戸倉山〜最上山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『土万』、『山崎』を参照していただくようお願いいたします。

2006.12. 3.  日曜日  曇り  気温寒い
中国自動車道の山崎付近を走るとき、あるいは山崎から千種へ抜けるとき、 標高は低いが気になる山塊が東西に長く連なっている。 2年前にMTBでその半分ほど 『九鬼峠〜戸倉山』 までを走ったことがある。正確には走ったではなく、担いだんですけど・・・。

下界から見るといかにも走れそうな尾根なのだが、実際は台風による大規模な倒木のために 歩くのさえ困難な箇所もあった。今回はその続きである戸倉山〜最上山を歩いてみる。 台風から2年以上経っているのだから倒木もそれなりに整理されているでしょう。

単独を予定していたが、山崎出身のTQFさん、さらに山崎在住のOAP、JMMさんも 「勝手に縄張りを荒らされてはかなわん」というわけで同行してくれるという。
菅野小学校横に駐車墓地のこの地点が入口

終点の最上山の駐車場に車を停めて、TQFさんの車で山崎町青木にある菅野小学校へ向かう。 小学校の横手に停められそうなスペースがあったのでそこからスタート。9時30分。

小学校の奥に小さな墓地があって、その山側には獣避けの金網が設置されている。墓地の奥まで行かずに 写真の位置に扉があるのでそこから進入する。すると前回下りに使った山道が現れる。 いきなりの急坂で「こんなに急だったかなあ?」と不安になるが、ゆるやかになると しっかりとした道の姿を現してくる。
獣避けの金網の向こうにある山道尾根を一直線に登る戸倉山のピークは直前です

昔は青木と上牧村を結ぶ峠道だったので、しっかりとした道なのもうなずける。 JMMさんが言うには昔は両方の集落間で婚姻がさかんだったということです。 きっとこの道を頻繁に利用したのでしょう。

戸倉山からまっすぐに延びた枝尾根を登っているので傾斜も急で、汗も噴き出し 「暑い、暑い」を連発して半袖になりたい気分です。所によっては道はブッシュに覆われて、 徐々に自然に帰りつつあるように思う。U字に掘れた峠道は歩きにくいので 横手にエスケープして登っていきます。

登りはじめは暗い植林帯でしたが、この付近は雑木で明るい。 さすがに黄葉は終わりかけており落葉がバラバラといった感じで落ちてくる。 最後の急斜面を登り終えると再度植林になるがそこが山頂です。
山頂に1本だけありましたこの倒木の向こうに三角点

山頂部はフラットで広く、三角点はその最奥に位置してます。 植林で暗いのですが、一箇所だけ明るく輝いている所があります。 そこには鮮やかな黄色のモミジがなぜか1本だけあり、 周囲の杉の大木に負けない存在感を出しています。

三角点を捜しに奥へ行く途中で立木にぶらさがった木片を発見。 見るとほとんど消えかけた文字があり、それには2005年2月に 登ったとある。それにもここは戸倉山と書かれていたので山名は確実なものだろう。 さらに小学校の文字もあるので、ひょっとしたら菅野小学校の生徒達が登ったのかもしれない。

三角点の方向はひどい倒木だったので、それらを迂回してなんとか三角点にタッチできた。 三等三角点、標高512.2m。10時40分。倒木は2年前となんら変化がないので今後も このままが続くと思われる。それよりもこれからの縦走路の倒木が心配だ。

黄色のモミジから最上山へ向けて縦走を開始する。最初の鞍部まではよかったが、そこから 次の小ピーク向こうを見て驚いた。2年前に折り重なるように倒れた杉が そのまま枯れた状態で放置されたままになっています。 もちろんその上を乗り越えて歩けるわけもない。
とんでもない倒木帯腹が減りました

北からの風で倒れた風倒木なので、それらの少ない南斜面をトラバースする。 472mピーク付近から稜線に復帰して、その先から90度に右折れするように 100mほど下っていく。この付近はモミの大木が多い。

展望もないのであまり面白くないが、地元民の三人は木々の間から見える麓の建造物を 「あれは○○や」「いや△△やで、」と、楽しんでいる様子です。 「そろそろお昼にしましょう」というJMMさんの声で、その辺に腰を掛けて 昼食にする。標高が低いので無線はさっぱりだった。

12時20分再スタート。ここで大きなちょんぼをする。長年愛用していた杖を ここに置き忘れてしまう(上の写真白矢印)。だいぶん進んでから気が付いたので もう後戻り出来ません。生きている間に再会出来るでしょうか・・・。
県の設置した基準点落ち葉の尾根を行く

小さく切り開かれた箇所があった。行ってみると赤白のポールが建てられており、 そこには金属標が地面に埋め込まれており『2級基準点・・・』とある。 地理院が設置した新しい基準点かと思ったが、兵庫県と彫られた文字がある。 その後も稜線上に似たようなものや、下界に降りれるような切り開きの道もある。

OAPさんが言うにはこの付近にトンネルが造られる計画があるらしい。 そのための測量が行われたと推測します。 大昔ならともかく現代なら車で短時間に迂回できるのに、なんの必要性があるのか 疑問のトンネルです。そんなのにお金を使うぐらいなら倒木をなんとかしてよね。

四等三角点のある標高355.9mの点名『高下』は気が付かずに通過してしまった。 ここは『清正公』と呼ばれているらしい。あるいはこの東にあるCa.390mのピークのほうが 下界から見てピークらしいので、そちらが『清正公』にふさわしいかも・・・。

『清正公』が加藤清正のことなら『せいしょうこう』と読むのが正解かもしれません。 秀吉の軍勢として此の地にやってきて、この近くに陣を張ったのが由来なのかと想像したりする。

小さなアップダウンをいくつも繰り返しながら展望のない稜線を行く。 途中には北と南の集落を結ぶ古い峠道がいくつかあった。 それに付随するような石仏でもあればうれしいのだが、そういうたぐいは 全くない。
篠の丸城趾手前にある切り通し東屋のある城跡に着きました

三等三角点のある標高338.0mの点名『山崎』には13時55分着。 最上山はもう目と鼻の先です。あるいは三角点があるからここを最上山と 言ってもいいかな?

目の前に山城に付き物の堀切があった。後から埋めたのか一箇所だけ 通行できるようになっている。 それか三箇所もあった。戦国時代にここを秀吉の軍勢が埋め尽くしたのだろうか? 稜線を歩いている間中、左手奥に長水城のあった長水山が見えていましたが、 ここ篠が丸はその支城だったという。 その三つの堀切を越えると東屋のあるピークに立つ。14時ジャスト。

思ったより到着が早かったのでこの東屋でお茶にする。 周囲は終わりかけた紅葉の木々。その間からは山崎町の町並みがよく見える。 この周辺はフラットでジャングルジムなどもあって公園のようになっている。 昔はお寺や神社(妙見神社)もあったというのでそちらへ行ってみる。

建物は残っていないが瓦を積み上げてひとかたまりにあったり、お百度石があったりする。 この山は最上山(さいじょざん)ともいうが、篠が丸(城の名前)、一本松(山上にあった松で 現在で三代目らしい)、とも呼ばれています。
紅葉を愛でながら下る その1紅葉を愛でながら下る その2

山上には我々以外だれもいなかった。道を下る途中には真っ赤なモミジが残っていて 我々の目を楽しませてくれた。妙見宮の鳥居をくぐり抜けると駐車場でした。 14時50分。

今回の戸倉山〜最上山の地図は こちら(約145k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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