三木鉄道跡ポタ

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『三木』を参照いただくようお願いいたします。

2009. 8.29.  土曜日  曇り  気温暑い

休みの日に家でボケーッとできない性分なので自転車で近所を散歩することにする。 地図を持たずに細い道ばかりを走っているとそのうちどこを走っているのか わからなくなる。これがとてもおもしろい。 都会ならそんな感覚もないのかもしれないが、広い平坦な土地柄なので遠くに目標が 見えないと方向の感覚が狂ってしまうのだ。

ふらふらと走っているとさっそくその感覚に入り込んでしまいそのトリップ感を楽しむ。 大きなため池があり、その半周ほどが遊歩道になっている。 昼間なので散歩の人もなく私一人が走るのみ。 池の名前は入ヶ池と看板があった。この地域の地形が台地状のために池がべらぼうに多く。 そこらかしこにため池がわんさかある。

入ヶ池(にゅうがいけ)これでも個人宅です

この池は奈良時代に造られたという伝説があるのだが、造りかけるたびに堤防が崩れてしまう。 ある日、責任者の光太衛の夢の中に一人の僧が現れ堤防の造り方を伝授する。 それだけでため池ができればなんということはなかったのだが、その僧はえらいことを言う。 「造っているときに一人の美女が通るからその女を人柱にすればよい」と。 で、その犠牲になったのが「お入」という美女だったのだそうです。 なんとも人命を無視したおそろしい話です。

この近所には有名なアマチュア無線家の家があります。 敷地内にそれはもうありとあらゆる周波数のアンテナとタワーが建っています。 絶句!!

見覚えのある県道に出て自分の位置がわかる。 ここからもう一箇所の台地へ駆け上がってみる。そこは広大な工場群と耕作地、そしてわずかな 民家がある。特筆すべきははるかにまっすぐな道があることだ。昔、ここは軍による 飛行場だったという。加西市にある鶉野飛行場跡のようにはっきりとした跡はないが、 この道路がその痕跡と言えるだろう。

滑走路の跡?

小さなリュックを担いでいるがそこにはもしもの場合のパンク修理工具などが入っている。 それとともにハンディー無線機を入れていれば、今頃ちょうど居るはずの氷ノ山に登っている矢問さんと 交信できたのに!!携帯で呼んでみるとすでに下山途中だということだった。 こちらは雨が降りそうだったが、むこうはガスの中だという。 さて、ここからどうするか、ここからだと三木鉄道が近いのでその跡地を見てみようと思い立つ。
線路が撤去され草まみれ石野駅にて。向こうは加古川方向
駅舎に残る運賃表矢印で線路は途切れる。向こうは三木方向

ついこのあいだ廃線になったばかりなのにもう線路は取り除かれている。わずかに踏切の箇所にだけ 残っており、その両側は草ぼうぼうで鉄道が走っていたとは思えないほどの荒れようだった。 鉄道と平行にある農道を走っていると駅舎が見えた。三木鉄道のちょうど中間にある石野駅だった。 プラットホームの前後にはちゃんと線路も残っていて、そこだけ見ると廃線とは思えない。

なんでもそうだが、『廃』と名が付くだけでなんだかもの悲しい。せめてこの駅舎だけでも 残せないものかと思う。さらに農道を進んでいくと切り通しの箇所がある。 三木鉄道は全線が平坦地で見通しのある農地の中を走るのだが、唯一ここだけは切り通しの 箇所だ。頭上には数本の水管と県道が通っている。

この先で線路はなくなる。頭上にあるのは水管砂利で走りにくい。頭上にあるのは県道
このむこうは終点の厄神駅ここで加古川線と乗り換え。三木鉄道の線路は撤去

通り過ぎてからわかったのだが、ここは一応通行禁止の立て札があった。見落として 入ってしまったがいけないことです。切り通しを過ぎるて村の中の細い道を走る。踏切を通過して左折。 あれ?ここには国包の駅舎があったはずなのだが、それらしいものがない。 そういえば宗佐の駅もなかったような・・・。 早くもつぶされたのかな?では、もう見るべきものもないので一気に終点まで行ってみる。

厄神駅は加古川線と三木鉄道の乗り換えの駅だ。現在は新しい駅舎だが古い駅舎がどんな ものだったかは地元の人間でないので知らない。道から見てもわかるが、三木鉄道のホームは 金網でふさがれており当然線路は撤去されている。 この近所には旧厄神駅を造るときに井戸の中から発見されたという石仏もあるのだが、お腹も減っているので 帰宅コースを選ぶ。

永昌禅寺の前にある立派な石棺仏ですが・・・

車で走っているときはまったく気が付かなかったが自転車だといろんな発見がある。 今日も今まで何百回と通過しているこの寺の前に石仏があるのを発見。 さっそく寄り道して見学だ。

案内板には家型石棺の蓋に阿弥陀三尊像を彫っているとあるが、どう見ても如来しか見えない。 さらに左の縁には康永二(1343)年の銘もあるというのだが風化が激しくてこれも見えない。 さらに石棺の下半分は痩せてしまってぼろぼろの状態だった。 それもそのはずでそれまでは県道の道ばたにあったのを道幅拡張にともなって ここに移設されたという。

まさしくきままなポタリングだったが、どうせなら始発の三木駅から厄神駅までを しっかりと探索してみたかったものだ。ところであの線路跡は遊歩道にでもならないものだろうか?

今回の地図はありません


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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