西床尾山〜東床尾山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『出石』、『直見』を参照していただくようお願いいたします。

2008. 5.17.  土曜日  晴れ  気温さわやか
今回は床尾の裏ルートとも言える奥山からの周回を試みる。 といってもよくわかっていないので、だいたいこういう感じの ルートかなあと、地図に線を書き込んで計画を練る。まったくええかげんな発想である。 それをサポートしてもらうために、TQFさん、母たぬきさんも同行してくれる。

登り口の出石町奥山へやってきた。ここには兵庫の森百選のひとつ『床尾陽光の森』があるので こいつを利用すれば簡単に登れそうな気がする。その入り口付近には『黎明の家』と額のかかった 東屋があって、ここに駐車する。9時10分。
『床尾陽光の森』入り口要所要所に道標あり

入り口にあるイラスト地図看板があったので、実際の地形図とを見比べるがよくわからない。 どうやらイラストにあるあずまや分岐から桝水の大滝方面へ行くのが予定していたルートと合致するようだ。 とりあえず林道を歩いていくとすぐに終点になる。ここが駐車場になっていて、ここに止めてもよかったかな。

この林道終点付近は金山の坑口跡がいくつかあるようだ。渓流の対岸にもそれらしい 穴が見える。見たい気持ちもあったが、肝心の登りルートが確定していないためとりあえずパス。 その先で道標が現れてあずまやと金山跡方向を示している。そこであずまや方向へ進もうとするが 金山跡まで400mという表示を見て、やはりそちらへ寄り道したくなる。 なんせ、私は坑道熱中人ですから。
立町金山跡中を覗いてみる

棚田跡に多くの杉が植えられている。それらを縫うように丸太階段が続いている。 やがてズリの小山の奥に案内板と坑口が現れた。9時40分。その案内板によると 『慶長17年(1612)小出吉英城主が奥山金山として開坑し、銀及び銅も採掘したが、大正末期より、 ほとんど採掘せず昭和58年に閉山した。・・・』てことは、つい最近までなんらかの人の手が入っていたと いうことか。ズリ山の上には手押し一輪車やら赤くさびた滑車などもある。

肝心の坑口は倒木で入り口がふさがっている。その倒木の上に立ってみると ちゃんと坑口は口を開いていた。のぞき込んでみると真っ暗なのは もちろんだが、奥からは割と大きめな水音が聞こえる。フラッシュを焚くと しっかりした坑道が見えた。ライトを持ってこなかったのが残念だが、 入り込むにはやはり勇気がいりそうだ。

さらにここの近くにももう一つズリ山があったのでその上にも坑口があるのだろう。 それにしてもどうやってここに金鉱脈があるとわかったのだろう? 三人の凡人にはわかるはずもなく、古人の知恵にただ驚くばかりだ。

せっかくここまで登ったのだし、またぞろあずまやまで戻って予定のルートを行くのは どうかと思い始める。いかにも貧乏人の発想か。 地形図を見るとちょっと登るだけで稜線(和田山と出石の境界)に出られそうだ。 ズリで出来たと思われる斜面はいかにもきついので、谷に沿って登っていくと 案外簡単に登って行けた。
稜線は快適だった緑あふれる尾根

稜線手前(『B』地点)でテープに出会う。どうやら『床尾陽光の森』の遊歩道の途中から 登り口があるようだった。ということでここからは安心して歩くことが出来る。 稜線の真ん中は十分すぎるほどの空間があって傾斜もそこそこ。 ってことは、下りでMTBが使えそう!!
おもわず立ち止まるアンテナポイント

展望はなかったが雑木の緑あふれる尾根歩きが堪能できた。 東方向に登っていったのがいつのまにか北方向に向きが変わり、やがてアンテナ施設が現れると 頂上間近だ。ここまでの途中に竹ノ内方向に下る分岐があると思っていたのだが、どうやら見過ごしたようだ。 西床尾山には11時10分。標高843m、三角点無し。ついでに展望もほとんど無し。 東床尾のピーク付近と反対方向に但馬ドームが見える。
快適縦走路 その1同じく その2

西床尾から縦走路を東床尾へ歩き始めてすぐの所で左方向をちょいと覗いてみる。 するとマーキングこそないが歩けそうな空間があった。これは当初『床尾陽光の森』から 登ってくるはずのルートでした。これなら問題なく登ってこれただろうと確信する。 縦走路はシダ、笹などの下草もなくなんの障害もない。 近畿自然歩道の標識が立つ分岐に到着。
崩壊した床嶺の家下山分岐になる作業小屋

右を行けば東床尾。左を行けば床嶺の家の見つつ、大かつらの登山口へ下ることが出来る。 床嶺の家はここからも見えるが完膚無きまでにつぶれている。 いつだったかの台風が原因だとは思うが、見ると建て方そのものに問題があるようだ。 税金で建てたとしたらもったいない話だ。

