高松山〜庚申山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『北条』を参照していただくようお願いいたします。

2007. 2.10.  日曜日  曇り  気温寒い
術後のリハビリを兼ねて加西市の里山をあちこちと登ってみたが、知らない内に各地で里山整備が行われていて驚かされた。 ならば今回もそれをあてにして遊んでみようとたくらむ。 ルートは北条町栗田にある高松山から小谷城趾へ縦走し、猪坂峠から方向を変えて点名『大内』、点名『谷合』、 そして終点の庚申山でゴールとする馬蹄形の尾根歩きです。

高松山は山名もわからなかった7年ほど前に登ったことがあります。細い踏み跡が山頂まで続いていたのですが、 その山頂はヤブで薄暗かった記憶がありました。ところが1年ほど前に整備されたことを知って 再訪したときには雑木の明るい山頂に変身していました。人の手の入れ方次第で山も生き返るんですねえ。
登り口の熊野神社何の祠かなあ?

登り口の熊野神社前に駐車して9時15分スタート。現在は登り口が2箇所あって周回出来るようになっている。 その東口の横手にある石の階段を登ると石の祠があるのだが、7年前はそこから登っているので今回もそこから 登ってみる。石の階段には昨日の雪が残っており滑りそう。しかも頭上からボトボトと水滴が落ちてきて冷たい。

登り切った所の正面には石の祠、右には灯籠、左には石仏がある。 石仏は地蔵菩薩で光背部分ではなく側面に文字が彫られていた。曰く『寛政十二庚申(1800)年 四月吉祥日』とあった。 正面の祠には阿弥陀如来(キリーク)の種字と基台部分に『高野山行者快傳房』と彫られていたが 結局なんの祠かは不明。その奥から道がある。
遊歩道には雪がある山頂直下はしっとりとした雑木林

しばらく登ると幅広の遊歩道と合流する。これは駐車ポイントに入り口があった東の登山道だ。 昨日の雪がしっかりと残っていてそれを踏みしめて登る。横手には7年前の古い道跡も残っている。 20分もかからずに頂上に着く。
頂上からは加西市の市街地が一望出来る

山頂には2基のベンチがあり、南方向に切り開きがある。市街地からこの山を見ても 山頂付近の雑木がわかるし、この切り開きも確認出来る。ここも真っ白だが市内もまだ雪のベールをかぶったままだ。 頭上からはあいかわらず滴が落ちてきて傘をさしたい気分。

ここから尾根伝いに小谷城趾へ向かう。いったん舗装路の峠に下りるのだがその方向進むとすぐに激ヤブとなる。 ほんとはダイレクトに峠に下りたいのだが、マジヤブなので身体がすり抜けられる方向に進むしかない。 どうやら北にある墓地へはなんとか行けそうだ。墓石が整然と並んでいる墓地に降り立つと思っていたら、 整地されていない湿地のような敷地へ下りる。そこから墓地の道路へ出ると 偶然にも会社の人と出会う。突然山の中から同僚が出てきたので向こうもびっくりしていたようだ。10時10分。
峠にある道標が登り口の目印峠からすぐのピーク

立ち話をして別れる。峠にある小谷城趾への登り口は特に標識などはないが、代わりに 石仏道標がある。それを見ると正面には『左 不うぢよう(北条) 右 小谷 辻川(福崎にある地名)』とある。 側面には『文政十亥(1827)三月日』『上野屋利助』と寄進者の名前もある。長時間見ていると 時々通り過ぎる車両が不審げに私を見る。

鉄筋をU字に曲げて、それで丸太の両端を地面に固定して階段にしている。昔よくあったやつだ。 それも古くなって段々のいくつかが無くなっている。しかし、その階段の残骸は遊歩道であった証拠なので安心して登ると 簡単に稜線に出た。最初のピークは周囲に高木がなく低い松だけ。市街地も見えるし、正面には小谷城趾のピーク。

こちらから(東から)のコースは堀切も曲輪もなく、明確な道が一本続いてて楽に歩ける。 やがてズルズルで滑る急登りになる。ようやく山頂手前に曲輪が一箇所あって、そのまま山頂となる。 10時50分。
小谷城趾本丸明確な堀切

ここが本丸跡だと思うのだが、 笹が一面に生えていて座れるような感じではない。ここも高木がないために明るいが 市街地方向はわずかに見えるのみ。一段下がった所には丸太の腰掛けが4つほどあったが、 いずれも腐ってグズグズになっていた。ここから西方向は堀切やら曲輪がいくつもある。 道通りに進むと小谷の集落に下ってしまうので気をつける。

これで最後と思われる小さな堀切から奥は笹藪で尾根がふさがれている。右に左に踏み跡を探して なんとか進む。その後も小さなヤブが現れては消える。尾根には鹿の寝床がいくつもあったが 昼間はどこにいるのだろう。やがて左下に道路が見え始めて舗装路にひょいっと出る。11時20分。
猪坂峠の手前に出る猪坂峠から登る

