御祓山(旧御井神社、旧産霊神社探索)

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『大屋市場』を参照していただくようお願いいたします。

2011. 5. 2.  月曜日  晴れ  気温 ふつう

話は6年前に遡る。みづめ桜が世間で有名になり始めた当時、MTBで御祓山から樽見の桜 まで縦走したことがある。そのときからずっと意識の片隅に残っていたのが表題の神社趾のことです。 この山は急斜面できついのにもかかわらず、どちらも山頂近くにあるのもなんだかすごいじゃないですか!

但馬には古来より続く『お走り祭り』というのがあって、この御祓山にあった旧御井神社まで御輿を担ぎ上げていたという記述があるのです。 そこで御祓山のどこかにあるそれを発見したいという思いがありました。もう一つの 旧産霊神社は2005年に大屋富士の三角点手前で発見済みなので、今回は旧御井神社趾の発見をメインに考えます。

ところが、みつばつつじとみづめの桜の時期はすっかり終わりと思われるので来年の良い時期にしようと思っていたのだが、 作畑ガールがどうしても行きたいというので花は無視して神社だけ探す山行きとする。 若いのにこんなマニアックな山行きがしたいというのは見上げた?心がけだ。 糸原の登山口駐車場には誰も来ていないと思っていたら数台止まっていた。準備をして9時33分スタート。

つつじ回廊につつじ無したまにあると感激?

駐車場にあった車の主たちは朝早い登頂だったのか、次々に降りてくる。その内の一組は 作畑ガールと知り合いの方で、みづめ桜の手前でしばし立ち話に花を咲かせる(頭上には みづめの桜も咲いているし)。
地元の人が言うには今年は裏年らしい

樹齢600年になろうというみづめ桜には11時08分。裏年らしいし、時期が遅いので期待していなかったが まあまあ咲いている。本来ならここから桜の花越しに雪をかぶった氷ノ山と、その手前に天滝が望めるのだが、 中国からのあの忌まわしい黄砂のためにまったく見えない。つまり、ここまで良いところ無しの登山ということか?
恒例の激登り箇所一旦ゆるやかになる。この先で右に下る

駐車場の車の台数に見合ったハイカーとすれ違ったので山頂にはもうだれもいないだろう。お昼前なのに みなさん早い登山です。作畑ガールは激登り(といってもロープがある)にビビり気味。 登りはできてもこのコースの下りは無理だという。ちなみに私はここをMTB担いでますけど・・・。

伝承では山頂にあったと言われる旧御井神社ですが、実際の山頂にはそんなものがあったような形跡はまったく無い。 しかし、地形図を見てみると山頂から南にある標高650m付近のなるい箇所が怪しい。 念のために県の遺跡資料を探してみると、やはりここのエリアが示されていた。

一旦ゆるやかになっている箇所がある。そこから山頂へさらに続いている登山道なのだが、その登り始めから 右手の斜面を見ると、ゆるやかなクヌギ雑木の斜面が広がっているのに驚かされる。 そこが地図の『C』のエリア入り口なので足を踏み入れてみる。

落ち葉の斜面を下るあ・り・ま・し・たぁ!

それはあっけなく見つかった。斜面を駆け下りながら視線にチラッと入ったものがあったので、 そちらを見ると、なにやら石柱がある。正面に回り込むと『御井神社御跡』と彫られている。 探し始めてわずか30秒。登山道からも目をこらせば見つけられる。 あまりにあっけなかったので、作畑ガールは私が最初からこの場所を知っていたのではと思っていたぐらいだ。

しかし、この標石があった場所は広い平坦地とは言い難く(地図の平坦エリアの端の箇所)なので、 その下に広がる雑木の広場を少し歩いてみる。 なにか石垣でも残っていればと思ったのだが、厚い落ち葉に隠れているのか、発見はできなかった。 下山後にわかったのだが、この石柱は石田源ジュウロウさんという方が設置したという。年代ははっきりしないが、昭和の ことだと思われる。

