青玉神社〜青倉神社(実施編)

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『大名草』、『但馬新井』を参照していただくようお願いいたします。

2011.11.27.  日曜日  曇り  気温 ふつう

この本編の前にまずは こちらの準備編 をごらん頂けるとわかりやすい?と思います。きっかけは青玉神社の奥にある石の道標をみつけたことによる。 富田村の寅蔵さんが建之した道標を元にして、同じ道のりを歩いてみたくなったのだ。 富田村から歩くのはさすがに遠いので青玉神社をスタート地点とする。

さて、準備編を見てもらったという前提で話を進めましょう。

青玉神社から青倉神社まで、その参道と思われるルートを一日かけて歩くのはさほど 難しい距離ではありません。が、ただ、歩くだけでは能がない。いつものように 途中にあるおもしろそうなポイント見学をいくつか予定しているので、それらに寄り道していると完歩はむずかしそうだ。

そこでルートの途中にある大外(おそと)集落に自動車をデポして、そこから黒川集落と黒川ダム湖奥までは自動車での移動を 予定してみる。とりあえず経過時間を眺めつつ臨機応変に対応するべし。 朝の8時に大外に車をデポして青玉神社へ向かうために国道429号線で青垣峠を下る。

青垣峠の六地蔵峠から下にある石仏。ここで謎が解けた

生野町大外と青垣町大名草を結ぶこの峠は青垣峠と呼ばれているが、地図によっては 生野峠と書かれていたりもする。生野峠というと国道312を思い浮かべてしまうので 青垣峠が適当か??その峠には六地蔵の石仏があるので 、今回一緒に歩く作畑ガールも見学するのだった。

さらに青垣町側へ下っていくともう一体の石仏がある。ここも以前ちょっと見ているのだが、 今回はじっくりと眺めてみた。すると光背部分に『・・鳥峠・・・』なる文字を発見。 どっかで聞いたことのある名前だが・・・数秒経って「ああっっっ!!」と驚きの声をあげる。 それは母たぬきIRCさんからもらった氷上郡の古地図。 その古地図にはさきほどの青垣峠が鳥峠と書かれていたのを思い出したのです。

加美町の道の駅でそのIRCさんと待ち合わせをしているので、やってきたIRCさんに さっそくその報告をする。朝一番からおもしろい事実を発見出来ました。

まずは青玉神社へ

三国岳の登山口へ向かう前にまずはスタート地点である青玉神社へ。ここの入り口にある玉垣は 大正十一年のもので、列記されている寄進者の職業(傘商、魚商、旅館、材木商・・・など)がなかなか興味深いものがある。 IRCさんも交えて三人であ〜だ、こ〜だと話し込んでしまい、 スタート地点でまずは立ち往生。

早朝から境内には次々と地元のお年寄りが掃除のために集まってくる。 新たな情報は期待出来ないがちょっとお話をして境内を後にする。 時間短縮のためにIRCさんの車で登山口まで行く。なんだかんだで9時12分。

石の道標が登山口だ谷はけっこうガレている

登山口にある石の道標は前回の準備編で紹介済み。寄進者である富田村の寅蔵さんも 今回の我々を見守ってくれていることでしょう。登山道は最初ダブルトラックだったがすぐに シングルトラックの谷道となる。谷道は長い年月でけっこうガレてしまっている。
大きく窪んでいるのは古道の証拠頭上には紅葉も

ところがいったん尾根に上り詰めるとそこには快適な古道の名残が残っていた。 紅葉もあるし、展望のポイントもある。なかなか良い峠道だ。 途中には山寄上集落へ降りる道との分岐もある。『大玉林道迄約400m』とあって、県道に 降りたった所には遙拝所だった第二の青玉神社がある(準備編をごらんあれ)。 大玉林道の名前もそれに由来している。
三国峠

三国峠には10時15分。予定よりちょっと遅れている感じ。時間があれば青玉神社があった 『播磨の踊り場』に立ち寄るのがいいのですがその時間がありません。とにかく長野に下りましょう。 と、ところが、おもわぬ光景にびっくり。それは峠道が林道で分断されていたからだ。