一車線の舗装道路だ。地形図どおりに峠のちょっと手前に出た。 数mほど歩くと『シロヤマ24』という電柱がある。そこにある踏み跡を行けば 20日ほど前に歩いた畑 愛宕山 の石仏道標(畑 愛宕山の地図『B』地点)に出る。

そして深い切り通しの猪坂峠に着。ここから標高301.2mの点名『大内』を目指す。 お腹がすいてきたがチョコレートを食べて空腹をまぎらす。切り通しの縁を登っていくが、 雪で滑ると道路へ落してしまうので慎重に登る。稜線に出ると、なんとそこにも 道があった。

現在の猪坂峠にあるこの一車線の舗装路は30年ほど前に自衛隊が造ったらしい。 それ以前は切り通しもなく古い峠道があったわけだ。それが現在目の前にある。 当然だが倒木やら新たに生えたブッシュなどで通行は困難。しかしたった30年ほど前には 大勢の人が通行していたかと思うと不思議だ。その道はやがて若井方向に下っていった。
点名『大内』から行く手を見る236に到着

点名『大内』には11時50分着。ここから北へ向かうと4年前に登った 天雲山 へ至る。今日はその時と逆のコースとなる庚申山へ向かう。時間的にはもう食事だが、 このピークは座るスペースもなく周りもヤブだ。 236ピークが食事に適した所なのでそこまで我慢。

4年前と比べてヤブはいっそうひどくなっていた。倒木をくぐったり、またいだり、はたまた蹴倒したり。 足元は当然ながらドロドロだし、リュックもドロドロ、つまり全身ドロドロ。 さすがの私もいいかげんうんざりするがようやく到着した236ピークだけは別世界のような所だ。 12時35分着。

ここで食事をする。天気ならぽかぽかと暖かいのだろうが、今日は時折小雪も舞うし、 笠形颪が冷たい。鍋焼きうどんで身体を暖めてそそくさと出発。13時。
こんな尾根が延々続く遊歩道に出た!!

ここからも今まで同様のヤブが続く。途中で 点名『谷合』、標高222.7mを通過して庚申山には13時30分。 時間的には予定通りだったが、とうとうここまでヤブだった。 あきらかに4年前以上にひどくなっている。

庚申山も整備されていると聞いていたのだがヤブで薄暗いままだった。 間違った情報だったのかなあと南東方向に下っていくと突然遊歩道に出た。 ベンチがあって道標もあった。ここは遊歩道の最上部で『いきものふれあい広場』と言うらしい。 この辺で生き物というとマムシぐらいなもんだが、それにはふれあいたくないもんだ。 とりあえずベンチでコーヒーを飲み一息つく。
それまでが嘘のように快適愛宕の祠と東屋

予定では庚申堂に下りるつもりだったが『あたご社〜権現池口』という標識が気になったので そちらへ向かう。この遊歩道は4年前に歩いた山道をそのまま使っているようで その時の記憶がよみがえってくる。ふと下を見ると庚申堂が見えたがそのまま素通りしてあたご社を目指す。

そこには愛宕の祠と東屋があった。周囲の雑木で展望は良くないが、ほんらいなら出発点の高松山から小谷城趾、 果ては深山まで一目で見渡せるポイントである。さっきコーヒーも飲んでしまったのでドロドロになった スパッツを脱ぎ、リュックのゴミも落として下山する。14時05分。
熊野の里遊歩道にある東屋熊野神社にある石碑

権現池の横を通って集落の道に出た。ここから舗装路歩きとなる。午前中に通過した墓地サイドを抜け、 小谷城趾の登り口も通過。舗装路をぐにゅっと回った所から小径に入る。 ここには木柱が立っており『熊野の里遊歩道』と彫り文字がある。 つまりショートカットで神社に帰れるのです。途中には東屋もありのんびりとため池の湖面を見ていると 眠たくなるね。高松山から下るもう一つの西登山道はここで合流します。

熊野神社には14時55分。本殿横手には妙な石碑があった。 石を見るとじっとしていられないたちなのでもちろん立ち寄る。 正面には『酒見大明神』とある。加西市にある住吉神社は酒見神が祭神で古くは酒見大明神と 呼ばれていたらしい。その横にある『峯條大神』は『ほうじょう(北条)』の当て字なのだろう。

前に一対のきつねの置物があって『吉平大明神』と彫られている碑が難解だ。 いろいろと想像してみると、安倍晴明の子供に吉平というのがいるのを思い出す。 きつねとの異類婚姻で生まれたという伝説のある晴明はつとに有名だ。 その息子の吉平が稲荷として祀られているのだろうか?

今回の高松山〜庚申山の地図は こちら(約120k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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