はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『大背』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 7. 8. 日曜日 雨後曇り 気温 暑い
今週も智頭の山に登るつもりで車を走らせる。県境(岡山側)まで晴れだったのに 鳥取に入って智頭に着くと雨だった。 しかたなく林道を走ったり、道ばたにある石仏を見たりしながら時間をつぶす。
雨は上がったもの時間はすでに10時半近く。しかたなく予定を変更して、
2年前に訪れた
法起山(法起菩薩堂)を
再訪することにする。このときは、法起堂への道を間違ってしまいお堂を見るだけで
終わってしまったので今回はそこから県境の尾根まで歩いてみたい。
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スタート地点は前回と同じ |
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『松尾山 法起菩薩道 堂迄五町』という大きな石碑がある。 この林道の奥には那岐山の登山口があるので、そこから登るハイカーは 必ずこの石碑を眼にしているはずだが、みんな素通りしているようだ。 おかげでWEBでファーストレポートのチャンスを得た・・・というか、 そんなんに興味を持つ方がおかしい?
10時40分スタート。
初めて来た人は登り口がぜったいにわからないと思う。石碑の真上は『流れ谷』に向かう林道なのだが、
それを行ってしまうだろう。正解は写真にあるように「ここが?」と思うような
斜面をよじ登るのだ。薄い踏み跡を探し当てると目の前にトタン小屋が見える。
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この小屋が見えたら右に | 二丁の道標 |
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なにが納められているのかわからないが、この小屋が見えたら右にある踏み跡を行く。 すぐに『四丁』の道標があって、これが参道だというのが確認できる。 入り口にあった石碑に『堂迄五町』とあったのでこの『四丁』は矛盾がない。
『三丁』を過ぎるとちょっとおもしろい丁石がある。『二丁半 これで半分 一寸一ぷく』と
文字が彫られている。『二丁』、『一丁』と過ぎて大岩が現れるとお堂は近い。
前回同様に石垣の脇を通って到着。11時08分。
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石垣を回り込んで・・・ | ○の所にあったお堂 わずかな残骸しかなかった |
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着いてみて驚いた。磐座の割れ目にあった法起菩薩堂は2年前よりさらに崩壊が進んでいた。 というか、そこにはもう何もなくて、屋根の部分もバラバラになって地面近くまで落ちている。 2年前にも「町指定の文化財がこんな状況ですよ〜」と智頭町にメールしたのですがなしのつぶてでした。 たぶん教育委員会の誰も見に行っていないのでしょう。これって地方文化が消滅するのを目撃したってことか?
ここまで書いてハタと気が付く。そもそも法起菩薩のことを知っている人ってほとんど
いないのでは?・・・と。
修験で有名な役行者が葛城山で修行中に出会ったのがこの法起菩薩だった。 したがって、法起菩薩は最初は修験の仏と言ってもよかった。 後に、役行者は大峰で蔵王権現を感得したために、そちらのほうが有名になってしまったが・・・。 (『蔵王権現和讃』には法起菩薩の化身が役行者と書かれている。また、播州ではおなじみの 法道仙人と法起菩薩も関連がある)
役行者が修行した葛城山(現在の金剛山)にある転法輪寺の本尊はこの(写真の)法起菩薩だったが、
明治の廃仏毀釈という最悪の難にあってしまう。胴体は打ち砕かれたがかろうじて頭部のみが残ったのだ。
(頭部だけ見ても、いかにすばらしい仏像だったのかがわかる)
その胴体部分には六本の手があり、六つの持物の中には農具もあったという。
そのために農業の神として害虫駆除の霊験を求めて各地からお参りが絶えなかったという。 この智頭の法起菩薩堂もそういう経緯から勧請されたのだ。 当時、村民を始め近隣の村々からも熱狂的に迎えられたことだろう。 そのとき勧進されたのは、絵像なのか、仏像なのか、お札なのか、何も残っていない現在では もうわからない。ある地方などは転法輪寺境内の土を持って帰ったという話もある。 (それって甲子園か!!)
