はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『大屋市場』、『但馬竹田』、『関宮』、『八鹿』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 4.29. 日曜日 晴れ 気温 暑い
県内の二等三角点全登を目指すYSさん、この山の麓である船谷が母方おばあさんの出身地である作畑ガール、初めての山で前から登りたかった私。 それぞれ思惑は違いますが目的は一つ!ということで下山地に予定した船谷にある日枝神社に集合することに。 我々三人の他に、作畑ガールのまたいとこであるゆうすけ君(地元の人なので周辺の字とかにもくわしい)と、いざというとき頼りになる TQFさんの総勢5名。久々の大人数??の山行きだ。 |
古代村がスタート地点 | 周回路の案内板 |
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二日酔いのTQFさんが集合場所に遅れるというのでスタート地点の石ヶ堂古代村で落ち合うことに。 地元のゆうすけ君が管理事務所に掛け合ってくれて駐車場を無料で借りる(本来は有料??)。 準備を済ませて、ちょっと予定より遅れめの9時25分スタート。登山口には登りに利用しようと 思っていた遊歩道の案内板がある。 この古代村には巨石巡りの遊歩道がある。別途地図の『C』ピーク(Ca.620m)を頂点として 馬蹄形にある尾根にはそれぞれに名前の付けられた巨石が点在しているのだった。 我々は右環状歩道を登るのだが、丸太階段の急登りでいきなり苦しい。しかも今日は夏のような暑さだ。
『洞穴遺跡』という分岐標識にもそそられるが、そちらへ行くと谷方向になるので涙を呑んでキャンセルだ。
やがて『オオカミ岩』という標識が目の前に。よく見るとその右手にもステップを刻んだ石段もあるが、
左の踏み跡の方が明確なのでそちらへ。TQFさんは右手へ行くようだ。
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大神岩に到着。その上にTQFさん | 我々も岩の上に立つ |
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左のコースは行き止まりでそこには『大神岩(旧金比羅宮跡)』という看板と大岩があった。 ゆうすけ君の話では祠はこの岩の上にあったという。見上げるとそこにはTQFさんが! これが若者だったらこんぴらならぬチンピラか? 先ほどの分岐から行けるようなので我々もそちらへ。
そこには四等三角点の『点名 オオカミ岩』、標高345.3m、がある。そこは風も吹き抜けて涼しく展望もあった。
ここに金比羅の祠があったというのだが、ときどきこのようになぜか山中に海運の守り神である
金比羅宮があって不思議に思うことが多い。
さしずめここは海から頂上を出していたスリガ峯の近くでもあるので、その辺に由来を持っていきたい気持ちだ。
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暑くてしんど〜い | けっこう高度のあるハシゴコース |
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案内板あった巨石を見ながら(対岸の尾根にある巨石も見える)なので楽しく登れるのだが、 いかんせん暑い。地図を見るとまだ2割も登っていない。小てんぐ岩を過ぎた所で アルミハシゴの立てかけてある箇所があった。「え〜、これを登るん」と内心思うのだが、 案外ちゃんと取り付けられているようでするすると登る。 ここにも巻き道があってTQFさんはそれで先行する。 |
ハシゴを登り切った所からの展望 |
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古代村のキャンプ場で遊ぶ程度の人には大神岩までぐらいが限度かもしれない。それ以降は 地面も花崗岩地帯にありがちのザレた滑りやすい路面なのでストック使用で なんとかトラクションを保つ。ハシゴなども子供には危険かもしれない。 ゆうすけ君によると普通はここまで来なくて洞窟コースへエスケープするのが一般らしい。 |
中テングを通って | 大テングの上に立つ |
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滑りやすい路面に注意しながら中テングを過ぎて最後の大岩大テングへ。10寺35分。 当然だがここからの展望が今までで一番良い。ここからいよいよ遊歩道を離れることになる。 先を見るとさらに遊歩道が山腹を巻いているのが見える。左環状歩道に繋がるのだろうが、 危険な所があるのか進入を止めるようにロープがしてあった。