広い平坦地。何があっても不思議ではない

現在の御井神社は御祓山の最南端にある宮本集落にあるが、 天文年間(1532〜1546)以前はここにあったということだ。そのころにお走り祭りが行われていたとすれば ここまで担ぎ上げられていたのだろう。 さらにここは岩井牛頭天王社とも呼ばれていた歴史があり(大屋町史では京都八坂からの分霊と書かれているが、普通に考えれば 姫路の広峰からが順当だと思われるがどうだろう?分霊された年代(1200年頃)からすると、御井神社の 前身だったのかも)、これまた興味の尽きることがない。
御祓山山頂

三等三角点、標高773.1mの御祓山には12時07分着。予想どおりに山頂は無人だった。 本来ならここから作畑ガールが大好きな千が峰(またに山〜三国岳までも)が見えるのだが、 黄砂のためにまったく見えない。というか、今まさにその黄砂を吸い込んでいるわけだ。 気のせいか、口の中がざらざらする? 食事を済ませて12時35分大屋富士へ向かって出発。
稜線には林道がある地図『E』の分岐箇所に到着

しばらくは普通の山の稜線だが、いきなり林道が稜線上に出現する。私は何度も来ているからわかっているが、 初めての人ならこんな山の中に?!って驚くような雰囲気だ。林道なので歩きははかどる。 地図の『E』地点から林道は右に大きく曲がる(白い矢印方向)が、そちらへ向かうと林道は終点となり、 終点よりさらに進むと樽見の大桜へ行くことが出来る。

ここは黄色の矢印方向に進まなければならない。 目印は、いつからあるのかオフロードバイクのテールランプが置かれている地点から左に入る。 最初はわかりにくいがやがて明確なソマ道となって631ピークへ向っている。

昔、水際だった証拠?あそこに神社跡がある

植林の中の薄暗いソマ道からやがて明るく開けた道となる。そののり面にはおもしろいものがある。 素人の私が見ても、それは水で摩耗した川原石のような丸石。それが堆積したレキの地層だ。 ということははるかの昔はここは水辺、あるいは水底だったということか!

餅耕地のスリが峯は往古但馬国が泥の海の時代に神様が舟で御通行の際に船の底をすった・・・。
また御井神社の『まいそう祭り』では
古来泥海だったこの地で行方不明になった神船を探す様が祭りになり、山向こうの建屋の船谷では それを見つけたという祭りもある・・・
なんと、おもしろい言い伝えだろう。これらの言い伝えを聞いた後でこの地層を見ればロマンある空想に浸れること 間違いなしだ!

何度か鹿避けネットを通過するそして植林の中に・・・

稜線上には鹿避けのネットがあるので、何度かそれをくぐらなければならない。無理して乗り越えなくても ドアがあるのでそれを見つければOK。ネットの向こうが真っ暗な植林帯になればそこが 旧産霊神社の跡地だ。13時40分。 石柱には『村社之旧跡』裏手には『明治三十九年 午八月移転』とある。
石柱を離れた所から見ると、広い石垣と石段が確認できる

初めてここに来たときは当然ながら、こういうものがあることも知らなかった。 ところが、ここに来たときにビビッと感じるものがあって発見できたのでした。霊感は皆無ですが 地形の不自然さからなにか感じたのかもしれません。

今回の予定では里に下りる参道が残っているようならばここから下山するつもりでした。 ところがそれらしき踏み跡も発見できなかったのでプランBの発動です。 それは前回の山行きで発見していた、大屋富士からジグザグに山腹に刻まれた作業道跡です。

点名『上山』リコーダーの練習だ

三等三角点、標高598.2m、点名『上山』には14時ジャスト。 この山は麓から見て富士のように見えることから『大屋富士』と呼ばれているが、この○○富士という呼び名は あまり好きではない。本来の山名がないがしろにされかねないからだ。 かくいうこの山も古来からの呼び名が不明のままだ。下山後に糸原で確認すると『宮山』と言うらしい。 『上山』はあくまでも三角点の名前、『大屋富士』はいわば愛称?、そして『宮山』は俚称ということになる。

この三角点のすぐ横手は落ち葉の広場になっていて1本だけ三つ葉ツツジがきれいに咲いている。 ここで最後の小憩をするが、作畑ガールからのリクエストでリコーダーの練習もする。 すると周辺にこだましてすごく響きが良い!!目と耳から心がいやされる瞬間だ。

