はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『但馬新井』を参照していただくようお願いいたします。 2016. 5. 8. 日曜日 晴れ 気温 ふつう
特に予定していなかったのだが作畑ガールからのリクエストで登ることになった。 山頂が目的地ではなくその手前にある行者堂とそこにある岩の割れ目、 さらにはルート途中にある行場を見てみたいという。 車が複数台あれば多々良木にある登山口から登って目的の行者堂に立ち寄った後、 下山コースは岩屋観音へとか、あるいは足を伸ばして 多々良木の道の駅までも選択できるのだが・・・。 |
多々良木ダム近くにある登山口から | まずは二十四丁の石仏がお出迎え |
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結局、私の車だけになってしまったのでピストンか小さな周回コースを考えてみよう。 多々良木の登山口から9時40分スタート。ここから登るのは10年ぶりとなる。 さっそく最初の石仏がお出迎えだ。廿四丁と彫られた丁石の石仏だが道標の石仏でもある。 宝珠を両手で抱えている地蔵菩薩立像で、光背部分に彫られている 『左 くろがわ』とあるのはもちろん生野の黒川集落のこと。昔は多々良木と黒川との あいだでの行き来が盛んだった。可能ならば古い峠道を探しだして歩いてみたい。
反対側は『右 さん志゛よふ』とある。そのまま読むと『さんじょう』となり、これは
作州後山の山上さん(現在の岡山県西粟倉村、道仙寺奥の院)を意味する。
じめじめとした箇所を1丁も行かないうちに廿三丁の石仏(明治廿六年)と石組みの道がある (上の写真の場所)。なにを間違ったかそれを直進してしまう。ほんとは左に折れないといけない。 足元にはお待ちかねの山ヒルたちがここぞとばかりにダンシングしている。 間違いに気がつきあわててルート修正。 |
正規登山道(参道)に復帰 | 危うい感じの弥勒菩薩 |
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ヒルの攻撃も無事にかわすことができて正規登山道にも復帰できた。第一番の行場をクリアーって 感じかも。この後もたくさんの丁石仏に出会うのだが 尾根の道になってからちょっと毛色の違う石仏と出会う。 それは倒れかけた石の祠の中にある弥勒菩薩。10年前はすぐにそれとわかった(両手で宝塔を 持っている)のだが、今回見てみるとずいぶんと表面の劣化が進んでいるようだった。 基台の文字も読みにくくなっていたが『多々良木村 婦人會一同・・・』とある。
この行者岳の行者堂は昭和39年までは女人禁制だったのです。
その参道途中に婦人会の寄進した石仏がある。たぶん明治の頃のものだと思われるが
自分たちは登れなくてもせめて石仏だけでも寄進しようという思いだったのだろうか。
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606ピーク付近から行場の様相となる | 昔はここは鎖場でした |
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八丁の石仏から道は険しくなる。まさしく胸突き八丁だ。606の尖ったピークを越えなければならない。 鉄のはしごが設置されていて楽に登れるがその横手には古い鎖が残されていてここが鎖場だったことを 示している。ここは鐘懸け行場と呼ばれていてそこに上がると一気に展望が広がる。 |
多々良木ダム湖が見える | 鈴掛不動 |
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足元に見えているのは多々良木ダム湖だが右奥は水位が低くてダム湖に沈んだ 奥多々良木集落の一部が見えていた。その奥から黒川に抜ける旧の峠道がある。 さらには竹田城趾も見ることができる。今日はあいにく霞がひどくてカメラの望遠も 性能が良くないので撮影はバツ。
ここには鈴掛(あるいは篠懸)不動の石仏もある。この石仏は明治13年のもので
この行場が明治に整備された当初のものだ。個人的にとある石工のことを調べているのだが
この石仏の表情がその石工のものに似ているし、年代もその時期と一致している。
さらにここにはお亀石というのもあると聞くが
それらしいものは探し出せなかった。
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行者堂跡までもうすぐ | この奥です |
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小さなお堂は昭和49年(年月は間違ってるかも・・・)に建て替えられたものでヘリで運ばれたものです。 足元をよく見ると周辺には古いお堂の残骸(五寸釘とか)が散らばっている。 お堂の中には神鏡と役行者、不動明王の木像がある。これは 明治13年に西粟倉村、道仙寺から勧請されたものと思われる。 |
役行者と不動明王 | キーワードの詰まった石碑 |
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視線を左の岩盤に転ずると、そこにも数基の石造物がある。 なかでも写真の石碑がおもしろい。左にある御所嶽という文字。実はこの山、我々は行者岳と呼んでいるが 地元では御所嶽と言う。右にある明治13年というのは前述の道仙寺から勧請された年を示している。 中央の山峯大権現とはこの場所のことを言うのであろう。
他にも見上げるような岩だなに行者像、さらに不動明王、利源大師などの石仏もあって興味が尽きない場所だ。
修験には本山派と当山派があるが利源大師像があることから当山派(真言宗)だとわかる。
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岩窟がある | 二箇所あるハシゴを登るとここ | 最奥にある小さな祠 |
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お堂の奥には 細長く切れ込んだ岩の割れ目、岩窟がある。今回は都合良くアルミのハシゴが立てかけられていた。 ここの最上部の岩棚にも小さな祠がある。中には小さな行者像がある。不安定なハシゴなので 早々に下に降りる。昔はこの行者堂の前で護摩炊きなどもしたのだろうか? ここまでが西の回り行場と呼ばれ、これより先が東の行場となる。 |
東の行場の鎖場 | 覗きの岩場。もっと前へ! |
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この行者堂跡からダイレクトに尾根に登り返すルートもある。そこにはロープがあるが作畑ガールには 難所なので、別途地図でもわかるように南から回り込むルートを選択。こちらにも鎖場があるものの アスレチック感覚程度のもの。
