はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『生野』、『粟賀町』を参照していただくようお願いいたします。 2010.12.26. 日曜日 曇り 気温寒い
5月のことだが、 作畑ガールのともみさんからおもしろいメールをもらった。以下そのコピー。 根宇野村より岩屋茶木原を経て「いも峠」を越え桜谷より石仏峠に至り更に金蔵山より的場に下がる。 かくして他種部落を避けたる路線あり、是れ昔時の京街道とみるべし・・・と。 最初に読んだときは『いも峠』とは神崎町岩屋と八千代町大屋を結ぶ『大屋坂』の別名だと思っていました。 その思いが頭にこびりついたまま八千代町で聞き取りをしたが、後日、ともみさんが神崎の岩屋で 聞き取りをしてその位置が判明。そうなると京街道でいも峠から金蔵寺へ行ってみなくなるのが人情というもの。 暑い時期はたいへんそうなので、涼しくなってからと考えていたら年末になりました。
岩屋にある住吉神社に駐車をする。9時50分スタート。川のむこうには大岩がある。地元では
塞の神と呼ばれているようで、足元には弘法大師が祀られたお堂もある。昔はしめ縄が岩の上に
掛けられていたと記憶しているが今は電飾になっていた。さぞかし弘法もびっくりしてるのでは。
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おなじみの塞の神 | 鬼門を越えて林道へ |
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民家の最奥から当初いも峠と思いこんでいた大屋坂へむかう林道がある。 その害獣避けの入り口にはどういうわけか鬼の面が掲げられていた。 しゃれっ気のある人がこの入り口を鬼門とみたてて置いたのかもしれない。 |
谷には堰堤が | 左へエスケープ |
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林道の最初の大きなコーナーから始まる谷がいも峠への道だったと作畑ガールは言う。 教えてもらったいも峠の位置からすると確かにそれらしい。ところがその谷には 真新しい治山堰堤が二基もあった。ということは昔あったと思われる谷道は 完全に消失していることになる。
とりあえず二基の堰堤を越えた所で炭焼き道を発見するが釜跡から先はなさそうだ。
谷の奥は絶壁になっているので無理と判断。左へ巻きながら支尾根に取り付く。
そこには踏み跡もあったのが峠への古道なのかどうかは不明。
谷の終点にある断崖部分の真上を通過するとそこには!
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いきなり作業道に出た | そこから粟賀方向を見る |
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地形図にない作業道に飛び出してしまった。見ると左右に道がある。 とりあえずいも峠方向にも道があったのそちらへ歩く。後で聞いたら、 どうやらここがいも峠ということらしい。ならばこの作業道が峠の古道と いうことか。このまま作業道進めば地図上の『E』に出そうな感じだったが 我々は途中から斜面をよじ登りいも峠(ほんとはそこじゃないらしいが)へたどり着く。 |
いも峠(と思いこんでいた) | いも峠での定番おやつ |
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10時52分。地形図的にはともかく、加美へ抜けるルートとして考えれば確かに峠と言える。 ゆっくりと考察したいところだが、実はめちゃめちゃ寒かった。ここだけ風が吹き抜けているのだ。 早々に下山する。踏み跡はちゃんとあり、それに従うと高坂峠への旧道に出る。11時08分。 |
高坂峠への旧道に出る | 火薬庫を見る |
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旧道には左へ向かう道もある。つまりいも峠で出会った作業道と繋がっていると思われる道だ。 古(いにしえ)の人々はこの旧道からちょっと下った谷(桜谷)を登っていったと記述にある。 我々もそうしようかと思ったが、谷が倒木などでふさがれていると進退窮まるので このまま舗装された旧峠道を登ることに。 その旧道にも不思議ポイントがある。地形図で変なマークがあるのだ。 そこへ立ち寄ってみると、なんの看板もないがあきらかに火薬庫だった。 周囲を土塁で囲んでいて建物には避雷針。謎が解けたところで高坂峠へ。
桜谷を登っていたらどうなっていただろうと、峠手前から谷を覗いてみる。
案外簡単に登れたのかもしれないなあと反省。ともみさんからの資料には
この桜谷を上り詰めた峠手前に『峠の松』と呼ばれる松の木があったという。
明治のはじめ、その松を保存するために?桜谷を通過しない現在の峠道に改修された
ということだ。(くわしくは作畑ガールのブログ『山と川のあいだで
』をごらんあれ)
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高坂峠 | 石仏を見る |