2010年 洞滝〜三国岳 に登った際、頂上直下で林道の存在を知ったのだが、それの延長がこれなのだろうか? とりあえず適当な所から峠道に復帰して下り続ける。「いい峠道やのにもったいない!!」 と憤懣やるかたない。

林道が横切っていて唖然!!長野集落にて

峠道も終わって 林道に降り立ち、10分ほど歩けば長野集落となる。ここには黒川七所庚申の石仏の一体があるのだが 時間が無いので小憩ついでにおやつだけ食べて歩き始める。と、目の前の民家に人のいるのが見えた。 さっそくいつもの積極性(図々しいとも言う)で話をする。 青玉神社から歩いてきたと説明して、「ここって青倉の参道になりますよね?」と言うと、 「そうですよ」とよどみなく返事がもらえた。

さらにこの方が作畑ガールの知り合いの親戚だと言うことも判明。 人ってどこで繋がりがあるのかわからないものです。

大外への峠道がある

長野から大外へ向かうのだが、村の入り口にある標高549からの林道(別途地図の『E』)は利用せずに、 長野川に沿って舗装路を歩く。実は梅ヶ畑集落との分岐付近に大外へ抜ける 昔の峠道があるのだ。

梅ヶ畑、高路の子供たちはその峠道で大外にあった学校に通っていたという。ちなみに 長野の子供は『E』の林道で通っていた。 その峠道の入り口には道標の石仏がある。文字はほとんど磨耗して読めないが、かろうじて 『左 たんば』と読める。右は不明。石仏があるということは古くからの生活路、街道だったということ。

しっかりとした道がある峠です。ここを下れば大外

はたして道は残っているのか?不安のまま進んでみるが案外しっかりした道が残っていた。 しかも峠に近づくにつれていろんな枝道が現れる(したがって地形図の点線とはちょっと違う)。 それらを無視して上へ上へと歩いていき峠に着。11時50分。 そのまま道なりに下れば車をデポした地点にジャストポイントで到着。

さて、その学校跡だが敷地跡に記念碑がある。道路からも確認出来るのだがうっかりすると 見落としてしまう。ここを通行する車の100%気が付かないと思う。 その学校跡地の前にある畑で作業しているご夫婦を発見。話を聞くと、なんと旦那さんは 低学年まではこの学校に通っていたという、まさに生き証人だったのです。

黒川小学校の生徒でした!!記念碑から敷地を撮す

敷地跡には記念の石碑がある。それの表面には『黒川尋常小学校跡』、側面には『昭和四十七年四月 吉日 同窓生一同建之』、裏面に『明治四十二年四月一日開校 昭和二十六年三月三十一日合併ニヨリ的場に移転』 とある。畑のおじさんの話では障子の窓が印象に残る校舎だったという。この小さな敷地で想像できるのは 小屋のような校舎だったのではないだろうか。 ちなみに移転した的場の小学校も現在すでに廃校となってハンザキ研究所となっている。
黒川温泉で食事。メニューは生野名物のハヤシライス

大外からはデポした車で黒川へ。時間は12時15分過ぎ。いつもの山行きなら食事は地面に座っての山めしだが、 今日は黒川温泉の食堂でする。メニューを見るとここでもハヤシライスがあったのでそれを注文。 銀山にあるマロニエとはまた違った味でおいしかった。

それにしても他の人は温泉に来た人たち。我々だけ薄汚い格好で場違いな雰囲気が漂っていた。 食後、大明寺に立ち寄り行司作の青面金剛を拝見して車に乗り込む。

黒川ダム湖周回路から青倉への分岐ここの石仏も重要な見物ポイントだ

ほんらいならここも歩きたい所だが、昔の参道はダムに沈んでいることだし、ここはズルして ダム湖の周回路を行く。しばらく走ると青倉神社への分岐『I』となる。実はここにも行司作の 道標石仏があるのだ。これには年号が彫られているので行司さんが明治の人だったことがわかる。 富田村の寅蔵さんもこの石仏を拝んだのだろうか。

この石仏を見るとまさに正しい方向を示しているが、明治の頃はこのダム湖周回道路もなかったはずだし、 当時からここにあったのかどうかは疑わしい。案外ダムの堰堤付近だったりして・・・。

