はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『生野』、『粟賀町』を参照していただくようお願いいたします。 2012. 3.31. 日曜日 曇り 気温 ふつう
神明谷の名前を初めて聞いたのは作畑ガールと いも峠〜金蔵寺 へ行ったときだ。現在加美町的場にある金蔵寺は元々は笠形山のふもとの神明谷にあったという。 そのときは「ふ〜ん・・」と聞き流していたのだが、その後この谷にはほかにもいろいろとおもしろいものが あるというのを知る。 作畑ガールの知り合いである地平さんからの情報で、まずは不動明王の磨崖仏がある (これは地平さんが過去に発見済み)。他にも神明神社という神社の跡とか宝篋印塔(ほうきょういんとう) もあるらしい(これらは地平さんも未発見)。そこで三人でそれらを探しに行こうということになった。 そんな誰も知らないような谷に寺跡やら神社跡などがあるとはまったく知らなかった (県の遺跡資料にも載っていなかった)。去年のことだが、偶然に神明谷に関するおもしろいものを発見する。 それは県道沿いにある根宇野(みよの)の首切り地蔵のお堂前。
石の道標があり『従是 右ハ神明道 左ハ京道』とある。
道標にも名前が刻まれているぐらいだから昔は有名な場所だったのだろう。これを見て
俄然行きたくなったのだ。今回も出発前に地平さんにも見てもらう。
地平さんが言うには、昔?修験の行者が
ここを通過するときは必ず神明谷にむかってホラ貝を吹いたと。神明谷はやはり聖地なのか。
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首切り地蔵にある道標を見る | 林道の終点手前に止める |
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越知川を渡り林道を上る。ゆず畑と栗畑を通過するとすぐに終点だがその手前のスペースに駐車。 9時40分スタート(今回は時間はほとんど関係なし)。 後でわかったのだが、林道の終点『A』から川(滝の上)を渡るのが正解だったようだ。 帰り道はこの滝の上を渡渉したのだが、川底の岩盤から飛び出た鉄筋が残っていた。やはりここには 橋があったようだ。
そうとは知らずそのまま左岸を進む。 地形図では左岸に道があるように書かれているが実際は無い。地平さんも「右岸に道があったはず。どこかで川を 渡った記憶がある」と言う。 (今回のルート図は自分たちの辿った道ではなく、正規のルートを描いています) |
左岸から右岸へ | 右岸には良い道があった |
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そこで川を渡ってみるとそこには立派な道があった。これで安心して進めると思ったら、地平さんが 「この左の植林帯のどこかに宝篋印塔があるらしいです」と言う。まったく雲を掴むような話だが 小さい物ではないし、案外簡単に見つかるかも。
幸いに小径があった。これを登ってみようと二人に提案する。
斜面を見上げると標高400m地点から急に斜度が大きくなっている。
ほんとにあるとしたらあそこに行くまでのどこかだろう・・・。
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ありました | いつぐらいの物だろう? |
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左右を交互に見ながら登っていくと左手に明るい箇所があり、そこにスクッと立つ宝篋印塔が! 大声で二人を呼び寄せる。10時05分。その石塔の周辺だけ植林がされていないために 空間があった。地平さんはさっそく携帯で見つけたことを知人に連絡している。 そうとう傷んでいる。相輪は途中で折れて短くなっているし、その上にあるはずの宝珠は地面に落ちていた。 四隅にある隅飾りは申し訳程度に尖っていて、全体のバランスの悪さからして本職の石工が造ったものでは ないようだ。全体に線刻があり、胴の部分にも種字が彫られているのだがほとんど読み取れない。 作畑ガールからもらった資料にはこうある。 『現在の多可郡加美町的場にある金蔵寺は元はこの神明谷に在ったのが嵐により寺は流出し、其の神霊の 紙の御幣が翌日的場の山中の大木に引っ掛かっていたので其処で祀ったのが現在の金蔵寺であると云う』 (的場の金蔵寺の伝承はこれとは違っているが、やはり笠形山がキーワードとなっているのは同じ)
この植林帯もその地形からみても山が崩れた跡の地形なのは間違いないだろう。
ならばこの宝篋印塔は土砂で流された金蔵寺に関するもので、ここに金蔵寺があったのかと言えば
それはわからない。そもそも崖崩れは奈良時代のことだというが、この宝篋印塔はどうみても
それほどは古くない。しかもこの谷はなんども洪水などで崩れているそうだ。
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今度は磨崖仏だ | これまた、いつの物だろう? |
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興奮さめやらぬまま次は不動明王の磨崖仏だ。右岸の道に戻り続きを登っていく。 それまでよかった道もやがて崩落した箇所なども出てくる。地平さんは磨崖仏を間近に見るために 脚立を持って歩いているので危険だ?
