はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『二木』を参照していただくようお願いいたします。 2016. 2.21. 日曜日 曇り 気温 寒い
20年近く前にこの近辺をMTBでうろついたことがある。当然ながらそのときの記憶はまったくなくなっている。 今回は新たな気分で歩いてみたい。歩きなので距離は若干短めに設定する。どう歩こうかと 地形図で確認してみると、周辺にはいくつかの峠があってまだ行ったことの無い峠もある。 そこでうまくコース設定してできるだけ多くの峠を歩いてみようと考える。 |
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瓜生大池 | 峠の入口でなにやらやってる |
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羅漢の里にある駐車場に車を止めて9時15分スタート。まずは瓜生大池の 脇にある近畿自然歩道を目指す。池の堰堤脇には自然歩道の道標があり『宇麻志神社 1.8km』とあった。 農業用のため池だと思われる瓜生大池は浅野内匠頭の指示で造られたという江戸時代から存在する 池です。
池の奥から峠道が始まるのだが数人の男性たちがなにかやっていた。聞いてみると薪を集めているという
(横手にうずたかく積まれていた)。
羅漢の里で使うのだそうだ。周辺のことをいろいろと聞いてみる。これから行く小河(おうご)へ抜ける
峠の名前も聞いてみたが名前は無いという。
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この先急な登りとなる | 名前の無い峠『A』 |
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「荒れているかもしれないよ」という言葉をもらって進んでいく。 確かにちょっと荒れ気味の道になってくる。擬木の階段もけっこうつらい。 その名前の無い峠には9時45分。くっきりとした峠らしい峠だ(この後出てくる峠は そうでない峠もある)。
南北にある稜線には明確な道がある。そして小河側に小さな石の祠がある。
祠の横側には『明治三十一年十月』反対側には『御堂 発起人 大道藤右エ門』とあった。
祠は明治のものだが中にある小さな石仏は最近のものだ(どこかの土産物のように安っぽい)。
ちなみに大道さんは小河のお人ということでした。
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宇麻志神社 | 鳥居の向こうは随神門 |
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小河に降りてきました。峠からの下りはほとんどが階段なのでおもしろみはなかった。 途中、途中にある道標にはいずれも『宇麻志神社 〇〇km』という記載があったが その宇麻志神社へ向かう。神社手前で出会ったおじさんとも話をしたが、そのおじさんの お父さんの時代でもさきほどの峠には名前がなかったと言う。小河と瓜生とはあの峠で頻繁に 行き来があったのになんとも不思議な話だ。
宇麻志(うまし)神社は小さな神社だが石の鳥居の奥には随神門がちゃんとある。
随神門とはお寺で言うところの仁王門のようなもの。その両側、格子の中にはちゃんと
随神像が安置されていた。
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数多くの絵馬がある | 相生市指定文化財の絵馬 |
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この宇麻志(うまし)神社が実におもしろい。由来が書かれた板が張り付けてあるのだが文字が 薄くて読み取りにくいことこの上ない。祭神は宇麻志阿斯訶備比古遅神というのだが元々は 蘇我馬子を祀ってて馬子神社と言っていたのを明治になって同じ音である宇麻志阿斯訶備比古遅神に したという。神社の祭神が明治になって変わってしまうという例は日本全国に数多くある(理由はいろいろだが)。 ここの場合は馬子の孫の入鹿が朝廷側と敵対した故事が理由かも。 この周辺(赤穂から相生、上郡にかけて)には秦河勝を祀った大避神社が数多くあります。 秦河勝は蘇我入鹿によってうつぼ船で坂越に流されたという伝説がありますが、いわば敵対する 蘇我の神社が大避神社の多いエリア内にあるというのもおもしろい。
馬子神社という名前からか拝殿には多くの馬の絵馬がある。中でも享保十四年の『繋飾り神馬』の
絵馬は市の文化財に指定されている。時間がないのでじっくりと見ることができなかったがこの
神社の拝観だけに訪れるのも良い。
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ハーフパイプ状の古道 | 現在は近畿自然歩道兼巡視路です |