紅葉真っ盛りの青倉神社

計画では『J』のコーナーに車を止めて、青倉神社から青倉山への登山道を利用して 青倉神社へ向かうつもりだった。が、これまた時間の関係でそのまま舗装林道を走って 『K』の駐車場まで行ってしまった。13時30分。

この神社、もとは善隆寺というお寺の奥の院と言われていますが、なるほど、川上からある旧参道沿いには たくさんの丁石仏がある。神社に石仏というのも考えれば変な話だが、神仏習合の名残と思えば 納得もできる。

お堂は2階建てになっていて、入り口正面にはご神体の大岩がむき出しになっていて、 左右に階段がある。登山靴を脱ぐのも面倒だし、2階では誰かが太鼓を鳴らしながら 心経を唱えていた。その邪魔をするのも悪いので、そのまま裏手に回ってご神水をもらうのと ご神体の大岩を拝むことにする。

ご神体の巨石多々良木行者堂の岩の割れ目が陰石

高さ12mほどの大岩。上部がひさしのように出っ張っている。その角度はまさに90度で なにかで切り取ったようだ。この形を見てある人は男性の性器(陽石)だという。 そして、この山と多々良木ダム湖をはさんである行者山中腹の行者堂は女性性器を現しているという。

さて、青倉神社の祭神は和久産果神という。和久産霊神(わくむすびのかみ)の間違い?産霊の神というだけに 子孫や作物の繁栄にかかわると考えれば陽石というのもうなずける。

霊水もゲットして、今度は青倉の奥の院を探すことにする。聞いた話では青倉山の登山道の途中にあるらしい。 本殿から社務所に下る長い石段の途中からその登山道が始まる。すぐに十一面観音の祀られているお堂があった。 これが奥の院ではないようだ。

青倉山登山道を行く稜線まで来たのに奥の院はなかった

紅葉のきれいな大きな谷を廻りこんでジグザグに高度をあげて行く。そろそろ奥の院があるかと思っていたら、 とうとう稜線に到着してしまった。この稜線を北に登れば青倉山だがここで時間切れ。 あれ?奥の院はどこだったんだろう(後で調べたら、ここより山頂へ向かう途中にあるそうだ)?

作畑ガールはずいぶんとしんどそうだが、この登山道が黒川から青倉への参道そのもの だと言うと驚いていた。当然だが、寅蔵さんもここを歩いてお参りしているはず。

中央分水嶺の真上で合奏。右が日本海へ流れ、左は瀬戸内海へ流れる

今回の道中のどこかでリコーダーの合奏をしようと決めていたので、この分水嶺に 座り込んで三人で演奏だ。 動画はこちら です。

富田村の寅蔵さんが日の出とともに村を出発したとしたら、黒川本村にはお昼過ぎに着くだろう。 そこでお昼をして、休憩もして、ダムに沈んでしまった参道を登っていき青倉神社へは夕方近くに着。 とうぜん神社で泊まりになるが、あの社務所が籠り堂も兼ねているので(現在も大きな宿泊施設になっているようだ) そこで数日過ごしたのだろう。

片目を傷つけた青玉の天目一箇神(アメノヒトツノカミ)とその目を癒す青倉神社を結ぶ今回の参道歩き。 三人で歩きましたが、我々の前を寅蔵さんが先導してくれていたように思う。

追記
2012年は古事記編纂1300年だということでそれに関連する本を読んでいるとおもしろい記事が・・・。 それは、イザナミがイザナギとともに八百万の神々を生むのだが、最後に生んだのが火之神であるカグツチだった。 その際に陰部をやけどしてイザナギは死んでしまうのだが、その苦しみの中で生まれたのが鉱山の神であるカナヤマビコと(他にもいるが)、 和久産霊神(わくむすびのかみ)だった。

鍛冶の神さまである天目一箇神(アメノヒトツノカミ)を祀る青玉神社をスタートして、ゴールである青倉神社で和久産霊神(わくむすびのかみ) だったのはなにか釈然としない面もあったが、鉱山の神であるカナヤマビコと兄弟だったということで繋がったように思う。 なにか、私の思うような結論に強引にもっていったみたいだが・・・。(^_^;)

今回の青玉神社〜青倉神社(実施編)の地図は こちら(約260k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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