法起山(法起菩薩堂)

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『大背』を参照していただくようお願いいたします。

2010. 8.15.  日曜日  晴れ  気温暑い

東仙に登る前に立ちよった智頭駅前にある観光案内所。ここでもらったパンフレットに『法起菩薩堂』 なる記述があった。それは山中にあって、岩棚に安置されたお堂だと言い、写真を見ると三徳山の投げ入れ堂を ほうふつとさせるものだった。それ以上に 私が興味を持ったのは『法起菩薩』という文字だ。 法起菩薩と言うと、私は法道仙人を思い出さずにはいられない(ややこしいのでこの説明は割愛します)。 法起菩薩堂へ行くと法起菩薩の仏像か何かがあるのだろうか?
JR那岐駅近くにあった

パンフでははっきりした位置がわからない。WEBで検索してみると山友だちの IRCさんのレポートがヒットした。それによると那岐山の河津原登山口へ向かう途中に登り口があるという。 ただ、IRCさんも気にはなったが素通りして那岐山へ向かったという。 登り口さえわかれば後はなんとかなるだろう。

他にも検索をしてみると近くにある極楽寺と言うお寺は法道仙人開基のお寺だという。 鳥取で法道仙人開基というのもめずらしいし、なんと法道仙人のお墓があるという。 前述のように法起菩薩堂と関連があるかもしれないし、これはぜひ下山後に立ち寄ってみよう。

中国自動車道の美作ICで下車して、黒尾トンネルであっさりと那岐に出る。駅までの村道にある イラスト地図にも『法起菩薩堂』が描かれていた。地元でも有名な所なのだろうか? 因美線に沿って河津原の集落を通過して川を右に渡る橋の手前で石仏を発見。

途中にあった石仏 その1その2

自然石に彫られた大日如来の石仏(その1)。像だけ見ると小さく欠けている箇所があるのでそれとは わかりにくいが、像の下に大きく『大日如来』と彫られているので誰でもわかる。 右手に『嘉永七寅(1854)11月』、左に『邑中』とある。

もう一つ(その2)は地蔵菩薩だと思う。道標石仏で『右ハ 物見道』『左ハ やま道』とある。 この石仏のある橋を越えて右にある耕作地奥から岡山県の物見に抜ける道がその昔にあったらしい。 現在は物見峠が自動車道としてあるが、昔はそこここの谷から岡山側へ抜けることができたらしい。 石仏ポイントから植林の中の舗装路をしばらく走ると問題の石塔があった。

ここから登ります立派な道標です

これまた自然石に彫られた指さしの道標だ。『松尾山 法起菩薩道』『堂迄五町』とある。 横手に小さな石があり『てあらひば この上に』となっていた。 見るだけで心ときめくような石碑だ。さらに横手には白い木柱が2本あって、 法起菩薩堂が平成7年に町指定文化財になったとか、松尾山(通称法起山)山頂には 松尾山城跡があるだとかが書かれている。いよいよ楽しくなっていた。

そもそもこの舗装林道は那岐山の登山口へ向かうための道路で、それこそ多くのハイカーが ここを通過するものの、この石碑に目をとめる人は皆無と言って良いだろう。 私は変わり者なのか、那岐山よりもこちらの方がお宝のように思えて仕方ない。 準備をすませて9時半スタート。道標が指さす方向へ向かって歩く。今日は午前中で終わってしまいそうだ。

すごく滑る路面山神社の小さな祠

渓流に沿ってある林道を歩く。今朝方雨が降ったようで路面は濡れている。 しかもツルツルに滑る路面でえらく神経を使わされる。この林道の途中から山に登るルートが あるのかと想像しながら、たぶん右方向かと意識しながら歩く。 入り口にあった白い標識には500mほどと書かれていたが、それらしき道もお堂もない。 やがて地形図にある谷が四分岐になるポイントにやってきた。9時45分。
四分岐よりさらに進む