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神社の横手から小野豆(おのず)への古道がある。現在は近畿自然歩道となっていてきっちりとした標識が 案内してくれている。害獣避けの扉からはすばらしいトレールが続く。近くに西播変電所があることから 巡視路も兼ねているのでよけいに良い道だ。
20年近く前に来たときは今回と同じに登りに使ったのでほとんど押しだった。これを下りに使えば
100%乗れ乗れのはず。それを実証したいので来週はMTBで再訪する予定です。
この古道途中に道の真ん中に岩が鎮座しているポイントがある。疲れたので腰を下ろそうなどと
思っては危険だ!この岩に座ると必ず腰痛になるという言い伝えがある(写真を撮り忘れた)。
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相生と上郡の境界尾根に出た | 名前の無い峠『C』 |
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相生と上郡の境界尾根はほぼ平坦と言っていいような感じに見える。しかもまっすぐだ。 とてつもなく古い自然歩道の標識がなんとも良い。やがて石仏と石碑のあるポイントに 到着する。地形的には変だが周囲にある石造物からも峠と言って良いだろう。 11時ジャスト。
左にある石仏は両手で宝珠を持つ地蔵菩薩座像。台座には『発起人 安藤周平』
『明治二十八年一月』とある。右手奥にある石碑は『本山遙拝所』と文字があり『明治三十九年五月』の
銘がある。現在はまったく展望はないが方向からして高野山か。
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須賀神社との分岐 | 小野豆の集落 |
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集落の手前で鳥居があった。須賀神社に寄ってみる。 上郡近辺には大避神社と同様に須賀神社が多い。 小さな覆屋があって 中を覗くとその中にはさらに小さな本殿があった。神社の名前からして素戔嗚尊を 祀っていると思われるが本来は牛頭天王を祀る祇園社だった可能性が大きい。 (牛頭天王を祀る祇園社として上郡では西の天王さんと言われる高峰神社が有名)
小野豆の集落に降り立つ。ちょうど降りた所には有名なしだれ桜の木がある。
その真ん前には寺があったのだが更地になっていて参道だったところに
公民館がある。今日は寒くて小野豆の人は誰一人として外出していないので
話を聞くこともできずに先を行く。
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じゃんじゃん穴。元は古墳か? | 平家塚ふれあい公園にある五輪塔 |
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小野豆は平家の落人伝説で有名なところだ。落人伝説は兵庫の各地にあるのだがここのは けっこう具体的に人名も書かれていて、平経盛と四人の家来が落ち延びてじゃんじゃん穴に隠れ住んでいた とある。結局は捕まるのだが自分の命と引き替えに家来は助命されることとなる。 (史実では経盛は壇ノ浦で入水となっているんですが・・・)
先ほどの廃寺は真勝寺と言うのだが(公民館の入口に寺にあった半鐘が残っている)山号は『三位山』とあった。
これは経盛の官位からきているようで、伝説が寺の山号にまでなっているのだった。
じゃんじゃん穴から遊歩道を上がって『平家塚ふれあい公園』へ。ここも寒くてとてもランチとは
いかない。空腹のまま先へ急ぐ。
ここも普通の林道からいきなり谷に降りていて普通の峠とはおもむきが違っている。 が、『嘉永六年丑(1853)十月』の石仏の存在が古道だったことを示している。 祇園山の方向を見ると大勢のハンターが昼食中だった。犬たちが休んでいるあいだにここを離れた方が よさそうだ。峠を辞して適当なところから相生と上郡の境界尾根へ復帰する。 |
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良い道が続く | 播磨西8鉄塔。ここで昼食 |
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境界尾根に立つと小野豆方向に明確な道があった(地図の点線部分)。 どこに行くのか?これは来週に極めてみたい。そのまま北へ向かう。 歩き良い道が延々続くのは古くからの道だったからか?(これも来週に判明する)
播磨西8鉄塔の手前で1箇所だけ崩落箇所があるがそれ以外はMTBでも楽に走れそうだ。
播磨西8鉄塔には12時15分。ここでようやく食事。冷たい風を避けて小さな建屋の壁にもたれて座る。
この建屋は蓄電池が納められている。目の前にある太陽電池パネルで発電した電気をためて
夜間に作動する『航空障害灯』のためのものだ。(これができる以前は電灯線が
引かれていたはず)
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名前の無い峠『H』 | 地蔵菩薩 |
