但馬妙見山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『栃本』、『関宮』を参照していただくようお願いいたします。

2011. 8.28.  日曜日  晴れ  気温 あづ〜い

今年も但馬妙見山に登ることになった。ほんとなら新しいコースを開拓したかったのだが、 作畑ガールのリクエストで登ることになったため、極々普通の『大ナル新道』で登ることにする。 9時半に名草神社に集合ということで、TQFさん、YSさん、作畑ガール、私の4人のパーティーとなる。

明治以前、妙見山の名草神社(ほんとは石原山帝釈寺)への参道は、その周辺集落から網の目のように無数に 存在していた。その参道沿いにはいくつかの磨崖仏(私の知っている限り4体)がある。 今回は石原から登る林道沿いにある不動明王の磨崖仏を見学だ。

道沿いにあるので難なく見られるこの角度から見るのがわかりよい

表面に地衣類などがべったり張り付いているので文字が彫られているのか不明だったが、 案内板には『天文十四年(1545)八月十一日』とある。 ここから名草神社(石原山帝釈寺)まではずいぶんと遠いが、昔の人はそれを苦とも思わず登っていったのでしょう。 その途中には丁石仏(現在は石原にある日光院に70体ほど安置されている)やら、ここの磨崖仏などが 参拝者を勇気づけたに違いありません。
地層を見る

加瀬尾集落への分岐を過ぎてしばらくするとはっきりとした地層の見えるのり面がある。 村岡累層と呼ばれており、写真の場所ではないかもしれないが化石なども採れるという。 やがて三叉路に到着して、とりあえず集合場所の名草神社へむかう。時間はジャスト9時半。YSさんはすでに 到着しており、TQFさんも無線でまもなく到着と言う。
キャンプ場手前にある駐車場すでに廃業?しているキャンプ場

キャンプ場まで車を上げようと走らせるが路面が良くないので、その手前にあるスペースに 駐車する。本来はここがキャンプ場の駐車場であり、キャンプ場が営業している頃はここから キャンプ場まで歩いていたのです。9時55分スタート。昔なつかしい キャンプ場に寄り道する時間もないのでそのまま登山口まで行く。 どんなキャンプ場か知りたい方は こちらのレポート をごらんください。
大ナル登山口大きな切り株がいくつもある

登山口には10時15分。この奥にだだっ広い空間があって、さらに奥へ道があるのかどうか 確かめたことはない。しかし、この周辺は『妙見大ナル遺跡』と呼ばれる縄文時代の遺跡なのだ。 つまり縄文時代からこの山中に人の手が入っていたというにほかならない。 (だからこそ現在も霊山として存在しているわけだが・・・)

最初はゆるやかな道だが、階段のジグザグ登りとなる。 登り切るとまた平坦になって、そこは見晴台と名付けられたポイント。 しかし、それは昔の話で、今は周辺の木々が成長してしまってなんにも見えない。

急な階段登りが2度ほどあるブナの尾根

しかし、もう一度急登りをクリアーすると、そこはブナの尾根でその樹間からは名草神社の 屋根部分、さらに奥には白い但馬ドームも確認出来るのだった。 そしてもう一度階段の急登りをクリアーすれば山頂はもう目の前だ。

現在歩いているのは『大ナル新道』という登山道。これがいつ頃整備されたのかは知らないが、 それ以前はどういうルートで登ったのだろう?当然考えられるのは名草神社の西にある妙見峠から 稜線を登るのがメインだったと思うが、別途地図に書いたようなルートもあったようだ。

山頂に到着

山頂には11時18分着。さっそく食事とするが、今日は無線組があちこちの山に登っているので 無線機のスイッチも入れねば・・・。氷ノ山にはIRC・DQKさん夫婦。植松山にはOAPさん。 千が峰にはWCYさん御一行。さらには無線の合間には作畑ガールとの合奏もあって忙しい。
ポレコさん登場妙見峠へむかう

そのとき一人の女性が頂上に到着。私を見て「やまあそさん!ポレコです」あらまあ、6年前に山中で 偶然お会いして以来の再会です。 しばらくお話して我々は先に出発。12時10分。この時TQFさんは山頂にタオルを忘れていたのですが・・・。
妙見峠に到着

