但馬妙見古道

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『栃本』を参照していただくようお願いいたします。

2009. 9.18.  金曜日  晴れ後曇り  気温ふつう
八鹿町と日高町の境界にある『妙ヶ谷』というピークに登るにはどこから取り付くのが よいだろうか?地図でいろいろと見てみると八鹿町日畑と日高町観音寺を結ぶ峠道がある。 この峠から稜線を歩けば比較的簡単に行けるのではないかと見当を付ける。 するといつだったか、やまごさんのHP の中でこの峠を歩いたレポートがあった(現在は削除されているようだが)。

その中で気になったのが、この峠から『妙ヶ谷』とは反対方向の妙見山方向に明確な道があるというくだりだった。 それは妙見山山腹にあった帝釈寺(現在は名草神社となっている)への参道だったはず。 その時点で『妙ヶ谷』への興味は薄まり、この参道が現在も帝釈寺(現名草神社)へ続いているのかということに がぜん関心が移る。ほんとは春に行きたかったがこのタイミングで行くことになった。 事前の情報は皆無。しかも単独なので無理をせず途中で引き返すことも辞さず。

日畑集落の舗装路終点付近土壁の古い家屋だ

出発地点である日畑の集落に到着。舗装路の終点付近は三叉路になっていて、写真で見るように 南方向には加瀬尾への細い道、西方向には妙見山への正規の登山道。これは道標もあって、名草神社までの 距離だと思うが『3.5km』と表示もある。そして肝心の北の峠方向にも舗装路は続いている。 妙見への登山道を少し入った所にスペースがあったのでそこに駐車する。 ちなみに峠方向の舗装路途中にもよさげなスペースがあったのでそこが良いかもしれない。 地元の人とちょっとお話をして峠に向かって歩く。9時50分。

古い家屋の外壁は土壁で2階建てにしてはずいぶんと高い。見た感じでは養蚕をやっていたと思える造りだった。 最奥の民家を過ぎて左に大きく曲がった先には給水の施設があって、そこで舗装路は終点だった。 脇に小径があったのでそれを登ると暗い植林帯の中に石組みの平坦地がある。 先ほどの推理のように養蚕がされていたのならここは桑畑だったのではないだろうか?

左手は平坦な耕作地煙を吐くホコリタケ(コラボ画像です)

地形図で現在地を確認すると点線ルートからずいぶんと離れてしまっていた。 どうやら最奥の民家の脇から登っていくのが正解だったようだ。ここからも復帰できそうなので そのまま谷を登っていく。足元にはホコリタケがあった。デジカメの動画で胞子が出るのを写そうとしたが あまりよくなかったので写真にいたずらをして火山の噴煙を重ねてみた。(^_^)
やまごさんの言う参道に出た!

稜線手前でいきなり良い道に出た。稜線の真上ではなく小さなピークを避けるようにある。 まさしく誰もがたやすく歩けるように造られた道だ。左に行けば観音寺に降りる道もあるはずと 20mほど行くとそれはあった。
石の基台が残っていた

観音寺へ下る道があるのと同時に、その手前は小広いスペースがある。 そして何かが載っていたと思われる石の基台。日畑で聞いたときは名前の無い峠だということ だったので石仏などは無いものを思いこんでいたが、これは石仏か道標があった証拠だ。 だとすると峠にも名前があったはずだが時代とともに忘れられていったのだろうか。

この基台に何が載っていたのか?、峠には名前があったのか?観音寺まで下れるのか?、『妙ヶ谷』方向にも 道は続いているがどこまであるのか?いろんな謎が一気に増えてしまったが、まずは名草神社までの参道が どこまで続いているのかが今日の課題だ。

良い道が続く軽トラックでも通行可能な道幅

10時30分参道を歩き始める。前述のように小さなピークを右に左に巻くようにあるので ほとんどフラットな道だ。老若男女が歩く参道としては完璧に近いものがある。 場所によっては軽トラックさえ走れそうな道幅と路面の状態だった。 日畑の老人が言うには昔は年に一度の道普請を行っていたが現在は途中で道も無くなっていると言う。