そして到着するのが覗きの岩場。ここは本当に覗きとして利用されていた。
足首にロープを巻き付けてここから逆さまにズリ降ろされるのだが
この先には行者の石仏があるらしく覗きを体験させられた者だけがそれを
見ることができるという。
但馬の各所では明治から昭和の戦後まで一般の人による行場参りが盛んでした。 一時は男子の成人通過儀礼としての役割もあったようだ。 特に西の大峯として 山上参り(道仙寺奥の院) は盛んに行われていたようです。
また但馬それぞれの集落にも行者堂が造られ村民も気軽に護摩炊きなどに参加できるようになった。
其の中でもここ多々良木の行者堂はいくつもの行場があり本場の奈良大峯にも劣らぬと
高野山関係者のお墨付きもあったという。
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『成覚ダマ』あるいは『阿厳ダマ』という | その上に立つ(2006年撮影) |
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ロープのある急斜面をよじ登った所にあるのが展望の大岩。今は山頂にある反射板の所の 展望の方が良いのだが、それまではこの山に登ったらここがランチの定番場所だった。 みんながいろんな名前で呼んでいた岩場だが正確には『成覚ダマ』あるいは『阿厳ダマ』という。 12時半。
お約束どおりにここでランチとする。展望が良いのは昔どおりだが今日はかすんでいるので
遠望は効かない。さて、下山ルートを考える。作畑ガールがここまで登ってきた感じで、
同じルートをピストンで下るのは危なっかしくて無理っぽい。そこで初めてのルートだが
別途地図にある尾根を下ることにする。
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ここを過ぎると緩やかになる | その後はルンルン |
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展望岩から下りはじめは傾斜も急だが写真の大岩の脇を抜けた頃から穏やかルートとなる。 626との分岐は要注意で、ほんとは直進なのだがちょっと626方向に歩くとUターンするように 正規方向に戻る道がある。それを忘れていて歩きにくい直進へ行ってしまう。
『F』の分岐はわかりやすい。直進すれば10年前と同じ道の駅コースだが右手に明確な巻き道がある。
それを行くと自動的に下山尾根に乗ることが出来た。
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下山尾根から606ピークを見る | 点名『倉谷』 |
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自動的に乗ることの出来る巻き道があるぐらいですから問題無く進んで行ける。 あまり展望はないが自分たちが登ってきた参道尾根とか尖りピークの606が見えたりする。 点名『倉谷』には14時05分。
倉谷からは等高線どおりの急下り。下りきって366ピークに登ろうとしたら左手に
獣道様の巻き道が見えた。当初の予定では366ピークからそのまま北に下って
みのり館の裏側に下山という予定だった。
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『倉谷』からの急下り | 突如遊歩道に出た |
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変に巻き道が見えたものだからついついそちらに向かってしまった。366ピークを 右上に見ながらまもなく尾根に復帰というところで突如として遊歩道が現れる。 下山後にわかったのだがこれは『四季の森』という朝来町と県が平成10年に整備した 施設のようだ。
遊歩道を登り返して北に向かってみのり館へ下山するか、あるいはこのまま遊歩道を下って 『J』の林道を歩くか・・・。これまたあとでわかったのだが、遊歩道を登り返せば『M』に 下るルートがあったようだ。こんな良い下山ルートがあったとは返す返すもくやしい。 |
造りっぱなしで放置の施設 | 公園に出た |
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現在は訪れる人も利用するグループもいないようで、今回利用した遊歩道の半分以上は 崩れかけていたり、写真のように壊れていたりしている。 せっかく予算を掛けて造られた物が継続して利用されずにこのような無残な姿になってしまうのは なんとも理解しがたい。 |
みのり館の近くにある不動堂 | 中に石像の不動明王が見える |
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閉館になった(利用者が少ないため?)みのり館の前を素通りして すぐ横手にある不動堂を見る。この日はちょっと写真に撮るだけだったが 翌週の午後に訪れてみると、なんと午前中に護摩炊きがあったという。 それも西粟倉村、道仙寺から来た住職による護摩炊きだったらしい。
お堂の左奥におもしろい石碑があった。
行者尊記 |
左奥にある『行者尊記』の石碑 | お堂の右奥にある峰入供養塔 |
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こういうのがちゃんと残されているのがすばらしい。読んでいてもとてもおもしろい。 その内容からの想像だが、たぶんこの行場は明治以前から存在していて 多くの行者が利用していたと思う。ところが 明治五年に明治政府によって修験道禁止令が出されてしまう。(これは修験道を真言か天台か どちらかに所属させるためのもので完全禁止というものではなかったのだが・・・) そこで疫病と猪の害を理由として(じっさい明治期にこの地域で疫病がはやっているが・・・) 行場の正式な復活をもくろんだのではないだろうか? このあと但馬各地では前述のように行場巡りが熱狂的なブームになるのだが その証しがお堂の右奥にある。それは峰入り回数を刻み込んだ供養塔だ。 全部で十三基あるのだが最低で百回、多い人で三百回とあった。 現在はこの不動堂内部、あるいはお堂の表で護摩炊きをしているが、当時は あの行者堂の前で女人禁制のもと護摩炊きがされていたのだろう。 我々が単にレジャーとして登っているちょっとした地方の山にもこれだけの 歴史が秘められている。そういうのを見つけつつ登るのがおもしろい。 駐車場には15時半着。
今回の多々良木行者岳の地図は
こちら(約200k)
でごらんください。 |