はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『栃本』、『関宮』を参照していただくようお願いいたします。 2011. 9.25. 日曜日 晴れ 気温 ふつう
これまで何度か但馬妙見山に登ったがそのつど新しい発見があった。今回はその一つである 「小佐谷の弾丸列車」というものです。が、正直言うとあまり資料が無かったので詳細はよくわかっていません。
ようするに妙見杉を八鹿まで降ろすのに造られた森林鉄道ということです。兵庫宍粟にあった
森林鉄道は初期(大正前期)は人力とか牛馬で引っ張っていたそうだが、やがてそれはSLになる。
SLと言ってもD51のようなものではなく、小型で分解して山の上まで運び、そこでまた組み立てるというものらしい。
遊園地などにあるものを想像してしまうが案外そんなものかもしれない。
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村の入り口にある石仏を見る | 日畑谷遭難者碑とある |
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ところがこの「小佐谷の弾丸列車」には動車は無く、木材を積んだ貨車を重力に任せて レール上を下らせるのだ。そのままだと脱線してしまうので人間がブレーキを掛けながら スピードを調整するのだった。あまりにブレーキが強すぎると途中で止まってしまうし、緩いと 脱線事故を起こしてしまう。なんとも危なげな仕組みだがそういうものが大正時代にあったという。 その軌道跡が残っているというので探しに行ってみよう。いざというとき頼りになるTQFさん、おじいさんが 若い頃八鹿の青年学校にいたという作畑ガール、廃道と自転車で私と繋がりのあるK山さんの変人四人組で行くべし。 村の入り口にある遭難碑は弾丸列車の事故のものだと聞いたことがあるのでみんなに紹介する。 ここはゆるいカーブになっているが、当時は鋭角なカーブだったらしく、ここで脱線して横の淵で亡くなったという。
日畑に一カ所だけ駐車出来るポイントがあるのでそこに車を置いていよいよ出発。8時50分。
集落の中央を流れる日畑川にある橋には『妙見登山道3.5km 加瀬尾1.5km』の標識があって、
今回は加瀬尾へ登る。横手の田圃で仕事をしているおじさんにいろいろと尋ねてみたがほとんど収穫はなかった。
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加瀬尾に向かう | 日畑と加瀬尾を結ぶ道 |
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橋を渡って民家の玄関横から加瀬尾への道を登る。昔は日畑から加瀬尾に電気を送っていたのだろうか、 電柱が間隔をあけて立っている。今はガレた所もあるが昔はそれ相当に整った道だったと思う。 ゆっくり歩いて20分ほどで突如目の前が開けるとそこが加瀬尾集落だった。 |
1年ぶりに吠えられる | 棚田跡を登る |
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1年前に出会った加瀬尾でただ一人暮らしているおじさんを探す。奥から犬の吠える声が聞こえてくるので そちらへ向かう。人を見ることが無いのでこの犬は吠えまくるのだった。 このおじさんからも有意義な情報を得ることができなかった。 (犬がうるさすぎて会話ができなかったのです)
舗装路を上っていくとやがて舗装の妙見林道と出合うが、地形図には集落のはずれから点線のルートが
あるのでこいつを登ってみよう(地図の『B』)。古道だと思うのだが、これが林道へのショートカットになる。
棚田跡には植林がされており、その辺から道は不明瞭になるが林道はすぐ頭上のはず。
舗装路には9時50分。普通の人が見たら単に直線の舗装路があるだけ。しかし、ここは加瀬尾から 我々が登ってきたルートとともにしっかりとした道がある。これは昭和44年にこの舗装路が出来る前の道なの だろうか?ならばこれが旧参道と言えそうだが・・・。
入手している弾丸列車軌道の地図はあまりにアバウトな地図だ。とりえず旧参道とおぼしき尾根道に入ってみる。10mほど歩いてみるが
ここから北斜面を下ってみると・・・。あった!ありました。植林の斜面にきれいな道があります。
どこから始まっているのかと逆方向に歩いてみると、あらら、林道との合流点『C』のちょっと下でした。
改めてそのスタート地点から4人で歩き始める。
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ここがスタート地点 | レッツゴー!! |
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10時12分弾丸列車軌道の起点からスタート。長い年月が経っていることを表すかのように 道の真ん中に巨木があったりするものの、一定の幅、一定の傾斜で続いている。 ただし、枕木とかレールなどはまったく見あたらない。 あとでわかったのだが、この軌道は大正元年から大正10年まで使われていたそうだ。 |
道の真ん中に巨木 | 導水管 |