それがどこなのか?今の状態ならどこまで続いているように思える。 標高530m(高度計、GPSを持っていないので正確では無い)近辺に参道があるため、 544ピークを過ぎてしばらくから 稜線は右手上方に離れていく。参道はそのまま同じ標高を維持して山腹を巻くようにある。 所々に稜線へ向かって小径があるが、これは仕事道か獣道のようなのでそのまま参道を行く。

私の予想では参道は八鹿と日高の境界上を行くのだとばかり思っていたので、 この巻き道はちょっと不安になる。 すると地図の『C』地点の谷でいきなり道は消失してしまった。11時ジャスト。 10分ほど周囲を探索するがそれらしい道も無かったので 思い切って境界尾根によじ登ることにする。 冷静に考えれば、いままでの標高を保ったまま進んでいけばよかったはず。

笹藪の激斜面を登る一息つく

稜線に到着して小憩、11時20分。参道とは離れてしまったが気を取り直して登り始める。 地形図にある激斜面は笹が生い茂り(背丈がそれほどでないのが救いだった)足を上げるのが 辛い。お腹も減っているし・・・。

笹藪が終わって一息つく。向こうに見えるのは山の中腹にある加瀬尾の集落だ。 一息ついて笹原から暗い植林の中を一歩きすると三等三角点のあるピークになる。 標高795.7m、点名『界野』、11時50分。三角点の北方向から重機の音がする。 作業道があるのでその関係車両だろう。

作業道、大栃谷線に出たそして林道『妙見・蘇武線』に合流

三角点から西方向に明確な踏み跡がある。それを辿れば難なく林道に降りられた。 作業道大栃谷線だ。それを西に向かえば舗装林道の『妙見・蘇武線』に出る。 本来なら地図も見ずにそのまま作業道を歩くところだが、今回は注意深く地形図を にらみながら歩く。というのも、途中には若林廃村(阿瀬渓谷にあった)からの参道が ここと合流しているはずだったからだ。しかし、そのポイントにはそれらしきものもなく がっかりする。古い参道でしかもその出発点が廃村になっていてはその痕跡は無くなって当たり前かも。

『妙見・蘇武線』をテクテク歩いて名草神社の入り口にやってきた。お腹がペコペコなのだが 境内で食事をするわけにもいかず、入り口の前の妙見という集落にある『妙見自然の家』前で 食事を済ませる。使われているのかいないのか、わからないような古い施設だ。 さーて、食事も済んだし神社の見学でもしようと歩き始めると、老人達を乗せたマイクロバスがやってきて 彼らと一緒に見学するような感じになる。

三重の塔。矢印にお猿さんが!!

見ザル言わザル聞かザル思わザル

神社に仏教の建築物である三重の塔があるのもなんだか不思議だなあと以前から思っていたが、 これにはいろいろと曰くがあるのだった。というのは、元は妙見菩薩を本尊とする帝釈寺という古刹だったのが、 明治の廃仏毀釈という希代の悪法によってその場所を追い出されることになったのだ。 従って表面上は神社であるという体をなしているが、本殿などはお寺そのものを利用しているという 外見上の矛盾も見られるのであった。(三重の塔の存在もまたしかり)
おほほほほ・・・頭をポリポリポリ・・・

本殿正面には4本の柱があり、両端の柱上部には阿吽の獅子の装飾がある。 中央二本の柱には口を塞いだ獅子と、耳を押さえている獅子がある。 私には上にある写真のように吹き出しを入れたい気分だ。(^_^)

話を三重の塔に戻すとこれがまたおもしろい。所は我が故郷である島根の出雲。そこにある出雲大社は昔は神仏習合として 神社とお寺が同居していたいました。それを神社だけにしようとして寛文(1660年代)の大造営を 行うのですが、その際本殿造営の資材として帝釈寺にあった神木の大杉に白羽の矢がたつ。 その見返りとして棄却される予定だった大社の三重の塔をもらったといういきさつがあったという。 その後の帝釈寺の運命を思うとなんとも言えない縁を感じるし、2度の災難(寛文の大造営・明治の廃仏毀釈) にも生き残ったこの三重の塔は強運の持ち主と言えそうだ。