ここのブナの尾根もすばらしい。それらを楽しみながらまもなく妙見峠という所でTQFさんが タオルが無いことに気が付く。取りに帰ると走り去るも1分も掛からずに帰ってきた。 というのも、ポレコさんがそれに気が付き持ってきてくれたのだった。 さすがに霊山の御利益!!仲良く5人で妙見峠に12時50分。
寄進者にお寺の名前もある

峠からは丁石仏を眺めながら名草神社を目指す。いつもならこのコースはMTBに乗って下るので 丁石仏をあまり丁寧に眺めたことはなかった。今回は歩きなので立ち止まって見ているとある共通項を発見。 それは寄進者が個人にしろお寺にしろ、すべて妙見峠から西側の人たちだと言うこと。 妙見峠を越える参道なので、考えれば当たり前。

もう一つはお寺の名前で寄進されている石仏があるということ。これはこの参道が名草神社への参道ではなく、 石原山帝釈寺というお寺への参道だったということを再認識させられるものだ。これも考えれば当たり前のこと。 そもそも神社への参道に地蔵菩薩は変でしょ。

左甚五郎作?の竜虎

名草神社の存在を否定するわけではないが、八鹿の資料などにはなぜか明治以前にはここが 石原山帝釈寺だったということの記述すら無い(単に私の持っているものに書かれていないだけかも・・・)。 正確な(あるいはこの場合公平な)歴史を伝えるべきではないだろうか。 少なくとも神社の境内にそういう記述があってしかるべきだと思う。
護摩堂の天井妙見を表す七曜紋

神社にあるはずのない煤で真っ黒になった護摩堂跡。現在の日光院にもある妙見を表す七曜紋。 極めつけは出雲大社から譲り受けた三重の塔。素人の私が見ても不思議の思うこれらのものを 説明するような解説板があったもいいんじゃないだろうか。
立派な三重の塔

本来ならこの三重の塔には虚空蔵菩薩が安置されていましたが、それも明治の廃仏毀釈の難を逃れて 現在は日光院にあるそうです。 さらにその隣には樹齢1500年の大杉の根株。作畑ガールのおじいさんは若い頃 この大杉を見たとか。平成3年に倒れた夫婦杉を今日は孫が見ています。
台風で倒れた夫婦杉

帰りには日光院にも立ち寄りました。ここの資料宝物館は無料なのでぜひ立ち寄られることをおすすめします。 ほんとはご住職の熱い思いを聞きたかったのですけどね。
オオカミのお札の版木

家に帰ってなにげに検索していたらおもしろいことがわかった。それは妙見と狼に深い繋がりがあるという。 そこで思い出したのが宝物館にあった狼の絵柄のある版木だ。 写真から文字を読みとってみると『狼御守 妙見尊』と読める。 妙見と狼とはどんな繋がりがあるのだろう?

以下はまったく私の想像から考えたことだが・・・。 天体の動きから農業をコントロールするという意味で妙見信仰は隆盛を極めてきたと思う。 農業が発展すると 農作物を荒らす害獣の問題が出てくる。 そこでそれらを守るのが犬の仕事となるのだが、 日本の古代の犬は山窩衆たちが狼を改良してきたものだという。 (やがて大型の西洋犬が日本にやってきたとき同時に、 狂犬病を持ち込んできたために和犬やら狼は絶滅に追い込まれていった)

そこで、 『狼御守 妙見尊』のお札は、狼から身を守るためのお札ととらえるか (本来はこちらのほうが単純で、可能性は高いけどおもしろくない)、あるいは上記のように 五穀豊穣のご利益を約束する妙見信仰が害獣から田畑を守るためのお札と考えることも出来そうだが いかがだろう。

三重の塔にあった虚空蔵菩薩

日光院にあるという妙見菩薩の仏像は秘仏で住職しかその姿を見ることができないそうだ。 で、三重の塔にあった虚空蔵菩薩は廃仏毀釈の際に難を逃れて日光院にあるという。 この妙見と虚空蔵、そして狼というとりあわせは全国にあるそうだ。

作畑ガールの資料によると、我々が歩いた妙見峠にも昔はお堂があって虚空蔵菩薩が 祀られていたという。現在はどこにあるのか知りたいものだ。せめて峠の周囲にお堂の 痕跡でもあれば・・・。そうそう、虚空蔵は金星を表すそうで、これもまた星に関連があるのだった。

今回の但馬妙見山の地図は こちら(約140k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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