岩屋山清水寺跡〜延命寺山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『丹波和田』を参照していただくようお願いいたします。

2013. 4.20.  土曜日  晴れ  気温  肌寒い

今からちょうど13年前に 篠が峰〜延命寺山 をMTBで周回するという無謀なことをしたことがある。 そのレポートの中にも記しているのだが、縦走途中にある岩屋山のどこかに清水寺という寺があったという。 当時から現在に至るまでWEBでそのレポートを見たことがなかった。県の遺跡資料にも記載されていないし、 ひょっとして寺なんてなかったのか・・・?

丹波には三つの岩屋山があるという。一つは麓に高源寺のある青垣の岩屋山。残りの二つはここ山南町にあって、 東の岩屋と呼ばれているのが紅葉でも有名な石龕寺で、西の岩屋と呼ばれているのがこの五ヶ野にある岩屋山なのだそうだ。

以前から石龕寺の山号が岩屋山なので、五ヶ野の岩屋山とはなにかしら繋がりがあるかと想像していたが、丹波志には 『岩屋山の中腹にあって足利尊氏の頃、僧雲暁が開いたとされ、馬頭観音、毘沙門天、開山雲暁木造を安置した東堂と その西の不動明王、金伽羅童子、勢多賀童子を祀る不動堂がある。・・・』と正史にも記されている。 つまり寺はあったのだ。

この雲暁という僧が今回のキモとなる人物で、太平記にある足利義詮が石龕寺に一時身を寄せた時の院主が この雲暁その人、つまり両方の岩屋山と関わりがあるのだった。で、この人は石龕寺の院主になる前は 京都の志明院金光峯寺の再興も手がけているのだが、その頃より 足利の庇護を受けていて、丹波小川の庄を領地として寄与された縁で石龕寺に来たようだ。

そういう縁があったために足利義詮が石龕寺に一時身を寄せたのもうなずける。 さらに言うと志明院の山号も岩屋山であり、不動を祀っているので岩屋不動の別名もある。 つまり、三つの岩屋山に関連した人物なのだ。

広場の向こうに『いわやさん(岩屋神社)』がある

前置きが長くなったが、岩屋山清水寺のことなどとうに頭から消えてしまっていた私に、山屋の I さんから 「岩屋山で岩窟を見つけた」とメールをもらったのは1ヶ月ほど前のこと。驚くと共に、ぜひ自分の目で確かめてみたい 衝動に駆られる。場所柄と内容からいって氷上のたぬきさんをお誘いする。

ぐるーっと周回するつもりだったので下山予定地の牧山神社駐車場に私の車を止めてスタート地点へ向かう。 この広場の前に作業小屋があって人もいる気配だったので駐車の許可を得る。聞いてみると「このあいだもハイカーが来たよ」 と、どうやら I さんとも接触があったようだ。

3棟の建家がある中にはお社が

8時45分スタート。まずは『いわやさん(岩屋神社)』へ行く。ここには3棟の建家がある。記録によると 岩屋山中腹にあった西の堂、東の堂、休堂の三つを昭和32年ごろにこの地へ降ろしたということだ。 それまでは延命寺の住職と住民たちは毎年7月18日に岩屋山夏祭りとして中腹まで登って大護摩を焚いていた。

現在も毎年7月の第二か第三日曜日にここで護摩焚きをしているという。 その時には前述の六体の仏像も拝めるのだろうか?扉の隙間から覗いてみるとお社が 確認できるだけだった。わずかに見える木札には『気比大権現』、『○○大権現』などと書かれている。 前述の六体の仏像の名前があるのかと思っていたのだが、神社なので垂迹の形を取っているのか?

正面に林道の分岐石の道標だ

林道のゲートをクリアして進んでいく。すぐに分岐が見えてきた。鉄製の看板のようなものがあり、 その裏手にもなにやらありそうに見える。近づくと石の道標だった。「おおっ!!」っと、二人で声を上げる。 表には『従是本堂江十八丁 右 いわや 左やま道』とある。裏手にも 『天明三癸卯(1783)六月十八日』と文字がある。

普通、月はともかく日にちまで記さないのだがこれには意味がある。 六月十八日は前述のように護摩焚きの日(旧暦で)で、この日がわざわざ彫られていたと いうことは、この日はなにか重要な意味のある日で、少なくとも170年間は綿々とこの日に 護摩焚きが続いてきた傍証になる。

林道を進んではダメとにかく直登あるのみ

道標には本堂までは十八丁とあるが、その裏側には『十四丁』の丁石がある。たぶん上で倒れていたか 置き場所のないのを降ろしてきたのだろう。 件の道標から右の林道を行くのだが、そのまま直進してはいけない。 ちょっと見、溝のような所が林道の脇にある。見ると倒木だらけでとても道には見えないが 脇に『十七丁』が転がっている。つまりここが参道だ。

