雲暁に関する三つの寺

2014. 7.13.  日曜日  

南北朝から室町に掛けて居たと思われるこの雲暁という僧に興味を持ったきっかけは 去年の4月に、ここ山南町五ヶ野で岩屋山清水寺跡 を発見することができてからです。以前から岩屋山のどこかに寺跡があるということはコアな 山歩きの人のあいだでは話題になっていたのです。

下山後、駐車場をお借りしたSさんが我々の帰りを待っていてくれて、見せてくれたのが 『丹波志』の一節。そこには『岩屋山の中腹にあって足利尊氏の頃、僧雲暁が開いたとされ、・・・ 中略・・・この堂の後の岩より清水が湧き出た・・・』とあった。

ここで初めて雲暁という僧がこの清水寺の開祖であるのがわかった。さらに清水寺という寺名が付く場合、 わき水が関連していることが多いのは周知の事実であり、実際に岩屋から水がしみ出ているのも確認出来ています。

清水寺跡にある水の湧き出る岩屋

この清水寺の山号である岩屋山を見てすぐに思い出したのが同じ山南町小川地区にある岩屋山石龕寺である。 山号がまったく同じであるし、そもそもという字は仏像などを納めるための石窟の意味です。 五ヶ野の人たちは自分たちほうを『西の岩屋』と呼び、石龕寺を『東の岩屋』と呼んでいるようですが、 石龕寺へ訪れて聞いてみるとそもそも五ヶ野に岩屋山の山号を持つ寺があったことすら知らないようだった。
石龕寺岩屋の拝殿中には毘沙門天石仏あり

その石龕寺の岩屋がどのようなものか行ってみる。寺の境内から東の山へ向かって山道を辿ると 中腹にそれはある。現在は奥の院とされており中には毘沙門天の石仏がある。 この奥の院が石龕寺発祥の地であり、開基はなんと聖徳太子です。 なぜ、太子が開祖で毘沙門天が祀られているのかはこんな話がある。

仏教を奉じるか、神道を守るかで物部守屋と蘇我馬子が戦となる(聖戦というよりは一種の権力争いだけど・・・)。 仏教擁護派である太子もこの戦に巻き込まれることになり、自ら奉じる毘沙門天(四天王の一人)に助けを求めるのだった。 日本書紀にはこうある『いまもし我をして敵に勝たしめば、必ずまさに護世四天王の、おんために寺塔を建つべし』と。 大阪にある四天王寺はこの約束の下に建てられたお寺です。

2004年に机峠を訪れました。
そして聖徳太子を真似て机を出しました

戦には勝利したものの(当時、太子は15才か、16才ぐらい)、太子の兜に付けていた毘沙門天の像は天高く飛んで行ってしまった。 その毘沙門天を探して太子は現在の西脇のとある峠で机を出して占いをする。すると石戸山方向に光りが見えたので 行ってみるとこの岩屋に探していた毘沙門天があったので、ここに石龕寺を開いたという逸話がある。 ちなみに前述の峠は現在も机峠という名前が残っています。

開基に関してそういういわれのある石龕寺ですが、もう一つ大きな出来事がある。それは南北朝の時代、 足利尊氏が弟の直義と争い(観応の擾乱)に敗れ播磨に逃げ落ちる。その途中に長男義詮ら2000騎を当山に 留めたというのが山門前の案内板に書かれている。 驚くべきはそのときの院主が雲暁だったと案内板に書かれているのです。

ここで、西の岩屋と東の岩屋が単に山号が同じだったというだけでなく院主が雲暁という同一人物が 治めていたという事実が判明しました。帰宅後、興奮冷めやらぬうちにネットで『雲暁』を検索すると さらにおもしろい事実が判明。

京都の雲ヶ畑にある志明院という寺がヒットし、それによると雲暁さんはそこの院主だったというのです。 この時点で時系列的なものは不明なれど、 これによって雲暁さんは三つの寺に関係することがわかったのです。さらに、志明院の 山号も岩屋山でした。

郷に入れば郷に従うべし?寺務所周辺はOK

こうなると志明院へ行ってみるほかはありません。京都でも雲ヶ畑というとすごい奥地。 離合困難な細い舗装路を延々と走り、その終点とも言うべきところが志明院でした。 事前にわかってはいましたが、この寺は修験道場のため境内の撮影禁止というのはいかにも残念です。 というのも山門の奥にある岩屋は山号にふさわしいすばらしいものだったからです。

この寺は 役行者開基で古くから修験道の行場となっていた。 平安時代に栄えたものの958年に伽藍焼失。 そして南北朝の時代に、当時の僧雲暁が尊氏の帰依を受けて伽藍再興されるのだった。

志明院山門。これより奥が修験の行場です

では、なぜ雲暁が尊氏の帰依を受けることになったか?雲暁は勝軍毘沙門の法を修得していたという。 歴史上の武将たちはみなその毘沙門の力を欲っしていたのだ。後の世に出てくる上杉謙信などは 自らを毘沙門の化身だとし、その旗印も『毘』としているぐらいだ。 それもこれも聖徳太子が毘沙門の力により物部守屋との戦いに勝利したことに由来する。 尊氏もそれらの例に漏れず毘沙門の法を得ている雲暁を保護したのだろう。

そして、いくつかの出来事を時系列に整理してみるとおぼろげながらわかることがある。

  • 1349年、尊氏の帰依により志明院の伽藍が再興される。
  • 1350年、志明院雲暁は室町幕府より丹波國小川庄を寄進される。
  • 1351年、観応の擾乱により義詮ら石龕寺へ逃げ込む
  • 石龕寺山門奥の院の近くにある

    足利尊氏と弟の直義との壮大な兄弟げんかとも言える観応の擾乱は弟直義の勝利で、 尊氏と息子の義詮らは京都から播磨へと逃げる。尊氏は播磨の書写山へ逃げ、義詮らは石龕寺へ転がり込む。 なぜ別の場所ではなく、書写山と石龕寺だったのだろうか?