ちょっと興奮気味に書いてしまったが、希少な法起菩薩の史跡が失われたことは
計り知れない損失だと言いたいのだ。
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地面に小さな石の鉢が | 磐座の上から見える風景 矢印付近が極楽寺 |
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2年前に見た木鼻も無かった。地面に何かないかと見ると、手水鉢と言うにはあまりに小さな石の鉢が あって『奉上』と彫られていた。ほんとはお堂のあった岩の裂け目まで登りたかったが 今朝の雨に滑りそうなのでやめる。そのかわり岩座の裏側をたどって岩の上に立ってみる。
岩の上に木が生えていたがその間からは宇塚、五月田(極楽寺のある辺り)が見えた。
ということは、当時こんな雑木が生えていなければ里からこの磐座が丸見えだったということだ。
そこに勧進した仏を祀ろうと思いついたのはしごく自然な成り行きだっただろう。
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石段があった | 快適な尾根 |
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さて、ここからは鳥取と岡山の県境尾根を目指す。磐座から少しよじ登ると 異様に平坦なピークに到着する。11時40分。ここから県境までは100mほどの高低差しかないので 楽勝だ。その一歩目で驚いた。10段ほどだがきれいな石段がある。ということは この平坦ピークには何かあったのだろうか。う〜ん、きっと誰に聞いてもわからんやろなあ・・・。
県境までの尾根の途中には松尾山城跡があるらしい。尾根は歩きよくてペースも快調だ。
小さなピークがいくつかあるが、そのどれも山城跡とは言えない感じだ。
いままでにも何十と山城跡あるいは砦跡を見てきたが、それらにあるような切り通し、
曲輪などがまったく無い。
結局どこかわからずじまいだったが、下山後、登山口にある標識を見ると『標高699m・・・』とあって、 地図の『D』付近になる。
そのまままっすぐに県境尾根まで駆け上がるのかと思ったら、道は谷を巻くように右に行っている。
すると、その先で太い赤テープの印がある道と合流した。「えっ〜、こんなところに何の道?」って
思うようなきれいな道である。後でわかったのだが(テープに名前が書いてあった)それは『森本源治郎翁商業道』という
ものだった。
そのまま10mほどで県境尾根になる。12時30分。県境はうっすらと笹があるものの、歩くには支障なさそうだ。 ちょっと南にある四等三角点『加智』に立ち寄るつもりだったが、気になっていた商業道は県境からほぼ 水平に三角点の西の尾根に繋がっているようだ。とりあえずそこまで行ってみて、そこから三角点へ行こう。
商業道はほぼ水平に三角点ピークの北斜面を移動していた。ちょっと笹ヤブっぽい箇所もあったが ほどなく鞍部の『F』に到着。商業道は津川方向に続いているようだった。 ここでじっくりと周囲をよく観察するべきだった。というのは、813ピーク方向にも道があったからだ。 ひょっとしたら、これは古屋へ下っている道があるのかも・・・?? お腹も空きすぎて血糖値が下がっていたために三角点ピークへ向かって急ぐ。
ほんとはピークとは言えないような場所です。展望もないし、とりあえず食事だけさっさと済ませて 無線で呼びかけてみるも空振り。ならばとオカリナを楽しむ。コンロなどを片付けて 地図を広げて下山ルートを考える。
730ピークには送電線鉄塔があるので展望もあるかも。しかも巡視路があるから下山は超簡単のはず。
あるいは733.3の三角点ピークから尾根を伝って下山もよさそうだ。
しかし、それ以上に気になるのがこの商業道だ。河津原方向に下っているのは確かだが、
いったいどこに下っているのだろう。よっしゃ、こいつを行こう。
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邪魔な木が切られている | 『H』より稜線から離れて行く |
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『E』からちょっと戻ったところで、私の歩いてきたルートと商業道とは合流している。 その商業道に入る。県境尾根のちょっと下あたりを平行するようにある。 3度か4度ほど尾根と交わる箇所があって、その一つは古屋方向に降りられそうな感じもした。 誰が整備をしたのか、枝が刈り払われておりなんとか歩ける。そうでなければ 覗いただけで入り込むのは躊躇しただろう。しかも、ここの赤テープは要所だけに付けられており、 山慣れた人の手によるマーキングだとわかる。 数メートルおきに付けている兵庫のどこかのバカグループとはえらい違いだ。
『H』には平坦地があり、その脇をすり抜けるように赤テープが誘導してくれる。いよいよ尾根を離れて下って
いくようだ。テープに『森本翁商業道』と書かれていたので、よもやと思い
家に帰ってから検索してみると藪漕ぎ専門倶楽部
というブログがヒットした。この古道の詳しいことはそちらをごらんください。
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堰堤の先で崩れ箇所あり | 右下には林道がある |
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周囲は植林で道は淡々と続いている。所々細くなっているところもある。 谷を巻く箇所ではどうしても崩れていたりするが赤テープが誘導してくれる。 古く小さな堰堤を越えて所で崩れた所があったが乗り越えると道は続く。 右下には林道が見えてきたがしばらくはこれを歩く。 |
字の書かれた木柱あり | 巡視路入り口から舗装林道へ |
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『西宇塚又毛谷』と書かれた標柱があった。法起堂登山口にあった標柱には『股ヶ谷は古来 物見村古屋に 通じる』と書かれていた。漢字は違うが同じ場所を指していると思う。 これから想像すると商業道は古くからソマ道、峠道を改修したものだろうか? 境界尾根で見た古屋へ降りられそうな踏み跡はこの記述の道だろうか?
