はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『出石』を参照していただくようお願いいたします。 2011. 6. 5. 日曜日 曇り 気温 あつい
ネットでなにげなく検索をしていると『山名氏城跡保存会』なるHPがヒットし、そこには興味あるレポートがあった。 それによると出石の山中に涅槃寺(14世紀頃?)の廃寺跡があるという。 そこは8年前に登った 大高山 のどこからしい。 ちょうどYSさんが二等三角点の山の完登を目指しているので(大高山は二等三角点です)、再訪するにはいいきっかけになる。
過去のレポートを見てみると大高山は点名が『古寺』という。なるほど廃寺があって
しかるべき点名と言える(実際は古寺はこの周辺の字のようです)。
さっそくYSさんをお誘いするが、
出石に近い奥米地がお母さんの実家だという作畑ガールも参加するという。
八坂集落の入り口、奥矢根峠への林道分岐に空き地があるのでそこに駐車。9時22分スタート。 八坂集落へ向かわず逆戻りする方向に歩き始める。実は谷山川をちょっと下った川向こうに 権現堂があるのでそれを見学したいのだ。
途中には民家もあるので権現堂について聞きたいこともあったのだが呼び鈴を押しても 返事がなかったので素通りすることにする。 この権現堂は前回のレポートで登った八坂集落奥にある権現山の山頂にあったのだが、 昭和63年にここに降ろされたのです。 |
お詣りしましょう | 阿弥陀仏??釈迦仏?? |
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当然、お祀りされているのは蔵王権現だと思っていたのだが中央にあるのは如来仏だった。 それもちょっと見たことのない姿をしていた。印相が不明な上に右手に持物を持っている (何なのかわからない)。 その左手には蔵王権現の御影もあるがつい最近のものだ (小さなお札に絵像と種字が書かれているが、どうみてもどこかのおみやげ品のような感じ)。
このお堂の扉上にある扁額は出石にある臨済宗宗鏡寺(沢庵和尚で有名)のお坊さん(1756〜1822)が書いたものらしい。
そこの本尊が釈迦如来なので、ひょっとしてその関連かなあ??
いろいろと想像はしてみるものの、とりあえず謎です。
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簡易舗装の林道を行く | 終点は広場だった |
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道路に戻ってもう少し下ると右手に林道がある。今回はこれで大高山の山頂を目指す。 『山名氏城跡保存会』からも寺跡のだいたいの位置を教えてもらっているので まずはそこを通過することを目指す。 地形図ではこの林道周辺は牧草地の地図マークが付いているがその面影は無い。 とりあえず林道の終点まで行き、そこから尾根に取り付くか、あるいはその周辺を 探索することになる。
その林道終点にはモミジの大木のある広場になっていた。10時05分。
モミジの木陰に廃車があるのが目障りだが、それがなければキャンプでもできそうな広場だった。
ここからセオリー通りに尾根に取り付こうかと思ったのだが、谷に沿って林道の続きがあるのを
発見。それを進んでみようと歩き始める。
地図の『D』で道は谷を離れて右の支尾根に回り込んでいた。 目的の尾根から離れてしまうので具合が悪い。そこに向かうにはここから左の斜面を よじ登る必要がある。私やYSさんは慣れているが作畑ガールは後ろでヒーヒー言いながら着いてくる。 支尾根に出ると割と歩きよいのだが、突然作業道に飛び出て驚く。 どこから登ってきているのか不明。ひょっとしたら先ほどの林道の続きだったのかも・・・。
作業道は快適そのものだが、山腹を左に巻いて行こうとする。少し歩いてみたがどんどん 離れていく様子なので引き返してそのまま支尾根を登る。 標高差で30mほど登れば最初の平坦地になる。 |
あきらかに人工的な平坦地 | 何か無いかなあ・・・ |
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いくつか段差がある | 礎石?石段? |
あきらかに人工的な削平地が広く広がっていた。その広い平坦地が三段ほどある。 しかし『山名氏城跡保存会』のHPで見た画像とはちょっと雰囲気が違う。 なんらかの坊の跡には違いないが、本堂跡ではなさそうだ。地形図を見て ここよりさらに上にある平坦な尾根が本堂跡だろうと思いさらに登ってみる。
ところがそこには何もなかった。あれ〜?本堂跡はどこなんやろ?