右手に小さなお社があって、正面の一段高い平坦地には崩れたトタン屋根の家屋が見えた。 たぶん山仕事の小屋だったのだろうと立ち寄ることなく正面の谷をさらに進む。 この辺で道を間違ったと90%の確率で思うものの、意地もあるので戻ることができない。 足下の細くなった道を見ると渓流との間に石垣が組まれて補強されている。 どうやらこの谷も岡山へ抜ける道だったようだ。 が、やがて倒木だらけで進むことができなくなった(地図の『D』地点)。 このまま稜線へ出てもよかったが、そうなるといよいよ法起菩薩堂が探せなくなる。 しかたなくもう一度『B』付近へ戻ってみる。
廃作業小屋。昔は木地師の家があった木地師の墓

先ほど見えたトタンの廃小屋を見てみる。数段の小さな平坦地になっていたのでその最上部から 見てみる。う〜ん、法起菩薩堂はどこなんだろう〜。と、川の向こうの藪の中に白い標柱らしきものが 見えた。飛び石で川を越えると、それには『史跡 流レ谷木地師墓群』とあった。 なるほど、この平坦地は木地師がいたということなのか。足下には文字の判読もできない 地蔵菩薩の墓石があった。標柱には天禄から天明にかけて十人を超える木地師が住んでいたとある。 先ほどの廃小屋跡も木地師の生活場所だったのだ。
正しいルートを登り始める

結局スタート地点まで戻ってしまう。11時20分。あ〜あ、無かったなあという気分と、 木地師のお墓が見られたから良しとするかという気分が複雑に混じり合う。 車に置いていたパンフのイラスト地図と標柱の文言をもう一度まじまじと見てみる。 ありゃ、ひょっとして林道を行くのではなく、この斜面をよじ登るのか?

そう感じてそこを見てみると獣が駆け下りたような踏み跡があった。 まさかこれが参道か?とブッシュをかき分けて進んでみると・・・。

味のある丁石だあと1丁だ

細いがしっかりとした踏み跡だった。マーキングもある。 正面に小さな作業小屋が現れるがそちらは間違いなので分岐を右に折れる。 『四丁』の丁石が現れて、ここが参道で間違いない確証が得られた。 しかし、参道にしては道悪だ。お年寄りは到底無理っぽい感じがする。
大岩が出て石垣が現れて

ジグザグに登っていく。ちょうど半分ぐらい来た所にも、薮に隠れるように丁石があって、 『二丁半 これで半分』と、しゃれっ気のある丁石だ。 一丁を過ぎた頃から大岩が見えるようになる。人の手による石組みがあって、その上が フラットな敷地になっているようだ。どうやらここだな。11時40分。
法起菩薩堂

石垣の上はフラットだがそれほど広くはない。大岩が正面にあって、どこに 法起菩薩堂があるのかと目をこらせば、岩の裂け目にそれはあった。 樹木で見えにくいのは確かだが投げ入れ堂と言うにはおこがましく、 担ぎ上げて置いたのだろうというのが正直な感想だ。

智頭の町史によると『江戸後期の文政のころ(1812〜29)農業の害虫駆除に霊験あらたかといって、宇塚三か村が、 大和国から法起菩薩を勧請して村の飢饉を鎮めようとした。』とある。 それがこのお堂なのだが、『籠堂もあって(現在は朽ち果てた梁か柱のような角材が散乱している)、 六月六日には虫送り行事が盛大に行われ、極楽寺(下山後行く予定)・多聞寺・持雲寺の住職が参籠し、 ゴマ祈祷が行われた。・・・中略・・・堂宇は明治四年と昭和三年に修理したが、現在町指定文化財となっている。』

近くまで行ってみる地面に落下した象と獅子の木鼻

地面から見ても傷みがひどい。たぶん昭和三年に修理されたものだろうが、80年も経てば このようになってしまうのは致し方ないか。 これで文化財というのは逆にかわいそうな感じもする。籠堂の残骸、 人が久しく入っていないと思える周囲の感じ、登山口からの道の悪さからいって お祀りが絶えて長いのではないだろうか。