林業の作業小屋分岐に来た。12時15分。もう東床尾の頂上は目と鼻の先にある。 しかし、頂上は吹きっさらしで照りっさらし(その代わり360度の大展望だが)なので この小屋横で食事にする。ちなみにこの小屋はトタン壁の簡素なものだが立派に建っていて、 バストイレ付きなので避難小屋としても利用出来そう?
木陰で食事。東床尾のハイカーもよく見える
頂上は目の前空気が澄んでいればなあ

頂上でなく、小屋の横手で食事をしたのは正解だった。木陰もあったし、なにより 他人がいないのでのんびりとくつろげた。ここから見る頂上は北斜面が丸裸で 出石と但東の境界尾根も登山ルートとして有効のように見える。ではその頂上へ行ってみましょ。

標高839.1m、一等三角点。12時55分。360度の大展望だがかすみがひどくて はっきり、くっきりとはいかない。本来なら見えるはずの氷ノ山すら見えない。 日本海も見たかったなあ。わずか5分の滞在だったが、さーて下山すっか。
下りは展望ルートだった快適に下れます

さきほどの作業小屋の食事ポイントから下っていく。こちらは登りと違って 展望ルートだ。出石川、円山川の流域が手に取るようだ。 すぐに道標に出会う。我々が下る方向には表示が無く、違う尾根方向には 『小滝2.1km・大滝2.8km』とあった。こんなルートもあるんやなあ。また登ってみる必要ありやね。 ところで先ほどの作業小屋にあった道標には『小滝1.8km』と表示があったが、これって おかしくない?
分岐鞍部に着。周りを探索
○印は木にぶら下がったチェーンソー

道標の示す方向とは違うルートだが道は明確だ。どんどん下って605mピーク手前の 鞍部に着。13時40分。点線はその605を越えてなおも続くのだが、実際はここから 左の谷へ下っていく。鞍部には崩壊した小屋の骨組みだけが残っていて、なんと五右衛門風呂の釜まで ある。ええホテル並みです。

古い道標も残っており、それには右方向『桐野』の表示もある。今も通じているのかは不明だが、 床尾にはいろんなルートがあるんやねえ。また登ってみようというきっかけになるってもんです。 いちおう探索も終了して谷へ下り始める。すぐに谷に降り立つ。そこは植林帯で、谷には流れがある。 そしてここにも立派な道標があった。これはずいぶんと古くて昭和40年のものです。
危なっかしいよ棚田跡の段差を行く

立派な道標はあるものの、道は崩壊したところもあり、斜面をへつるように通過しなければ ならない箇所も多い。TQFさんはさっさと通過してしまうが、私と母たぬきさんは どうもこういうのが苦手で足は進まずに悲鳴だけが谷にこだまする。 しかしこんな谷奥にも棚田が存在する。きっと隠し田だったんだろうと勝手に想像。
この坑道もすごい棚田跡を行く

棚田だった所は必ずといっていいほど杉などの植林がされている。 ここも当時は明るい谷だったのだろうが、今は日光の届きにくい谷だ。 605ピークから続いている点線ルートがこの谷に下りてくる地点付近で またもや坑道を発見する。覗いてみるがこれまた規模の大きい坑口だった。
ここにも風呂が!まもなく駐車ポイント

そしてその先で人家跡と出会う。いくつかあるし、五輪塔などもあったりするので 小さな集落だったようだ。案外最近のものらしくタイル張りのお風呂もあった。 作業小屋にはユニットバス、鞍部には五右衛門風呂、そしてここにはタイル風呂。 今日は風呂三昧だ。

集落からは林道となり退屈な歩きとなる。奥山の集落には15時25分着。そこからは 村内にある石仏やら西床尾のピークを眺めながら舗装路歩き。駐車ポイントには15時40分。

これで終わりではありません。現在、世界は食糧難にもかかわらず、日本は食物の自給率が 恐ろしく低い。このままでよいのでしょうか?その答えの一つがこの近くにあるのです。 家族全員で完全自給自足の生活をしているという『あーす農場』へ行ってみましょう。
あーす農場へ来ました双子ちゃんが焼いてます

周囲を見渡してもこの一軒だけ。田圃に畑に鶏舎、豚小屋、ヤギもいるなあ。 横を流れている川で水力発電もしているし、豚の糞などでガスも作っている。 そして『くらんぼん』というパン工房がある。中には築20年という煉瓦の 窯(れいちゃんが言うにはもう使用の限界らしいが)があってさわってみるとほの温かい。 パンはほとんど売り切れていて ちょうど3人で分けるほどしか残っていなかった。

テレビなどでも有名な家族です。シティーボーイの私には到底まねはできませんが こういう生活もあるんだなあと、パンをほおばりながら帰路につくのでした。

今回の西床尾山〜東床尾山の地図は こちら(約170k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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