鐘が坂隧道の石仏

所在地:氷上郡柏原町
氷上郡柏原町と篠山市追入を結ぶ鐘が坂トンネルの少し下には新しいトンネルが工事中である。 反対に上には鐘が坂隧道がある。もちろん現在は廃道ですが、最近の調査によって日本で一番古い ことがわかり、この周辺を公園化しようというもくろみもあるそうだ。

柏原町側から見て現役トンネルの右手に旧隧道へ続く道がある。車止めをやり過ごして進んでいくと 鉄骨で出来た展望デッキがあった。古いものでしょうけど案外しっかりしていて乗っても大丈夫だった。 ここからは金山の頂上直下にある鬼の架け橋という奇岩が見えるといううたい文句だったが 架け橋周辺の木が育っているのであまりよくは見えません。

問題の隧道へやってきました。今回ごいっしょ頂いたのは地元のたぬきさんご夫婦です。 特におとうさんのほうは高校のクラブでここまでランニングをよくしたということです。 隧道の入り口左手には石碑が二基あって、一つはこの隧道が造られる際に寄付金名簿、 もう一つは『鐘坂隧道碑』となっていて、その漢文調の長文を短時間では読み切ることは不可能です。

そして石仏(石碑を含む三体)はその真向かいにある一段高い所にあった。足元の土砂が崩れたら石仏も転がり落ちそうなので なんとかして欲しい思いです。というのも右の石仏はかの『法道仙人』その人だからです。 法道仙人の木像とか絵像とかはあると聞いていますが、石仏に関しては私が知る限り三体しかありません。 その一体がここにあります。

立像で頭には頭巾、右手の持物は不明、左手には杖。さすがに印度の人だけあって?顔の彫りは深い。 光背部分に彫られている文字を見てみる。『為金坂往来 安全請(請のつくり部分は月ではなく日のように見える)  法道仙人轉 大般若』意味はよくわかりませんが、法道仙人の文字があることから、この人物が間違いなく その人だと確認できます。『願主 法橋  山内玄達』裏手には『干時(ときに)文政十三庚寅年(1830)六月』 とあった。(文政十三年は地震など諸国に変が多く、十二月十日に天保元年に改元しています)

真ん中の地蔵菩薩には『天下恭正 國土`安全』『宝暦四甲戌(1754)二月吉日』『但馬生野銀山施主足立清兵衛』 とある。つまり生野銀山で採れた銀をこの峠道(隧道のさらに上にある峠)で運んでいったための寄進だったのでしょう。 (現在の地図で生野からこの鐘が坂まで、どういうルートを辿ったか確認・推理??してみるととても面白いです)


一番左にある石碑はこの隧道のさらに上にある旧峠道の道修復を記念した供養塔のようです。 これも漢文調の長文で判読している時間はない。正面下に『金坂道普請 頭取田周治』 裏には『文政六未年(1823)十一月吉日』と彫られています。

三基とも峠付近にあったと思われますが、いつからかこの隧道の入り口に移動したものらしい。 法道仙人は生野とは縁が深い。その仙人を信仰する銀山に関係ある人によるものだろうか?

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