だったはず。8時35分スタート。
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ここからスタート | 林道のようですが旧53号線です |
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途中で何度も立ち止まり、道ばたの花の写真を撮ったりしているので経過時間は参考にはなりません。 ここが旧国道だということを知らないと、路面の状態といい単なる林道そのものです。 |
大日如来の文字塔発見 | 石塔の横手に脇道がある |
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道の右手に石塔を発見。近づいて見ると『大日如来』の文字塔だった。横手に彫られている文字は 『明治七年戌(1874)十一月吉日』とある。横手には細い脇道があり覗き込むと倒木がひどかった。 文字塔はこの脇道のためにあったのか、あるいは私が走っている道のためにあるのか、年号からして どちらとも言えそうだ。
現53号線を走る車の音が大きくなってきた。道が大きくカーブをする所から三基の電波塔が
連続する。Jフォン、KDDI、NTTドコモだ。それを過ぎると分岐となる。
正面は現53号線へ、右が旧53号線。
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不法投棄の監視カメラがある。右が旧道 | 国道53に出てみた。上の橋が旧53だ |
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ちょっと国道を見てみようかなと進もうとすると、分岐にあったポールのスピーカーから『ここは 不法投棄監視エリアです・・・』と警告が聞こえてびっくりする。どうやら旧国道はゴミ 不法投棄の餌食になっているようだ。警告を無視して現国道へ出てみる。 さすがに車両の往来が激しい。 すぐ近くにドライブインCICOがあるので、そこをスタート地点にすれば楽かもしれない。
分岐に引き返して再度警告を受けながら、今度は旧53号線方向へ進む。
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旧53号線の『のんたに橋』 | のんたに橋を走る |
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すぐに先ほど見た橋が出現。昭和44年12月に竣工した『のんたに橋』だ。ちなみに昭和46年に黒尾トンネルが できたので、それ以降はこの橋を走る車も激減(あるいは皆無)したはず。ちなみにこの橋の ガードレール部分には橋の名前の他『国道53号線』という銘板もあって間違いなく国道だった証拠。 |
CICOとトンネルが見える | 四輪は無理かな |
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ドライブパークCICOが見下ろせるポイントあり。この付近だけヤブっていて二輪はともかく四輪は 無理っぽい。もちろん歩き、自転車は関係なく通れる。お昼でも無いのになんだか小腹が空いてきて おかしいなあと思っているとどうやらCICOから流れてくる良い匂い(お肉の焼ける)が原因らしい。 (^_^;) |
石仏発見! | きれいな大日如来だ |
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道路右手に石仏を発見。走り寄って見ると大日如来だ。表情がすごくいいし、智拳印もかわいい。 気づいた人もいるかもしれないが、先ほどの文字塔の種子とここの種子は同じ大日なのに 違っている。前述のはアーンクと言い胎蔵界の大日如来、これはバンと言い金剛界の大日如来を表す。
横手に銘がないか見ると大きく『維大正四年乙卯中春建〇』とあり、地面に埋もれた部分もあったので
掘り起こして読んでみる。『那岐村』とあるので鳥取側の建立だとわかる。次の文言がおもしろい。
『発起 運輸業』とある。つまり個人ではなく那岐村で運輸を携わる人たちの寄進なのがわかる。運輸業と
あるのは彼らの誇りと気概が感じられるが当時のことだから馬方と
言った方がいいかも。
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短いけど良い感じの路面 | 峠手前は水浸しの路面 |
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峠までの最後の路面を楽しむ。こうやって写真で見るとこれまでの行程が長い距離のように思うだろうが ほんとはあっというま。 |
黒尾峠に到着。振り返って撮影 | 昔も今も黒尾峠には自転車ってことね |
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黒尾峠には9時55分。ここまでは自転車で来る奴もいれば、オフロードバイクで来る奴もいる。 WEB上にあるそれらのレポートもなにか中途半端な内容で読んでいてもさっぱり要領を得ない。 やはり自分で走ってみてこそわかったり、発見したりするのだ。 記念撮影をしていよいよ旧旧峠道へ入る。ここより先をMTBで来た者はいないだろう。
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湿地帯の罠にかかる | 電柱跡と碍子 |
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前回も気をつけねばと思っていた湿地帯で思わず足を滑らせて泥だらけになる。 その後、足下を注意して見ていたおかげで電柱の跡とそばに落ちていた絶縁碍子を 発見する。ということは少なくとも峠までは電気が通じていたわけだ。