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軌道跡はみごとなほど一定の傾斜で下っている。ふと右下を見ると植林帯の中に耕作地跡が 広がっていた。それもとてつもなく広い。しっかりした石垣なので水田だろう。 これらは加瀬尾の人々が開墾したのだが、水の獲得に苦労したという。 『D』の谷で焼き物の導水管があった。それらで水を導いたのだろうか。
道は突如行き止まりとなる。地図で言うところの『E』だ。資料ではここからスイッチバックで川下へ 向かうのだが明確は道は無い。周辺を眺めて見ると、どうも一度ここで道が無くなっているような 感じが強い。 話は変わるが、私のレポートはいつもだいたい1週間ほどで完成しています。しかし、今回は 忙しいこともあったのですが、それ以上になんか引っ掛かるものがあって筆が止まってしまった。 その理由の一つがこの場所。資料の概略図を見るとスイッチバックとなっているが、 前述のとおり、道は無くなっているように思える。さらに『E』の真下が『南土場』となっている。 土場とは材木を一時貯めておく場所のこと。
帰宅後、想像するに、軌道はいったん『E』で終了して、降ろした材木はこの南土場に貯めていたのでは
ないだろうか?そこから改めて日畑川沿いの軌道で八鹿駅まで運んだのではないだろうか。
というのも、八鹿駅から空になったトロッコをまたあの稜線まで人力(あるいは牛とか馬)で
持ち上げるのはいかにも現実的では無い。
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崩れかかった斜面を通過 | 二つ目のスイッチバック『F』 |
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筆が止まってしまってどうしようもないので、2週間後に再度日畑の集落を訪れてみた。 そこで最長老だと思われる I 老人(たしか94歳だった)からお話をうかがう。 そのときに大正の10年間に操業されたルートだと教えてもらった。 といっても最後の弾丸列車の大正10年でも4歳か5歳だったわけですから実際に見たかどうかは 定かではない。 ちょっとあきらめ気分だったが、村の一番上にある家のご主人のお話で目から鱗が落ちた。 ご主人(名前聞かずだった)は70歳代の人だが、たぶん親からそういう話を聞かされてきたのだろう。 私が2週間前に歩いたルートを説明すると、 「ああ、あれはキンマ道なんや」「南土場は昔、ダムのように水が貯められていて、そこに木材を貯蔵して、そこから トロッコで八鹿駅まで運んだんや」と。 彼は猟師をしていたので山にことを聞いてもとても詳しくて、先ほどのことも納得させられる力がある。 しかも私が疑問に思っていたことが、この話ですべて解決する。 我々もそうだが、それまでこのことを調べてきた人すべてが『弾丸列車』というものありきというのが 前提だったので、 それが無かったとは考えられなかったためにああいう資料になったのだろう。 そう考えると『E』から三つ目のスイッチバックまでは無かったことになる。 『E』から南土場に一旦材木を降ろし、そこから改めて今度はトロッコによる運搬がされた。 それが言うところの『弾丸列車』なのだろう。
私の導き出した結論は、私の目と耳と足と頭で出たもので、正しいかどうかわわかりません。
ひょっとして大正時代の写真か文献などで、実際に車輪あるトロッコであそこを下ったという証拠があれば
話は違ってきます。
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川を飛び越えて | 休み堂へ向かう |
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さて、そのときは頭が混乱したまま弾丸列車軌道を離れる。川を飛び越えればそこは妙見の参道だ。 とりあえずそれを登って休み堂で食事をする。 今日の後半はこの休み堂の下にある分岐から『N』の峠を目指す。
石の道標横から峠へ向かう道がある。もちろんこれは観音寺という所から妙見へお参りするための参道だ。 曲がるとすぐに不動明王の磨崖仏がある。みんなに見てもらいたい物だったが、上の木が倒れ込んでいた。 幸いに傷んではいなかったが、こういうのは誰が管理するべきものだろうか?名草神社?日光院? |
道が消失 | 違うルートで下ってみる |
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不動を越えて参道を歩くのだが道はどんどん悪くなりやがて崩れ落ちていた。 私とTQFさんで先の様子を探りに行ってみたがさらに悪くなるだけで到底行けそうにない。 しかたなく引き返して違うルートで元来た道を下ってみる。 すると作業小屋があった。この小屋の周辺も耕作地跡なのでそれのための小屋らしい。 |
三柱神社 | その真下にある坑道 |
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どうも今日は中途半端なことばかりが続くようだ。最後は日畑の集落内にある金鉱山跡を探してみよう。 各自勝手にあちこちをうろついている。三柱神社をちょっと下った所にあった。 昔、ここを掘っていたら頭痛やら気分が悪くなったという。きっと神社の真下なので神さまの罰だと思い 途中でやめたという。
今回の妙見山 小佐谷弾丸列車軌道の地図は
こちら(約105k)
でごらんください。 |