妙見集落を下るここも常住ではなさそうだ

妙見という集落がある。昔はいわゆる門前町だったのだろうか。 大きな耕作地も無いが信徒の宿泊などを生業としたのなら生活も出来ただろう。 家屋は数戸残っているが常住している様子はなく、たとえば避暑などに使う 別荘だとしても、ちょっと見たらゴーストタウンのようにも見えて夜などは怖い。
舗装路の終点からはシングルトラックになる

100mほどで舗装路は終点となり、その先は苔むした石の階段、そして真性シングルトラックとなる。 道沿いには電線の撤去された電柱がある。地形図を見てもそうだが、実際歩いてみて、ここは MTB天国と言えそうだ。ああ、持ってくればよかった!!
657ピークの南を巻く休憩小屋があった

意識せずに歩いていくと657ピークの右(南)側を巻くようになっている。 実は北側を歩きたかったのだがそこは旧道で、歩きやすい新道の南コースに 自然に入るようになっていたようだ。きれいに刈り込まれた道を行くと稜線に合流する手前に 小屋があった。祠かと覗いてみると単なる休憩小屋でノートなども置かれている。 最新の書き込みは今年の2月だった。
でかい石の道標分岐があったぞ首のない石仏

小屋から1分ほどで目の前に石の道標があるのを発見する。そうとうでかい道標で こちらの面だけに彫り文字がある。そして左手には道もあった。この道って登る途中で消失した 参道ではないだろうかと、思わず鼻息が荒くなる。地形図を見るとあの参道とほぼ 同じような標高である。その道標の彫り文字を解読するまえに左手にある石仏にも目がいく。

首がなく、その姿からして大師像のように思えた。首が無いのは自然に落ちた物もあるが、 これは前述の廃仏毀釈によるものであろう。いままでも至る所でそういう石仏を見てきたが そのたびに残念な思い(自然や神仏を敬う思いの消失)をしてきた。 下部には『天明八申(1788)福田氏 門太夫 正月十一日』とあった。 福田とは現在の豊岡市内にある福田のことかもしれない。そこの住民である門太夫の寄進によるものだろう。

どう読み解く??

肝心の道標の方を見てみる。 『右 おさたに』とあるのは日畑に降りる方の道で、確かに日畑の下流には『小佐』がある。 謎の分岐方向は『左 くわんおんじ こくふんじ』とある。 まさしくビンゴ!!『観音寺』と『国分寺』のことだ。あの峠を下ると間違うことなくそこへ至る。 あの参道を見失ったとき、もうちょっと我慢して進めばここまで来られたかも。

年号は無かったが左下には『ぐわんしゅ(願主) 野垣氏』とあった。 野垣もさきほどの福田同様に豊岡にある字である。 これらの変体かな、くずし文字の解読には私の掲示板に書き込みいただいた各位からのアドバイスに助けられました。 感謝いたします。 これほどの道標に出会えるとは思っていなかったのでカメラで写す時は興奮でぶれないように気を遣った。 これで地形図には書かれていないが、妙見参道の古道を自分の目と足で確認することが出来たわけだ。

ずんずんと下る橋を渡って林道となる

地形図にある点線ルートとは離れるが素直に道を下っていくと途中に広い耕作地があった。 ここも何か作物が作られていたのだろうが、そもそも日畑という地名は火畑であったと 聞いたことがある。つまり焼き畑をやっていたということだ。 それらの名残で無いにしてもこんな山中に耕作地跡があるというのもすごいことだ。

駐車ポイントには14時25分着。この日畑には古い金鉱山の坑口が残っていると聞いたので それらしき場所に行ってみたが見つけることが出来なかった。 次回訪れることがあればまた探し出したいものだ。

また、帝釈寺は現在『但馬妙見日光院』として石原の地にある。数奇な運命をたどったこのお寺の歴史を残すためにも これらの古道(小佐谷ルート、観音寺ルート、作山ルート、若林ルート、他にもある)の探索、遺跡調査、維持などが 後世のために大切なのではないでしょうか。

今回の但馬妙見古道の地図は こちら(約100k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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