プラ階段と遭遇する。中国電力の巡視路だ。地形図から想像するとまっすぐに730ピークに
登っているように思える。商業道はまだしばらく林道に沿ってあるようだが、この巡視路の
入り口から林道に降りる。
林道は舗装されているものの、葉っぱ、倒木の欠片などが散乱して、さらに滑りやすくて歩きにくい。
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植林の奥に石仏発見 | 林道を通らずに |
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もう一本の林道と合流したところで左下の植林の中をなにげなく見るとなにか 白い石が見えた。あんな所に石仏が?斜面を駆け下りて近寄ってみるとまさしく石仏だった。 彫られた文字を読んで思うところがあり、急いで駐車場所へ帰る。14時45分。
思うところとは、この周辺にある石仏のこと。
まず『か』の橋のところにある石仏。2年前にも紹介したものです。
自然石に彫られた地蔵菩薩。『文化四丁卯(1807)年』とあり、像の下に『右ハ 物見道 左ハ やま道』とある。 問題は当然『物見道』という記述だ。 つまり橋を越えたたんぼの向こう、私の下ってきたルートを指しているのだ。 |
暗い植林の中にあった道標の地蔵菩薩 | なんとも味のある石仏です |
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そして、その方向に進むとあるのが、植林の中にあった自然石の地蔵菩薩立像。頭頂部に『カ』という 地蔵菩薩の表す種子が陰刻されている。本体は蓮華座の上に立ち、右手に錫杖、左手に宝珠を持っているようだ。 特徴的なのは太い線刻で簡素に表されているが、顔の部分だけ薄肉で彫られている。 表情はわかりにくいが目鼻口がかろうじてわかる。
肝心の文字だが『右 □やまみち』、『中 ものみこし』とある。これまた物見へ越すための
道があったという証拠。しかし、この中という字がなんとも曲者だ。
この石仏の上にも文字塔がある。2年前に河津原のおばあさんから教えてもらっていた石碑だ。
今回はじっくりと観察してみたい。
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杉の巨木のたもとにたたずむ石碑 | 牛馬の往来の安全を祈るものです |
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ちょっとした広場になっており、吉ヶ谷の吉ヶ原と呼ばれている。そこにはとてつもなくでかい杉の古木がある。 石碑もでかいのだが、杉があまりに大きいためにちょこんとあるように見えるのだ。 頭頂部には大日如来を表す『アーンク』その下に『日光明大日如来』。右には『カーン』『不動明王』。 左には『ウーン』『愛染明王』とある。『文化十(1813)□六月日』。横手には『世話人 治郎左エ衛門』。 ここのハイライトは愛染の下にある『これよりうね迄十四丁』という文字。 『うね』とは尾根のこと。先ほどの二つの石仏と併せて、これらの道標はここから十四丁先にある 古屋へ降りる峠の存在を表しているに他ならない。 その峠への道が今回の商業道なのか、はたまた別の谷、あるいは尾根を登る道なのか。 次回訪れた際にそれを見つけることができればうれしいが・・・。 雨の予備コースとして訪れたのだが、またまた中身の濃い(マニアックな?)内容になってしまったようだ。
今回の法起菩薩堂〜森本翁商業道の地図は
こちら(約150k)
でごらんください。 |