「あそこです」と指さす所は岩壁になっている。高さ5mぐらいの所にそれはあった。10時35分。
舟形に彫り窪んだところに不動明王の立像が浮き彫りされている。
これはなかなか表情の彫りも細かくて業物と言えそうだ。きっちりとした足場を組んでいないと彫れない位置だし。
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これが不動滝?? | カタツムリトビケラ |
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横の岩盤をちょろちょろと流れ落ちるのが不動滝だろうか?伝承の記述からするとそうみたいだが・・・。 見上げると一段高い所はさらに大きな岩壁となってそこから水が落ちている。あっちがほんものかも? 地平さんがその岩場で何かを見つけたようだ。見せてもらうとそれは極小の虫だった(準絶滅危惧種)。 よくまあこんなのが見つけられると思ったが、 そう、地平さんは昆虫の専門家なのです。 |
土が剥がれて危険 | 石組みが残っている |
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さて、最後に残ったのが神明神社跡だ。とりあえず続きの道を登る。表土が剥がれて 岩盤がむき出しになった箇所などもあり滑らないように注意。そうでない所などは石組みで補強されており いかにも参道だったかのよう。
大きな谷が二つに分かれる地点で対岸に気になるものが見えたが、とりあえず前進をする。
しかし前方が倒木だらけで笠形のピークとは離れる谷だったのでこの先にある可能性は低いと判断。
引き返す前にここでおやつ休憩。
引き返して谷の分かれ目付近で対岸に渡る。ここは二つの谷に挟まれた地点。 そこになにかあるように見えたのだが、 実際にやってくると何もなかった。はて、神明神社はどこにあったのだろう? 薄い踏み跡があったのでそれをよじ登ってみるが そこには炭焼き窯跡しか無かった・・・。万事休すか。
地形図をじっくりと見直す。もし、神社があったとしたらもう一方の谷の奥かと思い
そちらを見てみるがガレがひどくて参道があったように見えない。
神社があるにはちょっとした平坦地が必要だ。今いる炭焼きのちょっと上にそれらしい
平坦地があるのでそこまで行ってみようと言う。
先に駆け上がっていくとそこにありました。大声で二人を呼び寄せる。11時53分。
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バンザーイ | 神明神社跡 |
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手水鉢 | 陶器の欠片 |
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まちがいなく神明神社跡のようです。 形を整えられた石で周囲を長方形に囲まれて、中には礎石らしいものも等間隔で置かれている。 背後の山側は石垣で崩れないようにされていた。 正面はどちらだろうかと見ると、手水鉢があったのでこちらだろう。 地平さんによるとここで獅子舞(現在は神河町の指定文化財)が奉納されたといいます。
三人であーでもない、こーでもないと興奮気味にしゃべります。地平さんが聞き取りした
おばあさんはこの神社にお参りをしたという。その程度のことしかもうわかっていないらしい。
たった2代ほど前のことが
もうわからなくなってしまっているのだから歴史、伝承の危うさを実感する。
帰路は神明神社の参道とわかった右岸の道をそのまま下る。登るときに見えていた『E』の地点の 滝を帰路に撮影する。高さはさほどないがきれいな滝だ。 宝篋印塔の分岐を過ぎ、正規の渡渉地点もわかって林道の終点『A』に立つ。
二人は林道に戻ったが、この近辺にも滝があったので私一人で滝の撮影をする。 時間が無いのであまり良いアングルでは撮れなかった。
撮影しただけで4カ所ほどの滝だ。大満足で今回のレポートを終了したいところだがそうはいかない。 神明神社はその後どこに降ろされたのだろうか。
まずは岩屋にある住吉神社へ行ってみるが、そこは違っていた。「やはり根宇野の神社だろう」ということで、
地平さんに案内してもらったのが『大歳神社』。長い石段を登り詰めた右手奥にそれはあった。
『神明天照皇大神宮』となっていることから祭神は天照大神。
お社の前には神明谷当時のものかもしれない石灯籠の胴の部分もあったりする。
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大歳神社 | 神明神社 |
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境内にある『根宇野獅子舞』の案内板にはこうある。『・・・なお明治初期までは、神明谷の神明神社(現 大歳神社に 合祀)に奉納したと伝えられています。・・・』と。明治になってからこの神社に合祀されたものらしい。 ただし地平さんが言うところのおばあさんは明治の後期に神明谷の神明神社にお参りしたという。 この記述と矛盾するのだが、おばあさんの記憶が正しい(案内板の記述が間違い)とすると、明治39年に 行われた一村一社とする神社合祀政策で里に降ろされたのが考えられる。 最初の目的である『宝篋印塔』、『不動明王の磨崖仏』、『神明神社跡』の三つとも確認できたが、 石塔の年代、金蔵寺のあったと思われる場所、神明神社の合祀された年・・・などさらに増えた謎も多い。 他にも疑問に感じるところがあるのだが、それはまた次の機会に・・・。
今回の神明谷の地図は
こちら(約125k)
でごらんください。 |