はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『上齋原』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 8. 5. 日曜日 晴れ 気温 あつい
暑いし、ロングコースの山はしんどいし、どこへ行こうか直前まで決めかねていたが、 鳥取三朝の自然児さんから聞いていた人形峠を思い出す。地形図でMTBでも走れそうだと 予想していた所だ。今回はMTBの整備ができていないので歩きで行って走れそうかどうか調査 という名目で行ってみよう。
単にMTBで走れるから行きたいだけではない。峠には魅力的な石仏があるのと、その周辺は
広大な砂鉄採集場所だったという歴史がある。それらを見て、感じるだけでも行く価値がある。
WEBで調べると誰もが岡山側の林道美作北2号線から取り付いている。
MTB的には鳥取側からのコースのほうが興味ある。
人形トンネルを抜けて地形図とにらめっこしながら、登山口と思われる箇所の手前に駐車する。 たまたま中国道を走っている時に、前日より大山に 登っているなかがみさんにメールをすると、現在下山中でこちらに立ち寄ると言う。 うまい具合にちょうど同じ時間に登山口に到着。 |
上の写真の矢印の箇所です | 廃屋(牛舎?)の角を曲がる |
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7月に智頭の法起菩薩堂〜森本翁商業道 を歩いたが、その時に出会った森本翁の商業道を発見、整備していたのがこのなかがみさんだった。 メールなどのやりとりは幾度かあったが、今回が初めての出会いとなった。 なかがみさんと大山に同行のYさんと共に三人で峠へ行くことに。
津山在住のなかがみさんも鳥取側からの人形峠は初めてだという。旧峠道はこの谷以外に考えられないが、
駐車場所にある橋の向こうには『(旧)人形峠・人形仙』と正解を示す看板もあった。
NHKの教育TVにあった人形劇『三匹のこぶた』に出てきそうな、ブロックを積み上げたサイロを見つつ
三叉路の曲がる。後は一本道だ。(さりげなく人形という言葉を入れてるのがにくい (^o^))
旧峠道が藪だったりとか、道が無くなっていたりなどの不安もあったが、 しっかりとした道が残っていた。道標などがあったことからもわかるが、 ここ数年のあいだに整備が行われたようだ。足元の危うい箇所などはつい最近の手直しの跡のようにみえる。 細い流れに沿ってゆるやかに登っていく。 |
峠道にふさわしい古木 | 樹齢はどれぐらいだろう |
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古道にふさわしい古木がいくつも現れる。樹木に詳しければ「○○の木ですね」と自慢げに 話もできるのだが、まったくわからない。これらの古木のように樹齢を重ねていると木肌も 変化をしていてさらにわからない。 |
谷を離れてまもなく峠 | 樹林帯から明るい峠へ |
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谷から離れると大きく掘り窪んだ古道のたたずまいになる。幾百年と使われてきた感じがする。 前方がいきなり青空となり大きな石仏が見えてきた。 ここが中央分水嶺上にある人形峠だ。 休憩を挟んでゆっくりペースで55分。
まだ石仏の正面には立っていなくて後ろから見ているのだが、石仏を挟んで西には人形仙が大きく見える。 周辺を見るといかにも砂鉄を摂っていたような地形をしている。 そういえば峠に着く手前に奇妙な石垣もあった。水を貯めていたのか、あるいは カンナ流しの水路の跡なのかも・・・。
石仏の背後はいまだに草木も生えていないザラザラの真砂土の状態だ。20年前の同じアングルの写真(当時買った登山ガイド本)を 見ると、その範囲はさらに広くて、奥に見えている山腹までも裸地でまるで砂丘でも見るような感じだった。
石仏を正面から見る。舟形光背の最上部には地蔵菩薩を表す『カ』という種字がある。 そのお姿は立像だが普通の持物ではなく、赤子を両手で抱きかかえている姿だ。 この石仏の呼び名は『母子地蔵』となっているようだが、石仏の種類としては子安地蔵と いうカテゴリーに属する。
峠にある石仏としてはめずらしいものと見られがちだが、私のよく行く播州周辺にも
子安地蔵は案外とある。峠になぜ子安なのか?往来の安全を願うのが普通だから
子供を抱く姿の仏は奇妙ですらある。なんらかの意味があると思うのだが・・・。
ただ、ここの地蔵に関してはいくつかの伝承があって。この姿をしているだそうだ。 林道美作北2号線側の登山口には看板があって、その一つが紹介されている。 『・・・人形峠で赤子を連れた婦人が休んでいて、ふと目を覚ますと子供が人形に すりかわっており、女の人も子供をさがして迷い二人とも行方知らずになった伝説があり、 これを供養して作られたものではないか・・・』とある。 (ただ、伝承が複数あるということは、後付でそれに見合うような伝承が作られたのかもしれないが・・・) 天気が良すぎて陰影がないために光背の文字が読み取れない。向かって右側は『天下泰平』? 基台に正面、左右にも彫り文字がある。『文化五(1808)年』、『三界萬霊』などがかろうじて読める。 村の名前なども彫られているが、マージャンの盲牌が出来れば読めるかも?これはもう地元の図書館などに行くしかなさそうだ。
子供を失った婦人の伝承が事実?だとすると、それは1808年以前の事というわけだ。
その頃の峠はどんな風景だっただろうか。これはたやすく想像できる。
砂鉄採掘場だったこの峠には
周辺には木々はなく、それこそ荒涼たる山稜が広がっていただろう。
では、砂鉄採掘の人々であふれかえっていてにぎやかな峠だったか?それは時期によって違う。 砂鉄採掘は多量の土砂を川下へ流してしまうので、田畑が荒れてしまう。 そこで収穫が終わって雪が降り積もるまでの案外短い時期に集中していたと思われる。 農作業から解放される農民もアルバイト感覚で参加していたはず。 前述のガイド本を読み返すとおもしろい記事があった。それは旧暦の十月のことを 『神無(かんな)月』と呼ぶのは周知のことだが、これはカンナ流しを始める時期と一致する。 出雲に神々が集まるので神無ではなく、砂鉄採掘作業の開始時期を表しているのではと書かれていた。
石仏の前には線香台あり
登山に来る人がお参りするのだろうか、お賽銭がたくさんある。この台の横手にも文字があり
『明治十二(たぶん)・・・』とある。少なくとも明治までは往来のある生きた峠だったことがわかる。
Yさんを峠に残してなかがみさんと二人で林道側の登山口へ行ってみる。峠からちょっと下ると 湿原になる。季節さえ良ければいろんな花が咲いているのだろう。ここには人形仙への分岐がある。 ほとんど沈みかけている木道に足を預けながら湿原を抜けるとダブルトラックほどの道になる。 ここはMTBは100%乗れ乗れだが、鳥取側のルートのほうがテクニカルでMTBを操っている気分になる。 しかしよく乗れても65%ぐらいか。林道美作北2号線まで来て登山口を確認して引き返す。 頭の中でこの峠を周回するルートを思いつく。もちろん史跡満載の、 そういうたぐいのことに興味のある人にはおもしろいコースだ。 帰路にはその舗装路の人形峠(旧名は打札峠という)を通過。日本で初めてウラン鉱床が発見された碑もあるし、 動燃の施設もある。旧人形峠は砂鉄採掘という当時のお宝として人々を集めたが、同時に田畑を荒らす公害の元でもあった。 今居る人形峠はウランというお宝?を採掘した反面、ウラン残土も野ざらし、採掘に従事した地元の人の 健康被害もそのままで現在に至っているという。なにやら因縁めいたものを感じる。
今回の人形峠の地図は
こちら(約85k)
でごらんください。 |