うん乢(別の資料では『黒尾峠』、『眞桑峠』ともある)には10時10分着。ほぼ2週間ぶりとなる。 前回のレポートで石仏の後ろにある看板の 読み取りをしたが、裏手に回るとそこにも書き込みがあった。抜粋すると 『文政七(1824)四月二十四日 泉州 石工忠衛作』と石工の名前がわかる。 『現石は奥早野村下ノ端ノ下から刻石す』とあるから泉州からこちらに来て彫刻したことがわかる。 別の資料によると、のちに忠兵衛と改めて奥早野で鍛冶職を営んだが、天保十一年に泉州へ帰ったという。 |
食事ポイントから籠山を見る | 首無し地蔵 |
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さて、小腹が減っているので食事をしようと思う。ここは薄暗いので分水嶺を三角点方向へちょっと登ってみる。 (あとで三角点まで行けばよかったと後悔)そこから 籠山 を眺めながら軽食タイム。 オカリナを吹いて気持ちも落ち着いたところで峠にあるもう一体の気になる石仏を見る。
地蔵菩薩の立像で首がない。これは明治初期の廃仏毀釈で切り取られたものだろう。
いつ頃のものか基台に彫られている文字を読むが、判読もむずかしく『香音寺』『古田〇〇母』などが読めた。
これも調べてみると享保十三(1728)年卯月、因州智頭郡香音寺の古田平兵衛の母が建てたものという。
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多重露出なので同一人物です | 広い道のところもある |
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10時45分いよいよ未知の峠道ダウンヒルの始まり。具合良さそうなところで三脚をセットして タイマー撮影をするのだが、タイマーと自転車通過のタイミングがずれるとまったく写っていないことも多々ある。 そんなこんなで時間を費やしてしまいなかなか前に進めない。
地籍調査が入っているためかまあまあ路面の状態は良い。中にはとんでもなく広い箇所もあったりする。
考えればあたりまえで、この峠道であの石仏を運び上げたのだから生半可な道ではないはず。
その道も現53号線で一度断ち切られることになる。
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現53号線で分断される | 林道に出た。そこには備前街道の杭が! |
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法面の上から53号線を見下ろす。道路に出る道はちゃんとあるがヤブっているのでMTBを押して下る。 『うぐいす橋』と『坂の谷橋』のあいだに降り立つ。 さて、どこに続きの道があるのだろうか?道路を横切って周辺を探ると、さきほど 出たところから真っ正面に続きがあった。
ここからはちょっと道悪になりあまり気持ちよく乗れない。ようやく乗れたと思ったらいきなり林道に出た。
ちょっとがっかりだったが、その入り口には『備前街道入り口』なる標識があった。
つまりここまでのルートが間違いではなかったというわけだ。
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またまた石仏発見! | 立派な地蔵菩薩 |
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林道に出てすぐにあったのがこの石仏。大きな杉の木の脇にあった。 さっそくにじり寄って文字を探す。わかる文字もあるのだが続けて読めないので残念至極。 ところが下山して知り合ったAさんという方から教えてもらうことができた。
地蔵の横手にはこうある『文化十一年戌 峠十二町』『三月廿四日』そして
この場所は黒尾平(別名 獄門ヶ平)といわれ、当時は処刑場だったために
この石仏を早野の人たちが建立したという。
林道を下りきると再度53号線に合流する。さきほどと同様に正面のガードレールをまたいで 続きの道を探したが無くて引き返す。はて?と思い、地形図を取り出す。 どうやら現53号線をしばらく走るのが正解らしい。そして、その途中にある村道で下りきった早野(わさの)が この備前街道の始まりと思えた。 |
村道途中にある石仏群 | ここが備前街道の始発点 |
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53号線から逸れて入った村道の途中には石仏群があり、いよいよ終点が近いことがわかる。 村内に入ったところにある『右 むら 左 つやま道』という道標がラストを飾る。 MTB的に乗れる、乗れないは別にして、なんとも歴史を感じる峠道だった。
道標の写真を撮っていると後ろから呼び止める声がする。声の主はAさんという方で
私を見て直感的に歴史好きと感じ資料を見せてくれるというのだ。
前述の地蔵菩薩のこともさることながら、うん乢にある地蔵を建立した数名の庄屋の一人の
血筋であり、あの看板はお父さんが設置されたとか。
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Aさんからいろいろと聞き取り | あの橋の下をくぐり抜ければスタート地点 |
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この偶然の出会いはまさに仏縁と言えそう。この歴史街道(司馬遼太郎もこの付近を『街道をゆく』の 取材で訪れています)を整備復活させてみんなに紹介してほしいものです。 村道を走り抜けてスタート地点にはちょうど12時だった。
今回の黒尾峠〜うん乢の地図は
こちら(約210k)
でごらんください。 |