はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『大名草』、『矢名瀬』を参照していただくようお願いいたします。 2018. 1.21. 日曜日 晴れ 気温 さむい
明治31年測量、昭和7年修正による5万分の一の『但馬竹田』 の地形図を見る。赤い文字で書き込みしている所は後ほど説明するが、問題は緑の点線ルートだ。 それは粟鹿の集落から山越えでダイレクトに『かい坂(けい坂)』へ続いている道だ。
これが実際にあればおもしろい!今の人の感覚なら平地を歩いて与布土から谷を詰めてかい坂へ行けば良いように
思うのだろうが、昔の人の感覚は山越えの方が時間が短くて速いという考えです。
かい坂からは大稗(神楽村)を経て播磨方面へも近いし、黒川はもう目の前という、いわゆる
代表的な盗人道(ぬすっとみち)だと思う。
スタート地点は赤土の広がる採土場から。近くにある石仏には『かんのん道』『粟鹿 西谷 女講中』とあった。 未知のルートを行くので道中の安全を祈る。9時半。 |
作業の敷地内を通過 | 尾根に登ると道があった |
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白いバンが止まっていてパワーショベルが動いていた。運転手は地元の人で事情を説明し 中を歩く許可を得る。私が行きたい道のことを尋ねるとどうやら知っているようだったが、 なんのための道だとか詳しいことは知らないらしい。
現在の地図ではここから入るようになっているが、前述の明治の地図ではちょっと離れた『あ』から
登るようになっている。
笹をかき分け金網沿いに谷道を上り詰めて尾根に出る。そこには明確な道が存在した。
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絶縁碍子が落ちていた | 道はどんどん良くなる |
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右下には林道があった。 現在の地図 でも確認。今回利用した入口が不明瞭なときはこの林道を歩こうと計画していた。 さきほど見つけた絶縁碍子はこの林道と関係があるのか?? しばらく進んでいくと分岐があった。現在の地図で『え』に下る明確な道がある。 後で聞くところによるとこの先には鉱山跡があるのだという。 |
雲海が見えた | 自転車で下ればおもしろいぞ |
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さらに進むと与布土方向に開けた箇所があった。出発時はわからなかったが今日は雲海が 発生しているようだ。その雲海に浮かぶように金梨山がある。竹田城趾はあの向こう側だ。 さらに奥に見えるうっすらと雪をかぶった山は建屋の山だ。道はさらに広くなるが杉の枝で 埋まっているので歩きにくい。 |
まもなく峠 | 峠に着きました |
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峠には10時半着。峠の名前はわからず、残念ながら石仏等も無し。実はこの峠には2011年に 衣笠城趾を経由して来たことがある。 どこからどこへつながっているのかそのときは謎だったが、今日はそれがわかって大満足だ。 さあ、続きを歩こう。 |
良い道が続く | 谷との合流点は荒れていた |
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地図で確認すると『B』地点から盗人道は不自然に高度を上げるルートになっているが周囲を 眺めてもそれらしき道は無い。ただ、正面にはちゃんと道が続いているのでとりあえずそれを歩く。 高度を上げるでも無く、下げるでも無くほぼ平行に続いていた。ただ、谷と合流するポイントでは やはりというか、土砂が流れ落ちて道は消失している。 |
『C』地点に到着 | 『C』からは下っている |
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道の崩れている箇所はあるにしてもほぼ平行なのでさほど難路ではない。11時『C』に 到着。ここから先を覗き込むと現在の地図どおりに下っているようだった。下りてしまうと 帰りが大変なのでここでお茶をしながら思案することに。 でた結論はここから『D』ポイントまでよじ登って地図に記載の盗人道と合流するかどうか 確かめることに。 |
激登りが続く | 『D』には何もなかった |
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『D』までやってきたが予想はしていたものの、道はおろか踏み跡も何もなかった。 落胆したが右手にはほぼ同じ高さぐらいに新設の林道が見えた。 まあ、せっかくここまで来たのだから817ピークまで行ってみよう。
817ピークから山頂付近を眺めてみた。ほんとはここから5分ほどであの林道に合流するのだが 今回の目的とは関係ないのでUターンして『A』の峠まで帰ることにする。 |
でかい岩塔。仏岩という名前だった | 反対側から見る |
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817からは激下りが続く。下りは方向に気をつけないと少し間違うだけで とんでもないことになる。今回のように登山道でもなく、道でもない斜面を下る場合は 下手すると命に関わる場合もある。 やがて見覚えのある岩塔に再会。下山後に西谷に住まいする90歳越えのAさんに話を伺うと 『仏岩』と聞いた。仏岩というと大稗の茅刈場のも同じ岩塔がある。粟鹿山を挟んで 同じ名前に岩があるのもおもしろい。
さらにおじいさん曰く、この辺が海の底だった頃、粟鹿山だけが水面から出ていて、
この仏岩に船を繋いでいたとか・・・。同様の話は但馬のスリガ峯にもある。スリガ峯の山名からして
船の底がわずかに水中に沈んだこの山頂に擦ったことから付いた山名だ。
和田山の鉄鈷山の中腹からは化石が摂れることから昔は海中だったことがわかる。
とにかく枚挙に暇がないほど但馬水没神話は存在するのだった。閑話休題、下山を続けます。
仏岩から下って行くとだんだんと道が良くなってくる。この道は山仕事のために前述の おじいさんたちが昔に整備したらしい。そして『A』の峠に着く。 ここからはピストンで同じルートを下っていく。 |
まもなく舗装路だ | 『あ』付近にある石仏 |
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駐車ポイントには13時40分。時間には余裕があるのでもうちょっと山の中にいてもよかったが、 パワーショベルのおじさんに教えてもらっていた西谷のおじいさんに会うために早めの下山となった。 その後、明治の地図にあった別の登り口『あ』に行ってみた。そこには石仏があった。 寒くて文字の解読はできなかったのでまた宿題にしておきます。 全体を通して中途半端な内容になってしまった感があるが、あの道が単なる山仕事の ための道だけだとはどうしても思えない。今にして思えば衣笠城趾と関連があるのかも・・・。
今回の粟鹿の古道の地図はレポートの前半部分でリンクしています。 |