はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『西河内』、『岩屋堂』を参照していただくようお願いいたします。 2009. 6.27. 土曜日 晴れ 気温蒸し暑い
日曜日にOAPさん、TQFさんとの三人での山行きを予定していましたが天気予報は雨らしい。
ならばと急遽TQFさんとの二人で土曜日の山行きを計画する。予定外の山行きだったので
どこにするかなやんだが、ブナが見たいのと1000m以上で涼しい歩きをしたかったので、mkさん、kokoさんの
山登りを楽しもう!
を参考にこのルートに決める。
自分の記録では2000年の11月に
音水渓谷〜波佐利山に
登っているが、その頃考えていたのは音水渓谷から波佐利山を経由して赤西渓谷へ降りるというものだった。
今回、赤西渓谷から登って周回するコースなので、変則だが9年越しでそれが達成出来るわけだ。
私の車で赤西渓谷の中程にあるキャンプ場へ向かう。
水場とトイレだけの野趣あふれるキャンプ場だが利用者がけっこういるようだ。
鎖ゲートのある橋の手前に駐車してスタート。9時30分。
駐車した橋の所から短い距離の遊歩道がある。それを利用して1106mピークまで一気に登ってしまおうというものだ。 その登り口にはたたら製鉄に関わった江戸時代の人たちの墓石が少なくとも20基はある。 ここから西に延びた小さな谷は『カンカケ谷』と呼ばれているが、それを越えると千種と波賀を結ぶ『カンカケ越』に繋がるのだ。 同じ名前が付いているのと、向こうにもたたら人の墓地があることからお互いにつながりがあったことがわかる。 遊歩道には木の階段が設置されている。しばらく登るとそこが終点で左右に降りる道があった。 ここからさらに上に延伸する計画があるようで、足元には丸太が置かれており上に向かってマーキングもあった。 ただ、ここから延々と激登りが続く。足が滑りそうなほどの傾斜で一気に脈拍が上がって汗まみれになる。 涼しい風を期待したが周囲はねっとしとした空気。
標高950m付近でいったん平坦となる。この付近からブナ林となって目を楽しませてくれる。 ここまでは辛い登りだったがそれに見合う自然林と出会えるので納得。 mkさんたちはここを息も切らさずに登っていったのだろうか? あの夫婦ならそれもありかも・・・。
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下草もない平坦な頂上 | 竹呂が目の前だ |
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1106mピークはササなどが生い茂っていると予想したのに下草もなく平坦で広いピークだった。 11時ジャスト。ここまでで1時間半も掛かっているがこの先いったい何時間かかるのか? 単独ならここで終了というところだが、これから波佐利山まで行かなければならない。 TQFさんは早くも泡のジュースを飲んでいる。木の切れ間から竹呂〜三室の尾根が見えた。 ここから見るとあんな短い距離なのに実際歩くと数時間かかってしまう。
残念なことにブナ林はこのピークまでで、ここからは植林と雑木の混在した尾根になる。 この辺りは昔はそうとうに笹が生い茂っていた様子だが、今はすべて枯れており歩くたびに パキパキと音をたてることになる。宍粟杉だろうか、所々に大きな切り株が残っている。 昔は巨木の尾根だったのだろうか。 |
展望ポイントもあった |
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西方向に好展望のポイントもあったがもうちょっと先で食事をしようと進む。 1106mピークからはそれほど高低差が無いので案外歩くペースも進むようだ。 昼食に良さそうな所はないかいな〜。時間はお昼なので1107ピーク付近で昼食とする。 枯れた笹の上に座るのはなんとも不安定だが、この先ここ以上によさげな場所は無いだろう。 11時55分。
地形図を見るとまだ半分ぐらいの行程だ。15分ほどで昼食を切り上げて再スタート。 変化の少ない尾根で少々たいくつな歩きとなる。ちょっと笹が出てきたなあと思ったら 波佐利山の50山登山道と合流する。13時10分。ここまで来れば楽勝?