地形図を見てもそこが本命のような広い尾根なのだが・・・。
さらに上かと思いながら登っていくとそのまま大高山の頂上に出てしまった。
11時25分。
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大高山山頂 | バンビと出合う |
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なにか、中途半端な気分のままだが 山頂でおやつを食べ、そのまま黒岩へ向かう。そこで昼食にする予定だ。 イワカガミの群落を抜けて黒岩へ向かう途中で子鹿が居るのを見つける。 我々がそばに寄っても逃げるどころか動くことさえない。 病気か怪我でもしているのだろうか。しかし、自然に手を加えることは 極力さけなければならない。かわいそうだけど通り過ぎる。 |
ここで昼食。八坂の集落と自分たちの車も見える |
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黒岩に到着。11時55分。それにしても今日は風もなくて無く蒸し暑い。 そのせいかモヤもひどいくてせっかくの展望地なのに遠くは見通せなかった。 とりあえず食事を済ませて人心地ついたところで、作畑ガールと オカリナ&アンデスで合奏をする。YSさんの口笛も参加で楽しいひとときを過ごす。
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目の前に権現山 | 激登りが続く |
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12時35分黒岩を発つ。目の前に尖った権現山のピークがそびえる。 標高差は大して無いのだが、ちょっと下ってそこから登り返すのはちょっと辛い。 作畑ガールは「下ってまた登るんですかあ〜」と弱音を吐く。そのときリュックの無線機から CQが聞こえたので小憩を兼ねて無線をする。
それは権現山からのCQだと聞こえたので、よもや目の前にある権現山からかと思い確認したかったのだった。
応答すると、それは与謝郡の権現山
から(JM3AVI)だった。こちらは出石の権現山だと交信をする。
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ぺしゃんこにつぶれている権現堂 | 一対の石灯籠は残っている |
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激登りをクリアーして権現山には13時10分。 山頂には無惨に崩れているお堂跡と一対の石灯籠が残っている。里に降ろされる前までは どんなお祀りがされていたのだろう?下山後八坂のYさんちに立ち寄ったのに、うっかりそのことを 聞きそびれてしまった。 権現山の権現堂は天正年間(1573〜1592)に出来たとスタート時に拝観した権現堂に書かれていた。 大高山山中にあった涅槃寺が存在した頃には、ひょっとして修験者たちが涅槃寺〜黒岩〜権現山と 飛び回っていたかもしれない。 というのも権現堂は修験の仏である蔵王権現を祀っていたからだ。石灯籠には 『奉献蔵王大権現』と彫られている。ただし、一つは『天明八申歳(1788) 八月吉日』、 もう一基は『天明八戊申年正月吉祥日』と、寄進されたのが半年ほどずれているのがやにやら興味をそそる。
この天明年間(8年間ほど)は学校でも習ったように、大飢饉はあるわ、浅間山は噴火するなど自然災害は頻発するし、
政治では田沼意次は暗殺、京都では大火災ととんでもない時代だった。
この権現堂だが、天明という年代に灯籠が寄進されたのは
こういう災いが遠い出石にも影響があったからかもしれない。
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但東・出石の境界尾根を下る | 奥矢根峠は無くなっていた |
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権現山から里に下りる参道は現在では相当荒れていると思われる。そこで前回の逆コースで 奥矢根峠へ向かうことに。出石と但東の境界尾根は切り開きもしっかりとあり、 快適に下れる。
まもなく峠だと言ったその刹那、尾根は突然無くなる。見ると旧峠は重機で深く掘り下げられ、
林道となって出石と但東とが繋がった状態になっていた。
ほとんど崖状態ののり面を下って峠に降り立つ。あぁ、昔は出石のお殿様が通過したという
由緒ある峠なのに・・・。残念としか言いようがありません。
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駐車ポイントの三叉路に着く | 地蔵堂にある石の道標 |
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峠から旧道で林道に下りる。そこからはのんびりと林道歩きだ。 もちろんこの林道もお殿様が歩いたはず。 林道の出口、村への道との三叉路には地蔵堂があり石の道標も置かれている。14時25分。
その道標には、正面に『知(漢字で一文字) 左 たんご 右 むらみち』とある。左側面には『大正二年』と比較的新しいことがわかる。
右側面の文字は読みとれないがたぶん寄進者の名前だろう。その文字の稚拙な彫り具合からして、寄進者自身が彫ったものと
思われる。この道標があるということは少なくとも大正時代も奥矢根峠は現役で使われていたということに
ほかならない。
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Yさんちへ立ち寄る | 化粧地蔵も見ました |
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これで今回の山行きは終了だが、八坂集落のYさんちへ立ち寄ってみる。 8年前にも訪れて、そのときに大高山、権現山の山名も教えてもらったのです。 残念ながらご主人は他界されていたがおばあさんは元気そうで我々との会話を楽しんでくれた。 興味の無い人は見過ごしてしまうかもしれないが、出石には化粧地蔵なる石仏が数多くある。 それらを見物しつつ出石の奥座敷ともいえる八坂を後にした。 後日、図書館で調べたら、我々が目撃した寺跡とおぼしき所より西山腹を回り込んだ所が 本堂跡のようだった。
今回の大高山〜権現山(涅槃寺探索)の地図は
こちら(約80k)
でごらんください。 |