さあ、下るぞ崩れかけの作業道

だいたいこの辺かと見当をつけて尾根の左側に身を乗り出すと、ジャストそこが 途中の尾根歩きで見えていた作業道の入り口だった。この道以外下りようが無いと言えるほど 山の傾斜は激下りの様相をしているのでラッキーだった。 作業道は崩れかけているが、ジグザグに付けられているので歩くには楽だ。
桑畑の石積み耕作地いにしえ人たちの汗の結晶だ

高度が下がって植林帯に入って驚いた。 そこは見渡す限りの桑畑跡だった。とにかく広大だ。ここが機能している時代に 山の上から見下ろしたらさぞかし壮大な景観だっただろう。 この周辺は養蚕がさかんだったので、こういうものが残っているのだ。 大屋町で文化財として保存してても良いぐらいに思える。
糸原集落に降ろされた産霊神社狛犬の懐には!!

二人でわーわー言いながらようやく里に降り立つ。15時40分。歩いた距離から 考えるとやはりスローペースだ。畑仕事をしているおばあさんに話しかけて産霊神社のことを 聞いてみたりする。ここで山名を教えてもらったのだが、この年代の人でも実際に神社趾には行ったことがないらしい。

里に降ろされた産霊神社にお参りする。現在はいろいろと合祀されていたが、元は高皇産霊神、 神皇産霊神の二神(お二人とも創造神)が祭神である。 ふと見ると狛犬(口を開けた『阿形(あぎょう)』)のお腹の下になんと鳥の巣と卵があった。 つまり狛犬が抱卵しているように見えるのだ。まさに生命を生み出す産霊にふさわしい光景だった。

宮本に降ろされた御井神社、一の鳥居

産霊神社の次は御井神社への寄り道だ。実は翌日が御井神社の祭礼になっている。 宮本の集落内では白い幟がはためいている。神社まで登ろうかと思っていると、一の鳥居前の家で 草むしりのおばあさんに出会う。話をするとこの近所で神社に詳しい人がいるそうで、 案内してくれるという。

ここでいろんな謎が解明できると思っていたら、その方はお留守だった。 時間は17時を過ぎているので帰宅を待つわけにもいかず、おばあさんにお礼を言って車に乗る。 ここからカカナベ峠を経て帰ることに・・・。実は途中には岩井廃村があるのだった。

廃村岩井にある別荘(ロープで荷物を降ろす)そこに集まった家族たち

岩井廃村は昭和45年に廃村になったという。その最後の住人が畑地跡に別荘を建てて GWとかお盆に姉弟が集まっている。実は12年前にもその別荘を訪ねてお話を聞かせてもらっていたのでした。 まさか、今日もいるとは思わなかったのですが道路に車も止まっているのであつかましくも立ち寄ることにする。

今回もいろんな話を聞かせてもらいました。やはり御祓山の神社趾は牛頭天王を祀っていたらしく。 集落の奥には『天王滝』なるものもあるらしい。 また作畑ガールの調査によると養父町三谷と大屋町宮本とのあいだで、この神社の取り合いがあって、 結局は宮本のものになったという。

そのことを表した言い伝えなのか、ここ岩井では「茶色の牛にのって、天王さんがおりんさった」。 その際に河原の岩を伝って川下に下ったので、岩には牛のひずめ跡が残っていたという (川の氾濫などでその岩はわからなくなったらしい)。 そのいわれから?岩井では茶色の牛は飼わないという。

竹簾の向こうは??五右衛門風呂でした!

これらの話は五右衛門風呂で入浴中の長姉さんが話してくれたことです。さらには岩井に伝わる 埋蔵金の詩も教えてくれましたが、これはいずれ発掘せねばなりませんので、文言は伏せておきます。(^_^;) もっと詳細に聞きたいこともあったが時間はすでに17時45分。帰宅を急ぎます。

山頂にあったという神社跡の探索からいろんなことがわかりましたが、逆にわからないことも 増えてしまいました。最後に牛頭天王を祀る神社で執り行われている『茅の輪くぐり』。 年に二度行われるこの祭りは『大祓い』などと言われます。御祓山もこのことから命名された 山かもしれません。

今回の御祓山(旧御井神社、旧産霊神社探索)の地図は こちら(約180k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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