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20分ほどの休憩で再スタート。気持ちの良い道(巡視路なので当然)で初めて行く峠『H』に は5分ほどで到着。ここには丸彫りの地蔵菩薩立像がある。基台には『嘉永二年酉(1849)十一月吉日』 施主として五人の男性の名前が彫られていた。小河で聞いた限りではここの峠も名前がない。 周辺には瓦の破片が落ちていることから昔は小さなお堂に祀られていたはず。
この峠から東に下れば小河、西に下れば小野豆と鞍居を結ぶ自然歩道に降り立つ。どうしようかと思ったが
時間もまだあるので地図にある『K』まで行ってそこで考えようと思う。
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上月支線5鉄塔 | 『J』を過ぎると道は良くなる |
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峠から上月支線5鉄塔は道が不明瞭な箇所もある。後でわかったのだが地図にある緑の点線ルートが 正解のようだ。ただし鉄塔5からの境界尾根もちょっと藪っぽい。稜線の右下には大きなため池があるのだが 藪っぽいために見えない。源重郎池と言って文化年間に出来た池(小河の住民源重郎の一族が築造し、 その後も幾度か改修されている)だがその石積みの堰堤がすばらしいと聞いている。 藪っぽいといってもMTBではなく歩きなのでさほど苦では無い。源重郎池を過ぎた 『J』ぐらいから急に道は良くなる。そのまま『K』まで行き、そこから『A』の峠まで 尾根伝いに戻るか、あるいはさらに先の『L』まで進むか思案するつもりだったが・・・。
その急に良くなった道は『K』方向には向かわずにくるっとUターンして『L』へ向かっていた。
となると自然と足はそちらへ向かってしまい結局『K』へは行かずじまい。
名前の無い峠『L』には13時45分。ここは20年前ぐらいにMTBと歩きで二度ほど来たことがある。 MTBのときは金出地へ降りたが記憶になし。歩きのときはこの峠から三濃山まで尾根伝いで行きました。 そして今日で三度目。
祠の中には地蔵菩薩座像があるのだが一番奥にちょこんとあるので文字があるのか無いのかもわからない。 左手前に石柱があって上面には丸いくぼみがある。正面と右側面に文字があるのだが まったく読めない。側面のは御詠歌か和歌のような感じだ。読めれば峠の名前とかのヒントが あるのかもしれない。 |
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荒れている | 道はほぼ消失 |
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三濃山まで行くのはたいへんそうなのでここから羅漢の里へ帰路につく。 昔はそこそこ歩けた道だがそうとうな災害があったのかもう道とは言えない状態だった。 三濃山との分岐『三濃別れ』には14時10分。ここからは道も良いと思うのでやれやれという感じ。 |
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三濃別れに到着 | 道標を見る |
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三濃山方向には『車両通行止』の看板がある。この奥も荒れているということかも。 そして傍らにちょこんと石の道標がある。正面には『右 三ノ山 左 くらい 道』とある。 これを『さんのやま』と読んではいけません。『三ノ山→みのうさん』です。 さらに言うと、三ノ山は山とか寺を示しているのではなく、当時あった三濃山村を指している。
横手にも文字がある。『明治二十三年十一月 金出地村 こんや(紺屋) 仲本萬助』とあった。
金出地村の人がこんな所に道標を寄進するということはやはり金出地と瓜生にとっては
重要な道だったことを示している。ちなみに金出地村の仲本さんの御子孫がいてお目にかかれば
峠『L』の名前もわかるかも。
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羅漢の里に出た | 研修所前の駐車場 |
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羅漢の里には14時45分。ここにも車両通行止めの看板がある。 それを出ると広い駐車場と研修所の建物がある。ここに車を止めるのが 三濃山への最短となるのだが先ほどの荒れた林道はあまり魅力的とは言えない。 しかも最近は三濃山には山ヒルが出るそうだ。 三濃山へのルートは相生側からのもの(この羅漢の里コースとか)が良く知られているが 上郡側からもいくつかのルートがある。それらも またの機会に歩いてみようと思う。 それと来週は小野豆周辺でMTBをしようと決めたぞ。 駐車場には15時ジャスト。
今回の相生5つの峠巡りの地図は
こちら(約660k)
でごらんください。 |