はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『但馬新井』を参照していただくようお願いいたします。 2013.12. 8. 日曜日 晴れ後小雨 気温 寒い
大持山に続いて生野の金香瀬山に登ることにする。ルートは前から考えていた相沢稲荷から 登ってみようと思う。相沢稲荷の存在は1年前に歩いた白口峠から相沢へ続いていた 相沢古道を歩いたレポートを 見てもらえばわかる。
相沢稲荷の位置は古地図でもだいたいわかるものの実際に行ったことがないので、
案内人として以前行ったことがあるという
作畑ガールに同行してもらう。
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橋を渡って観光銀山方向へ | ここが入り口 |
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ジローさんちに車を止めさせてもらい橋を渡って観光銀山方向へむかう。 観光銀山へ向かう途中の写真のポイントが入り口らしい。ここは旧相沢町の中心部だったところ。 相沢町は明治23年の大洪水でほとんどの家が流失し、事実上町は無くなることになる。 洪水ということで、ふと思いついたのだが、相沢の名前の由来は市川と大谷川の 沢の合う付近という意味で相沢となったのではないだろうか。 追記:ジローさんのお父さん(佐藤文夫氏)によると、相沢はあやめ沢が訛ったものと言うことです。
現在は(車の向こう)沈殿池となっていて一般の進入は禁止だが、その縁から道が登っている。
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五輪塔の一部が道沿いに | 周辺は広いエリアで墓地だった |
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道は明確に登っている。視線に道沿いに無造作に置かれている五輪塔の一部が見えた。さらに その奥には無数の墓石があった。どうやらここは相沢町の墓地のようだ。 普通の人なら墓地の中はあっさりと通り過ぎたいと思うのだろうが、私にとっては古い墓地ほどいろんな情報が詰まった お宝ポイントなのだ。 ここもそういう意味ではすごいところだった。卵塔があることから寺院が近くにあったのだろうか。 近くには辞世の和歌が刻み込まれた墓石や、亡くなった友人のために建てられた墓石、孫が建てた 祖母の墓など、いずれも碑文が刻まれている・・・。鉱夫がほとんどの町だと想像していたのに、なんと文化的な墓石の多いことか。 気になる墓石が多すぎるのでここも再訪したい。
歩いているこの道が相沢稲荷への参道とはどうも思えない。
とにかく上へ上へと登っていくのだが、墓石も無くなり道も怪しくなってきた。
案内人に聞くと「まったく記憶がない」と言う。先ほどの墓地エリアで右に小さな谷を巻く道があったので
そちらへ向かってみるとありました。
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相沢稲荷跡に到着 | 正面から見る |
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思ったより小さな祠は今にも崩れ落ちそうな姿だ。祠の前の赤い鳥居も朽ちて倒れそうになっている。 足下には『石段寄進』『文化四年卯(1807)十一月』と石塔がある。鳥居の正面、真下あたりを 覗いてみても石段らしきものは見えないが、それがあればそちらが正規の参道だと思う。 古い絵地図もほぼ正面に参道が描かれていた。 ジローさんに聞くとズリなどで石段が埋まった可能性もあるという。 この神社とも言えないほど小さな祠の稲荷には霊験あらたかな逸話がある。 『鉱山の労働者救う 相沢稲荷』 というもので、ただの伝説と思われがちだが文政十二(1829)年に実際に起こった事故のときの逸話である。
話は横道に逸れるが、この奥銀谷周辺にはなぜか稲荷社が多い。稲荷社といえばその名前のとおり五穀豊穣を約束する
神社であるが、この地域のどこを見ても広大な田畑などない。想像できるのはやはり五穀ならぬ銀鉱石の豊穣を
稲荷に願ったのではないだろうか。
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道があった | これってMTB用? |
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稲荷社を後にして上に登っていく。すると突然という感じで道が現れる。その後も ずーっと快適な道だった。終点の『E』手前は倒木が多くなるが、それらを取り除けばMTBが乗れるほどの路面だ。
ここ『C』地点(八長山)は展望が良いらしいので道から離れて尾根に行ってみたが
案内人が言うところの好展望地から離れてしまったらしく、木々のあいだから
竹原野、釜床山が見えるのみだった。
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『E』地点はズリ | その上には当然鉱口がある |
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この良い道の終点はズリ斜面だった。ということはこの道は鉱石を運んでいた道に他ならない。 観光施設以外にもこういった明らかな鉱山遺跡があるのは遊歩道に変化させれば有効に利用できるのでは?
周辺を詳細に調べてはいないがこの先へ続く道はなさそうだ。そこでここから尾根へ復帰することに。
当然ながらズリの上には古い鉱口が存在している。これだけのズリがあるということは
さぞかしたくさんの鉱石を生み出したのだろうと想像する。
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四輪駆動で | あとは楽勝 |
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稜線に復帰してまもなく正面が岩盤の所があった。作畑ガールにはちょっときびしめだったかも。 それを過ぎるとあとは楽勝。しかし、腹が減ったと役立たずの案内人が言う。頂上までまもなくという 箇所で食事をする。 |
法道寺山 | 312号線の向こうの山塊 |
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食後のコースは難所もなく、樹木のあいだからは法道寺山とか、銀山湖の湖面、さらには国道を越えた但馬の山々が見えた。 |
山頂 | 下山の案内プレート |
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山頂には12時08分。三等三角点、標高709.84m。超スローペースなので参考にはなりませんがちょうどお昼には到着できました。 しかし、北風は吹くし、登り際には晴れていたのに今にも雨が降りそう。 ほんとうは別途地図にあるように再度相沢古道に合流して下山予定でしたがこのまま頂上から下山することにする。
この山に登る人はいるのだろうか?昔は頂上も真っ暗な植林の中だったが、現在は頂上付近だけ刈り取られており
まあまあ明るいものの展望は皆無に近い。もし北方向に展望があれば、銀山湖を真下に見て中央分水嶺の稜線が真っ正面にあるという
すばらしいロケーションの山になる。今の状態なら夏場はヒルだらけだし、冬とて展望もないしで私のような
変わり者だけが登る山かもしれない。
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谷に降りる | 登山口付近にある鉱口 |
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下山の案内板も倒れていた。それを木にもたれかかせて、そこから下山。降りたった谷にも案内のプレートがある。 周囲は間伐材で足の踏み場も無い。昔はこの谷をほぼダイレクトに登っていって頂上に立ったのだが、 現在の状況では谷コースはもう無理かも。
谷をずんずんと降りていくと有名な坑口がある。坑口というよりもこれは断層だ。生野町の文化財にもなっている
粘土断層というもので、この断層に沿って銀の鉱脈がある。林道に出て帰路につく途中にこの断層の続きがあるので
見てみよう。
今回のレポートの最初に出てきた相沢稲荷の逸話にあった大丸坑がその断層の続きにある。 単に山に登るのもそれなりにおもしろいが、こうやって歴史やら文化を自分でわかる程度に 少しずつ紐解きながら山で遊ぶのもエクスペリエンスってことかな。ジローさん。
今回の金香瀬山の地図は
こちら(約125k)
でごらんください。 |