9年前はそうとうにひどいヤブだったのに現在は申し訳程度の笹の生え混みだった。 さらにそれを刈っているので単なる普通の登山道だ。 先ほどまでの尾根よりもスイスイと歩ける。山頂手前で1組の夫婦とすれ違って (こんな山に登山者がいることに驚く)我々も頂上に。13時40分。 三等三角点、標高1191.6m。
点の記では『波佐利』という漢字表記となっているが、山名の元である 鳥取県のハサリ川はカタカナ表記であることから単なる当て字の可能性もある。 長居は出来ないのでそそくさと下山開始。波佐利山は兵庫県と鳥取県の境界である 中央分水嶺上には無く、ちょっと兵庫寄りに位置している。そこで分水嶺まで移動する。 『九二』の標石から西に下るがこれまたヤブは無い。予定通り鞍部から赤西渓谷へ下る。14時。
ここから下ったのには訳がある。渓谷の入り口に赤西川の源流碑があると書かれていたからだ。
鞍部から5分ほど下るともう水が湧き出ていた。あるとしたらこの辺のはずだが、それらしいものは
無かった。ひょっとしたら違う谷にあるのだろうか?もう少し下ったらその谷の入り口になるので
行ってみよう。
数分下ったところですごいものを発見する。それは森林鉄道に使われた線路だった。 波賀町は古くから製材業が盛んだが、その運搬効率を上げるために大正7年から着工された音水線を基幹とする 森林鉄道がこれだ。 蜘蛛の巣のように伸びた森林鉄道は総延長25kだったという。赤西には大正11年頃に軌道が敷設されたという。 その最奥がここになるのだろう。 戦前、戦中、戦後と活躍したこの林鉄も来るべきモータリゼーションの浪の中やがて終焉の時を迎える。 昭和33年にここ赤西の軌道が林道となってしまいトラック輸送がメインになる。 (さらに追い打ちを掛けるように外国産の安価な木材が国産を駆逐していき、林業自体が立ちゆかなくなるのだが・・・)
『い』地点で源流碑があると思えるもう一つの谷を見るがそこはいきなりの滝だった。
「絶対この先にはよう担いでないわ。もっと下流に設置してお茶を濁しているんやで〜」
とTQFさん。その下流に向かっては踏み跡もない。先ほどの線路はどこに繋がっているのだろう?
鹿の踏み跡を見ると山腹を歩いている。そこが鉄道跡だった。
しっかりした道の部分もあれば、崩れてしまって単なる斜面になっている箇所もある。 滑り落ちないように前進する。鉄道跡は水平に進んでいるので谷とはどんどんと高度差が 出てくる。そうなるかと思っているとその先でスイッチバック(2ターンほど)で谷に復帰する。 この鉄道が現役だったころの赤西渓谷はどんなだっただろう? ほとんど自然に帰っているために想像も出来ない。
鉄道跡を正確に辿ることは不可能だ。一旦谷に降りた鉄道跡はそこで見失う。
気が付くと右岸から左岸の山腹に移っていたりする。そこによじ登って辿ろうとするものの、
谷との出合い部分が崩落していて向こうに行けなかったりする。谷をそのまま辿っているTQFさんが
大声で呼んでくる。下に降りてみると・・・。
あきらめていた源流碑がこんなところにあった。そこはまったく源流でもなんでもない所だ。 TQFさんの予言が当たったわけだ。これだけのものを担いで谷の遡行は確かに辛い。 そこでこんな場所でお茶を濁したのだろう。裏面にはお約束の落書きだらけ・・・。 たくさんの名前が書かれているので相当数の人が関わっていたのだろうが、誰か一人ぐらい 落書きをやめようと言う人はいなかったのか?あまりの程度の低さにあきれるだけだ。
落ちた橋を過ぎるとそこからはまあまあ歩きやすくなる。ここまでは昔MTBでやってきたことがあるが あまりに周囲が暗く怪しい雰囲気だったのでここからUターンした記憶がある。 現在はそんな感じもなく普通に歩ける?赤西渓谷は水量も増えて簡単な沢歩きぐらいならできそうだ (いざとなれば林道にエスケープもできるし)。
林道はとにかく長い。途中には研修所跡(林業関係?)もあって、五右衛門風呂の跡とか発電設備の跡などが残っていた。
この歩いている林道も昔は鉄道跡だったはず。しかし林道整備で枕木も残っているはずもない・・・が、駐車ポイント付近で
枕木発見。こんな所にも残っていたんだ。16時30分。7時間も歩いてさすがにヘロヘロだ。誰もいなければ
川に飛び込みたかったなあ。
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