シビレ山山名考

私はあんまりネットで山の検索はしません。それは他人の山レポートには自分の知りたいことがあまりないからです。 それぐらい中身の薄いレポートばかりで、ひどい時には私の山レポートのルートを丸写しにして、 さも自分が発見したようなレポートを見ることもあり、 辟易してしまうことも多々ありました。
2021年に歩いたコース

今回たまたま見たネットで神戸にあるシブレ山とかシビレ山の山名由来が謎だということで、その解答としてのレポートも多くありましたが それらのほとんどがネットのどこかからのコピペでした。私が見るにつけそのコピー元自体が間違っているというもの。 残念ながら『ウィキペディア(Wikipedia)』も間違っていました。 ネットでのコピペは安易にするものではありません。 なので、それに関して私の知る限りのことを書いてみたいと思います。
シビレ・丹生山・シブレの位置関係

そもそもシビレ山に連なる丹生山がそもそもの発端となります。この山にある神社の祭神は丹生都比売命(にふつひめのみこと) であり、辰砂(水銀)そのものを表しています。水銀は冶金にとってはとても重要な金属でそれを精錬できる大陸からの技術者がもてはやされたのでした。 この地にいたという丹生一族もその一派だったのでしょう。

神功皇后が新羅を討つための航海途中、この姫から霊力のある赤土をもらって船に塗りつけたという。その故事から 我々はここに辰砂が採れたと思い、さらに水銀はご存じのように人の神経を犯すことが知られていてそのためにシビレ(痺れ)山という 山名になったと決めつけたのでしょう。

平成6年の神戸市北区が発行した『改訂版 北区の歴史』に 杜山悠氏(故人)という作家であり、この地域の有名な郷土史家がいろいろと調べられていて、 鉄丹(鉄の化合物)なのか辰砂(水銀)なのかわよくわからないとこの本(平成6年)では慎重な結論をされています。


それより13年前の昭和56年発刊の『兵庫史を歩く』という本では前述の杜山悠氏が『水銀の女神と童男行者』という項を書いています。 そこでは氏はずいぶんと強気な発言をされていました。 というのも丹土だと思われる帝釈山の東南の裾にて採取したサンプルを京都大学で分析してもらったところ 水銀含有率3.41PPMということがわかった・・・とあります。 で、氏は当時結論として『丹生山は水銀の採れる山だったのである』と結論付けている。

私はここでほんとに水銀が採れたかどうかはすごく疑問でした。 私が思っている採れないであろうという根拠としては古来から水銀鉱山がいくつもある中央構造帯から離れている。 (それを示すかのように丹生都比売命の神社はこの構造帯上に多くある) そして実際に辰砂(水銀の鉱石)を採ったという記録も跡も見つかってない。 鉱石、鉱脈に詳しい知り合いに聞いてもこの近辺でそういう鉱脈は無いと断言されました。

さらに言うと杜山氏が高らかにうたった3.41PPMなる含有率。これは100万分の3.41ということにほかならない。 単純に計算すると1t(1000kg)の丹土から3.41gの水銀しか採れないということでは?? 現代の技術ならともかく古代の技術で精錬できるものか?できたとしても採算にあうわけない。 氏は後にこれがわかったためか平成6年では慎重な記述となったのではないでしょうか。


さて、本来の疑問に戻ります。シビレ山、シブレ山の山名の由来はなにでしょう? 実は私にもまったくわかりません。ただ、この地図を見てください。

昭和51年の『丹生古道之図』なる地図には現シブレ山のところが『痺の峰(シビレ山)』とある。 この地図には当然ながら山田川を挟んだ真北にも本家と思われるシビレ山もある。さらにはもう一カ所シビレ山がある。 つまり、この周辺には三つのシビレ山があるのだった。

三木の郷土史家の方たちが出版している『三木史談』に興味ある記事(松村義臣氏)があった。 そこには、明治19年測量の地図にはすでに現在のシブレ山を指して『痺(シビレ)』の山名が記載されていたとある。 そして時代が下がって昭和22年では丹生山の西側に初めて『シビレ山』の表記が現れたとある。 そして上の丹生古道之図(昭和51年)と引き継がれ、現在では国土地理院の地形図に シビレ山(465m)、 つくはら湖を挟んで南にシブレ山(347.5m)となっているのだった。 以下、本文まま。

ということは現在のシブレ山のほうが元祖ということになりはすまいか。

シブレ山にある紫大明神その銘板

シブレ山の山中に『紫大明神』なる場所がある。社名と赤い鳥居からして稲荷の類だと思われる。 その横手にある銘板には『高きシビレの峰にて・・・・』という一文があった。 多くのハイカーたちはこれを見て不思議に思わなかったのだろうか?シブレと思って登っていた山に シビレの文字がある。

23年前にここの世話役のおじいさんを訪ねてに聞いたことがある。 すると「この山こそシビレでシブレではない」と強くおっしゃった。 この発言は面白い!!つまりはここは丹生山のそばでは無いので 水銀の害から命名されたシビレ(痺れ)ではないという確率が高い!!

・・・そこで、ここからは私の勝手な推測である。あいまいさは、土地の人々の記憶の差に由来するし、 一つの峯に固定して 区別しようとするから混乱が生ずるのである。丹生山を含めて西側を南北にならぶ一連の峯つづきを、 そう呼んだものであると考えれば何でもない。南に離れた『痺の峯』も、地図でこそ谷を隔てているが、 御坂方面から見れば一つづきではなかったか。大きな山塊を指してそれら全体をシビレの峯と称したのだろう。 シビレとシブレ。似たような山名のピークが谷を挟んで存在しているいう謎は、私の勝手な推測が 案外正解のような気がする。

どんとダムに沈んだ洞窟

これはおまけです。昭和62年にこの地に呑吐ダムができました。そのために箱木千年屋は移築されましたが、 この写真にある『潜竜洞』という洞窟はダム湖に沈んでしまって見えません。いつかダム湖が渇水で干上がったらどこにあるのか確かめたいのですが・・・。 この洞窟は三木城の井戸につながっているという伝説もあるし、瀬戸内海にも通じていると聞いたこともあります。 実際入ってみたい!!

この洞窟と同様になくなったものがもうひとつ。それはダムの名称のもととなった『呑吐滝』。これは写真がありませんが 滝をあつかう某サイトでは違う滝を呑吐滝とアップしている人もいるようです。



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