    尊氏は播磨国守護赤松範資を頼って書写山へ行ったのだが、義詮らはなぜ石龕寺へ? 答えは上の時系列で想像できそうだ。どうやら丹波小川庄を寄進された雲暁は志明院から石龕寺移ったのでは なかろうか(あるいは二院を同時に束ねていたのかも)。そこへ寄進した本人の義詮らが転がり込んでくるのは 当然と言える。

    以上のことから石龕寺と志明院は強いつながりを持っていたことがわかった。 では、二つの大きな寺の院主を任されながら雲暁はなぜ清水寺を造ったのだろう。 ここからは全くの想像だが、志明院という修験の寺の出身である雲暁は 石龕寺とは別に修験の道場を造りたかったのではないだろうか? おあつらえ向きに志明院のそれに匹敵するような大きな岩屋が五ヶ野にあったというわけだ。

    現在の岩屋神社

    以上、私の想像も含めて雲暁と三つの岩屋山との関わりを書いてきました。石龕寺、志明院は今も 健在ですが、清水寺はいつからか無住となり(それでも毎年山上で延命寺住職と行者講、住民たちでお祀りをしていた)、 荒廃も進み、管理上の問題もあったので昭和30年に里へ下ろすこととなった。

    山上にある頃の記述を見ると『馬頭観音、毘沙門天、開山雲暁木像を安置した東堂とその西の 不動明王、金伽羅童子(こんがらどうじ)、勢以多賀童子(せいたかどうじ)を祀る不動堂がある。・・・』 とあるのだが、現在の岩屋神社はほぼその通りの配置となっている。

    大行事大権現こと毘沙門天客人大権現こと馬頭観音聖如大権現こと愚中和尚像
    あるいは雲暁禅師か

    いよいよ待ちに待ったご開帳だ。まずは東堂を見る。開帳前に扉の格子窓から覗いたときは垂迹名の 書かれた札しか見えなかったが、今回は遠目ながらも仏像そのものが見える。 それは『丹波志』にあるとおりのものだった。しかも保存が良いのか、あるいは補修をしたのか 色もきれいだし、傷んだ所も見えない。毘沙門天は勝軍毘沙門の法を修得した雲暁にとっては祀られて 当然の仏像だ。そして写真ではわかりにくいが馬頭観音は三面二臂という珍しい像容だった。 いずれも何時の頃のものか気になる。

    僧形の像は最初は雲暁だと思っていたのですが(丹波志の記述にはそうある)、村に伝わる資料では 中興の祖と言われている愚中和尚の像となっているようだ。また、開基は聖徳太子の弟である穴太皇子 となっている。これは東の岩屋である石龕寺が聖徳太子その人が開基とされていることから、西の岩屋は その弟が開基としているようだが、正史では聖徳太子の同母弟、異母弟を合わせても穴太皇子なる人物は いない。

    早尾大権現こと不動明王

    不動堂はさらにすごかった。二童子を従えた不動明王立像。二童子は向かって左の赤いのが大宮大権現こと勢以多賀童子、 右の白いのが気比大権現こと金伽羅童子だ。中央の本尊である不動明王がすごい。背の迦楼羅炎が回り込んで 顔の前まで迫っている。右手には三鈷剣、左手に羂索、岩座に立つ姿はオーソドックスだが、身体の色が・・・・。

    本来不動の色は青黒いものだが、色が剥げていることを考慮したとしても元の色は白のように思える。 江戸には五色不動なるものがある。地名としてもよく知られた目黒(目黒不動)をはじめとして 目赤、目青、目黄、目白の五色だ。頭に目の文字があるので目の色が五色なのではない。五行思想によって 東西南北と中央を表す結界を意味する(相撲の土俵上にある房の色が例)。それからするとこれは白不動と言えようか。

    延命寺の住職がお経をあげる護摩炊きのはじまり

    毎年7月に行われる岩屋神社の護摩炊きが13日に行われると教えてもらう。同時に仏像のご開帳があるので どちらかというとそれが目的でもある。その詳細は上の記述どおり。 写真を撮っているあいだにも護摩炊きは始まる。
    天に昇る煙御神酒と煮干しをいただく

    不思議なのは本来、清水寺なので里に下ろされてからも寺としてあるのかと思ったら、岩屋神社として 祀られている。そのために不動をはじめとする仏像も垂迹の名前の札が掛かっているのだった。 その辺の理由を聞きたかったのだが聞けずじまいだった。 ひょっとしたら明治の廃仏毀釈を逃れるために当時から神社の形に変えていたのかも・・・。
    昭和32年移転時の写真

    休み堂の中も見物させてもらう。額に飾られた写真は里に降ろしてお堂の棟上げをした昭和32年の写真だった。 660年も前の雲暁が開基した修験の寺が昭和の御代まで続いていたという証拠の写真でもある。 今回、雲暁の仏像を志明院、石龕寺の両関係者の方々にも見ていただきたかったが その思いは伝わらなかったようで残念だった。

    それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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