岩場をよじ登って手を伸ばしぎみに写真を撮ってみる。 内部には何も残っていないようだった。それともご本尊などの法起菩薩に関するものは 里に下ろされたのかもしれません。

もう下山しようかと思っていると、竹呂山に登っているOAPさん、MXFさんと無線がつながる。 あちらは1000mを越える山だが、こちらは600mそこそこで、しかも途中には名だたる山が 障害となっている。あちらは気温が19度で寒いらしいが、こちらは蒸し暑くて倒れそう。 無線後、早々に下山する。

極楽寺へ寄ってみる案内してもらう

お堂はボロボロ、中身は空っぽでちょっと残念だった。あの岩場の裏手からさらに登ると 法起山(松尾山)の城跡があるはずだったが、あの暑さなので下山が正解だったかも。服を着替えて 法道仙人のお墓があるという極楽寺へ行ってみる。庫裏へ回って呼び鈴を押すと若いご住職が出てこられて (お盆なのでお父さんは忙しいのでした)、 法道仙人のお墓のことを言うと案内してくれるという。

その途中での会話。
私:播州には法道仙人開基のお寺が多いのですが、鳥取とはめずらしいですよね〜。
私:私は加古川から来たのですが、あちらは法道仙人開基のお寺がたくさんあるんです。
住職:実は私は加西市○○の出身なんです。
私:ええっ!! そうなんですか!○○というと法道仙人開基の○○寺という古刹がありますね。
住職:私、そこの息子です。
私:ええっ!ええっ!

鳥取の智頭に加西出身の人がいたということにびっくり。さらに、この話で思い出したのが、昔、 法道仙人開基のお寺同士でネットワークがあったという。 それが現在でも健在だということなのか、人材の行き来(この場合婿養子)という形で確認できて 二度びっくり。

秘仏のある本堂

大化2年(646年)に法道仙人が開基した極楽寺の本堂は一段高い所にあって、現在はコンクリート製の 小さな建物になっている。内部を見ることは可能だが、本尊と脇侍は秘仏となっている。 その本尊は十一面観音で左右の脇は不動明王、毘沙門天となっていて、法道仙人開基のお寺では よくある三尊形式です。本堂の右奥に問題のお墓がある。 それはお墓と聞いていたが、正式には『法道仙人開基塚』という。見ての通りの宝篋印塔である。
法道仙人開基塚

話を戻すと、『大和国から法起菩薩を勧請して』とあるが、それは金剛山転法輪寺の 法起菩薩のことである。修験の祖と言われる役行者が若い頃、この金剛山で法起菩薩を感得して、それを祀るために 転法輪寺を建てたと伝えられています。 したがって法起菩薩は本来は修験の仏ですが、農業の仏としても霊験があると言われていました。

その姿は4つの目と(プラス額に一つの目)と6本の腕がある異形の仏です(五眼六臂という)。 明治の廃仏毀釈によって頭部だけ残され、身体の部分は破壊されたと言いますが、そのうちの2本の腕には 鋤と鍬が持物であったと聞いたことがあります。この鳥取の地に勧請された法起菩薩はどのような形のものが お祀りされていたのでしょうか。

後日、再度極楽寺に訪ねてみました。ご住職(先週のお義父さんになる)が言うには 自分が子供の頃(昭和30年代前半)にはすでに祈祷などのお祀りはしなかったと。 また、お堂の中にあったのはお札(法起菩薩と書かれた?)ではなかったかと思う。等々。 害虫駆除のために勧請された菩薩は美作からも多くの農民が来たという。 それらの信仰と虫送りなどの行事、法起菩薩への思いなどは、農薬の発展とともに忘れ去られて行くのは仕方のないことなのだろうか。

今回の法起山(法起菩薩堂)の地図は こちら(約70k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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