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峠手前には左に千が峰への登り口と、右に笠形山への登り口がある。 車が2台ほど止まっていたが、チェーンソーが聞こえるのでこれはどうやら山仕事の人らしい。 そして峠には石仏とその手前右にはチェーンの掛かった林道がある。 これが金蔵寺へのルート、つまり『京街道』に他ならない。11時50分。
峠にある石仏は久々に見る。後背部分の上部が欠落しているが、浮き彫りされた地蔵菩薩は
大きく前面にせり出している。『子安地蔵』『天保五牛(1834)三月吉日』の他に
『施主人 的場村』そして四人の女性の名前が彫られている。
なぜ四人の女性が村の中ではなく峠に子安地蔵を安置したのか?墓石ではない石仏を見るたびに
わき出てくる素朴な疑問だ。
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京街道崩落 | ゲートの向こうは舗装路 |
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書き忘れそうになったが、作畑ガールからもらった資料にもう一つおもしろい記述が。 それはこの高坂峠は元々多可坂だったというものだ。 これはもう「な〜るほど!」とうなずく他はない。 また冒頭の記述から石仏峠とも呼ばれていたことがわかる。
京街道(現在はガレ林道だが)の途中で大規模な崩落地帯があった。
一瞬ここで撤退かと思ったが踏み跡があったのでそれを辿ってクリアー。
その後は快適な路面でゲートの向こうに舗装の林道が見えてきた。
この先ご飯を食べられるような箇所が無いはずだったので風の少ないゲート付近で
食事を済ませて再スタート。13時。
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これを登る | 金蔵寺八十八カ所 |
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話をしながら歩いていたので危うく行き過ぎる所だった。地形図で確認すると こののり面を登らないといけないのだ。(昔もMTBで来たはずだが記憶がなくなっていた) ここを乗り越えてるとそこは金蔵寺の八十八カ所霊場の最上部だ。 |
役行者とツーショット | 本堂左手にある道を行くと・・ |
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霊場から本堂へ向かう。本堂から旧参道を下って的場に下りたかったのだが、その入り口が わからない。周辺をうろついて本堂左手にある小道を発見。地形図とは違うが そこからも下山できるだろうと希望的な予測でそこへ入る。14時05分ごろ。 |
谷の終点から見上げると | そこにはこれがある |
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細い踏み跡は高低差無く続いていた。ちょうど谷と合流した所で道は突然に無くなる (ほんとはもうちょっとあるらしいが・・・)。 目線を上に向けると一段高いところが平坦になっていてなにやらありそうだ。 で、そこに登ってみると・・・。
さらに上からくさりがぶら下がっていて、こんな板きれがあった。
『鐘掛と問うてたずねて来て見れば 九穴の蔵王を下にこそ見れ』
(これは吉野の大峰修験の行場にある歌らしい)。
あら〜、ここは行場だったのか!
しかし、このくさりで上には登れないなあ
(この上には奥の院があったと後で聞いた)
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お寺の奥さんに入り口を教えてもらう | すごく良い道 |
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再度お寺に戻って寺の奥さんに聞いてみた。すると舗装路の参道をちょっと下った所に分岐がある。 それを下れば良いとのこと。な〜んだ、そんなところだったのかあ。 で、奥さんに案内してもらってそこを下る。途中に林道が横切っていたりするが 素直に下っていけばやがて奥の院からの谷と合流する。 |
垢離取場(こりとりば)かな? | 林道の出口を越える |
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滝の行場にしては小さすぎるが水場がある。垢離取場(こりとりば)かもしれない。 現在は舗装路の参道で金蔵寺まで行けるのだが、昔はこのルートが参道だったという。 したがって、丁石仏もきちんと順番にある。やがて舗装の林道となり、 むこうにゲートが見えてきた。それを越えると蓮花寺となり、これで京街道を歩いて的場村まで 来たことになる。15時10分。 解散後、作畑ガールから連絡があった。今度は越知で聞き取りをしたらしい。 それによるといも峠の場所が違っていたらしい。 あの作業道に飛び出た所だったそうだ(別途地図参照『C』)。 もう一度チャレンジしたいということなので、また機会を見て、桜谷経由で峠の松の場所も 探し当てたい。さらに金蔵寺の奥の院も見てみたいし・・・。宿題多いなあ・・・。(^_^;)
今回のいも峠〜金蔵寺の地図は
こちら(約170k)
でごらんください。 |