黒松古傳 『黒松簡易小学校跡地』

2011年に帰省したときになにげなく立ち寄ったのがここ。村はずれにある黒松漁港に向かう途中、右に簡易舗装の急な道を上り詰めた 高台が『黒松簡易小学校跡地』だ。法正寺というお寺の北側に位置する高台で、現在は墓地になっており区画された空き地が目に付く。 車を止めて外に出て周囲を眺めると さらに一段小高いところには『忠魂碑』があった。見た目は新しいが昭和13年建立で陸軍大将宇垣 一成の書とある。
黒松簡易小学校跡地

なにか学校の跡地を示すものがないかと探し回ると江津市が建てた看板があった。 それには『明治八年、学制改革により黒松簡易小学校が開校され、地区の子供達の学校教育が開始された。 しかし、明治四十三年、失火により消失し現在の公民館広場に移転され昭和五十五年、江津東小学校へ 統合されるまでの百有余年の歴史を刻んだ。・・・』とあった。

明治四年に廃藩置県が行われ、翌五年に学制が定められたという。このスピード感は 明治政府が何にもまして教育を優先させた証ではないだろうか。実際に学校が全国に整い始めるのは 明治八年というから、こんな辺鄙な田舎の黒松でも明治八年に学校ができたというのは驚きだ。

さて、この小学校についてもうちょっと詳しく知りたい。たとえば私のおじいちゃんはこの 校舎を利用したことがあるのか?とか、どんな理由で焼失したのかとか・・・。

別角度から敷地跡を見る。ここは新校舎があった箇所?

私のおじいちゃんは明治37年の生まれ。この学校が焼失したのは明治43年の2月。 ということは入学一歩手前で学校が無くなったということになりそうだが? 本人に聞くわけにもいかず想像するしかありません。

『黒松小学校百周年 記念誌』というものがある(昭和49年の時点で百年)。 それによると、当時の学校は忠魂碑の場所にあったという。職員室を真ん中に左右に一つずつの教室があって、 1・2年、3・4年の複式学級だったらしい。その後、北側に新校舎が建てられて 明治43年2月にその事件が起きる。

島田小二郎さんという人がいました。小二郎さんは島田本家の人で (うちの屋号は『島野屋』で本家は『島田屋』と言います。このことは『黒松でたたら製鉄?』 を参照してください)、おじいちゃんにとってはたぶんいとこにあたると思う。その 島田小二郎さん(明治45年に卒業)の寄稿文が百周年記念誌にある。それはこの校舎が焼失した日の朝から始まる。

その日は寒い冬の日で雪もかなり積もっていたので午後から先生達と雪合戦をしたという・・・。

以下本文のまま。

其の夜つかれて就寝しました。その十二時前後、突然「火事だ、火事だ」の人声にびっくりして目をさまして見たら 学校が火事だとのこと、全く私等はびっくりしました。唯おろおろするのみ。

そのうち村の消防団の人が出られ消火につとめられました。 消防団と申しても昔のこと、唯一台の手押しポンプで他の村民達はバケツを 各自に持って消火に万全を期しました。隣村の吉浦からも応援に来た事でしょう。だが遂に全焼のやむなきに至りました。 せっかく新築した校舎と喜んだのもつかの間でした。

学校から見える海岸線と浅利富士

翌日カバンも持たずに登校してみたらその焼跡はみるかげもなく唯灰と前夜焼け残りの黒材が倒れているばかり、火事はほんとうに こわいものとおどろきました。それも全焼したのですからあきれて物がいえません。 かくて私等は翌日焼跡へ行って自分の教室の跡を児童が勝手に自分の机の跡らしい所を探して色々掘り出してみました。

其の時私は、自分が毎日使用していた瓦のすずりが出てきましたのでそのまま家に持って帰り現在迄記念になると思い 置いていたのですが、現在は現品はどこに有るやらはっきりしません。家の中を全部探せば出るかもわかりません。 家の押入の方を見るたびに当時の火事を思い出してなりません。

以下略。

敷地跡から黒松駅も見える

ここにあった初代小学校は焼けて無くなり、その後学校は移転新築され、 我が家のおじいちゃんをはじめ、その娘達(私の母親も含む)はその校舎で卒業することになる。 が、その二代目小学校も統合(黒松・波積・都治・浅利)されてしまい、 昭和55年にこの黒松には小学校がなくなってしまう。 それまでの黒松の村民すべての人がこの学校を卒業したと言っていいだろう。



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