当然その遊歩道では山頂に行けないので左にある尾根に取り付く。ところが予想もしなかったが
この尾根はヤブだった。尾根の真上は歩けない状態だったので右側の斜面を
トラバース状態で上へ上へと進む。いわゆる鹿道を利用させてもらう。
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『C』から歩き良くなる | 頂上手前の激登りで一人脱落寸前 |
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別途地図の『C』には11時10分着。ここからUターンするように下れば左環状歩道といずれは合流するはず。 大テング岩からここまで歩きにくい尾根だったので苦労したが、幸いここからはしっかりとした切り開きに恵まれる。 684ピークを過ぎた地点で11時半のサイレンが聞こえる。12時までに頂上は無理っぽくなった。 というのも頂上の手前は標高にして100mほどの激登りが待ちかまえているからだ。
全員あえぎながらもその激斜面をクリアー。一旦平坦になるとそこから樹間越しに下界が見えた。どうやら能座の方面で餅耕地の入り口付近も
見える。ゆうすけ君が言うにはこの山は建屋の谷のどこからも見えない深山と思われていたそうだ。
それゆえ地元の人も登ることはまれのようで、ゆうすけ君も今回の登山は危険だから家族からやめるように言われていたとか・・・。
二等三角点が埋まる建屋山、標高855.3mには12時15分着。三角点の周辺は大きく刈り払われているが、 その外側には雑木やら植林があるために展望はない。 とにかく暑いので木陰で昼食をする。 なんやかんやと雑談で花を咲かせ、さて下山だ。12時57分。 |
北尾根は快適 | なんの問題もなく下れる |
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登りコースのハイライトは大岩群と展望だった。下山コースの見所は寺跡探しだ。予想ポイントが いくつかあるので、そこへ間違いなく下るように注意が必要だ。712ピークを過ぎるまでは 植林が大半のエリアだった。これらの植林はゆうすけ君のおじいさん世代が村を挙げてしたものらしい。 |
北方向が見える |
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やがてこの尾根でも展望が開けてくる。登りの時とはまた違った展望だ。 午後になって徐々にかすみがひどくなってきたのが残念だ。 登りの時の苦しさがうそのように快適に下っていき、四等三角点『毛坂』には13時52分。 |
四等三角点のある不思議な平坦地 | 雑木斜面を下る |
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下りながらこのピークを見たとたんになにかあると思ったほど、なにかうさんくさい地形をしている。 みんなもそう思ったらしく口々に「なにかあったんちゃう?」と言っている。
ここからの下山は左下にある谷から離れないように下らなければならない。しかし、右側には
緩やかな斜面(写真のように雑木帯もあれば、植林帯もある)が続く。
この辺も怪しげなエリアだ。すると目の前に大岩群が現れた。
その時は気にせずに素通りしてしまったのだが・・・。
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ここにも大岩が点在していた | そして激下りポイント |
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後日、養父町史を見てみると『大仙寺はもと船谷の裏山、畑との村境の尾根上にあったと言い伝えられている。 そこは今でも”寺が平”と呼ばれていて杉林の中に緩斜面の平地が広がっている。ここには地蔵院、寿量光院、与光寺、 大仙庵などの寺があったという。・・・』 山号である『岩藏山』はそれらの寺院の近くにあった大岩などを磐座として祀ったのが起源だとも書かれていた。
ここまで読んで、『E』からここまでの地形がまったく町史どおりだったので驚く。
先にこれらを読んでいれば詳細に調べることもできたのに〜。
激下りの途中から最終目的地である『G』のピークが見えた。それは遠目から見て不思議な形をしている。 等間隔の段差が見えるのだ。あれが寺跡か!と勇んで下る。14時30分到着。 |
笹原のピークに到着 | 下ってきた山を振り返る |