とにかくまっすぐに登っていくのみ。目にした丁石は『十三丁』、『四丁』、『二丁』のみ。 あとは見逃したか、あるいは地面に埋まっているか・・・。

立派な石垣到着しました

昭和の30年ごろまでは毎年この谷を護摩焚きのために登っていたのだろう。 作業小屋のおじさんもたびたび道普請していたと言っていたが今は見る影も無く荒れている。 ただ、核心部が近いのだろう、立派な石垣が現れた。石段を駆け上がるとそこは 東西に延びた平坦地だった。9時45分。
地蔵菩薩の石仏これが岩屋だ

石仏があるのはすぐにわかった。高さは160cmはゆうに越えていそう。ここにあったものは 下界に降ろしたということだが、さすがにこれは重量がありすぎてこの地に置いたままにしたのだろう。

地蔵菩薩の立像で右手に錫杖、左手に宝珠を持っている。『享保三(1718)年』『戌ノ七月日』と文字があった。 参道入り口にあった道標より65年ほど古い。

ここには何があったのだろうか

その石仏のさらに西に岩窟があった。これが西の岩屋の由来だ。人工では無く自然にできた 岩窟なのだろうか?さほど奥行きは無いが仏像をお祀りするには充分な広さだ。 正面と左側は石積みも残っている。

丹波志には西の堂(不動堂)の後ろの岩(どこかわからないが)より清水が湧き出たことより清水寺となったとある。 その寺名からして、とうぜんここで護摩焚きをするということは田畑への水の確保(雨乞い)なのだろう。

岩窟の上はさらにテラス状になっているように見えたのでひょっとしたら何かあるかもしれない。 いつまでも居たいが先に進もう。敷地の東端から支尾根に乗れるそうだ。

ひかげつつじも多いコバノミツバつつじもきれい

支尾根に乗ってすぐに大岩が正面に立ちはだかっているが巻き道が右側に続いている。 そのままいっきに529へ。そこから道はよくなりあちこちで展望もある。 コバノミツバはどこでも目にするがひかげつつじも多いのには驚かされた。 このまま岩屋山へ行けばシャクナゲのジャングルもあるのだが手前のピーク(地元では ここが岩屋山と言う。考えればこの下に岩窟があるのだがら当然といえば当然だ)下を 大きく左に巻いて13年前と同じ延命寺山への尾根に乗る。

ここもひかげつつじ、アケボノツツジ、しゃくなげ、咲いてはいないがドウダンツツジなどの回廊と なっている。 西を見れば千ヶ峰から飯森山(南山)の稜線がたおやかだ。下に見える西谷は 春の芽吹きの木々があふれんばかりだ。

後ろを振り返ると二つの岩屋山これならMTBも乗れるけど

13年前の記憶がまったくない。こんな所をなぜMTBで来たのかまったく理解できない。 わずかに乗れそうな尾根もあるがあらかたはほとんど乗れない感じだ。
食事ポイントからネット越しに千ヶ峰方向を見る

延命寺山まではまだまだ遠い。519ピークで食事をする。12時ジャスト。 ここで食事は正解だった。というのも、その後鹿避けネットが現れてなんとも進みにくくなってきたからだ。 13年前もネットはあったが伐採直後だったのでMTBと一緒でもなんとか前進できたのだが 今はネットの左右とも生え混んで身体を入れる隙間すら無い。 結局、三等三角点のあるカザシ(標高560.0m)までヤブだった。12時40分。
ヤブから開放されてやれやれ終点の延命寺山(如意山)

ゴールの延命寺山は尖っていた。ここの山名も疑問に思っていたのだが (前述の丹波志にはまったく別の山が延命寺山となっているのだ)、下山後延命寺のご住職に聞いてみたら 山号の如意山が正しいと言っていた。
延命寺山頂上清水寺跡はあそこだ

延命寺山山頂には13時20分。コバノミツバツツジが満開だ。13年前に見た大柿さんの石は残っていたが さすがに文字は消えていた。ここからの下山は13年前と同じ東の尾根を使う。 下り始めるとむこうに清水寺跡がはっきりと見える。さらにはたぬきさんの車も見えた。

東尾根は最後まで行くと金比羅さんに降り立つが、途中からショートカットして墓地に出た。 そこから神社までのんびり歩いて14時10分。 作業小屋まで帰ってくると我々の帰りをおじさんは待ってくれていた。 しかも山南町史を自宅から持ってきてくれて、それで清水寺跡のことがよくわかった。

今回の岩屋山清水寺跡〜延命寺山の地図は こちら(約160k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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