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周辺を眺めてわかったのだが、ここは現在『ケサカ桜公園』と言われている所だった。 周辺に鉄パイプの柵が延々と続いているのは、それ以前が放牧地だったのだろう。 さらに奇異に見えた段差はこの地方で盛んだった養蚕のための桑畑の跡だ。 大仙寺が現在の船谷集落に降りたのは江戸時代だと言われているので、今ここになにも 無くてもなんの不思議もない。ただ想像力をかきたてられるエリアなのは間違いない。 2週間ほど前なら満開の桜が楽しめたかもしれない。 さて、いよいよ船谷へ帰るのだが、ここからが予想も出来ない難路かも・・・。 鉄パイプ柵に沿って下りきった峠には14時40分。ここには石仏もなにもなかったが 船谷と畑の集落を結ぶ、さらには旧大仙寺へ行くための峠だったのはまちがいない。
船谷と畑の両方に跨る字は『ケサカ』だが、両村の境界の峠という意味『境坂』から『ケサカ』に
なったのではないだろうか。
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最初は道があった | 最後も道があった |
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峠から船谷側をのぞき込んでみるとわずかな踏み跡があった。それを下るが100mも しないうちに踏み跡は消失。沢沿いは鋭いV字でガレと倒木のために歩けそうにない。 沢から数m上の右岸斜面をへっぴり腰でトラバース。 途中で立ち止まるとヒル攻撃もあったりする。
地形図にある点線ルートは全滅状態と言える。進退窮まった頃、反対側の左岸に踏み跡を見つけたので
沢を横切る。それは下がるにつれて明確になり、そのままケサカの谷を抜け出すことが出来た。
15時20分。船谷川の渡ってその上にある林道へ。
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ウトの小滝 | 船谷区民グランド |
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そこは幅広林道の終点で『船谷区民グランド』がある。普通車でも此処までは来るのが可能です。 ふと見ると小さな滝があった。若干ナメ気味の滝だがTQFさんが奇妙なことに気が付く。 それは壺の形が妙に整っているのだ。足元の枯れ枝などを取り除くと、確かに人工的な感じがする。
ゆうすけ君によるとここは放牧場だったらしい。それを示すかのように
グランドの入り口には大正時代による『大日如来』の文字塔もある。
養父の農家の人々は大事な牛の除災を願って大日如来を放牧場の入り口に祀っていたという。
さきほどの小滝の壺もひょっとして牛の水飲み場だったかも。
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阿弥陀堂 | 阿弥陀三尊 |
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林道を下り集落内に入る。そこには阿弥陀堂があった。中には阿弥陀三尊が祀られていたが、 これも山にあった大仙寺に関するものらしい。立派な木像であったが、いかんせん金ぴかの ペンキが塗られて補修されていた。 日枝神社には16時ジャスト。寄り道もあったがけっこう時間が掛かってしまったようだ。 実はこの日枝神社も300年ほど前は別途地図にあるように谷の奥にあって、そこには平坦地も 残っておりそこは宮山と呼ばれていたと。当時、祀られていたのは妙見なので、今回の建屋山も 妙見山と呼ばれていたかもしれない。 また、船谷という地名にもおもしろい由来がある。ちょうど1年前に登った御祓山のレポートにも書いたが、 餅耕地のスリが峯は往古但馬国が泥の海の時代に神様が舟で御通行の際に船の底をすった・・・。 また御井神社の『まいそう祭り』では 古来泥海だったこの地で行方不明になった神船を探す様が祭りになり、山向こうの建屋の船谷ではそれを見つけたという祭りもある・・・
というくだりだ。実は建屋山の山中にはこの船着き場があったという伝説も残っている。
他にも風穴があったり、滝があったりとロマンと伝説に満ちた山だったことがわかった。
追記 後日、ゆうすけ君より貴重な写真を送ってもらった。それは我々が下山したグランド付近の古い写真だ。 これを見れば一目瞭然。畑へ抜ける峠道も明確だし、うっそうとした植林も当時はまだ無かったのがわかる。
今回の建屋山の地図は
こちら(約220k)
でごらんください。 |