法道寺渓谷

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『但馬新井』を参照していただくようお願いいたします。

2006. 7.16.  日曜日  曇り  気温蒸し暑い
現在はバスフィッシングで賑わっている生野銀山湖もそのダム湖工事が着工される 昭和41年以前は上生野(こうじくの)という村が存在していました。 湖面を見るたびにそこでどんな生活が繰り広げられていたのかと思うのでした。 今は湖底に沈んでしまった上生野の住民の方々はというと、国道312号沿いにある 生野町円山という所に移住されていて、そこには『上生野 昭和46年3月移庄』と彫られた石碑があります。

ある日何気なくここを訪れて上生野で実際に生活していた年代の方に面白い話を聞く (あるいは本で調べていた事柄をここで確認しに来たのかもしれないが記憶が定かでない)。 それは、銀山湖から北に延びる法道寺渓谷の奥には洞窟があって、そこで法道仙人が 修行をしていたという伝説です。そして、そこで法道仙人が彫った観音菩薩が上生野 にあった法道寺に祀られていたという。

法道仙人は播磨地方では有名な人物である。印度からやってきた仙人で、播磨を中心とする 寺の多くはこの仙人が開基といわれている謎の多い人物である(代表的なのは法華山一乗寺とか)。 但馬に属するこの生野も例外ではなく、岩屋観音のある鷲原寺も、廃寺となっている奥銀谷の内山寺も 法道仙人とゆかりがある。もちろん上生野にあった法道寺もその名のとおり法道仙人が開基である。
銀山湖湖畔貸しボート桟橋近くにある

その上生野にあった法道寺は現在の貸しボートハウスのあたりにあったらしい (もちろん現在は移住先に移築されています)。 そのちょっと下にある船着き場には大日如来の石仏もある。 それには『明治二十七午十二月  牛馬安全』と彫られています。 当時の農家にとって牛馬は大切な労働力です。それの安全を祈るための石仏ということです。 このあいだ歩いた夢前の賀野権現 と同じですね。

この石仏の存在を教えてくれた上生野のおじさんも子供の頃、家で牛だったか、馬だったかを 飼っていたらしく、当然のように当時もお参りしていましたが、今でも年に一度お参りに行くそうです。 そんな貸しボート屋の奥から法道谷が始まります。『法道谷』というハイキングコースを示す立派な標識もあれば、 朽ちかけて地面に放置された『ひょうご森林浴場50選』という看板もある。

入口に車を止めて準備をする。さほど奥まで行かないので余分なものは持っていきません。 川を何度か横切るのと、山ヒル予防のために足元は長靴にする。 その長靴の上部にぐるっと一周するように防虫スプレーをふりかける。こうすれば 下から這い上がってくるヒルに関しては完璧です。
左側は川、右手に巡視路入口あり大ナメラと呼ばれる川底

はじめは普通車でも通行できる未舗装の林道。常に左側が川で、それに沿ってある 一本道なので迷うことはない。500mほどで 終点になりそこから急に細い道となる。川に滑り落ちないように進むと、植林の中の 道となり、ちょっと広くなる。右手に巡視路入口を示す『火の用心』看板がある。 これを利用すると『もっつい山』に簡単に登れますが素通りする。

この辺からヒルに注意。足元を見るとさっそくよじ登っている気の早い奴がおりました。 でもスプレーを振りかけた所で立ち往生しています。グルグルとその周りを 回り始め突破口を探すが、そのうちあきらめて地面に降りていきました。 これで下から来る奴には効果があることが判明。 上から落ちてくるヒルに関しては無防備ですが成り行きに任す。

左手を流れている川(法道寺川と呼ばれるのかな?)の川底は一枚岩の岩盤が 長く続いており、大ナメラと呼ばれている。ざっと500mは続いており、 見ていてもすごいと思わせるものである。 実はこの大ナメラをMTBで上流から下流へ走り抜けたいという願望があるのだが、 なにせ夏場はヒルがいるし、ヒルがいない季節は濡れると寒いので、願望のまま 終わりそうである。

ヒルさえ無視すれば絶好のハイキングコースのはずなのだが、ハイカーの姿は皆無だ。 それは渓谷の入口から1.3kmほど道が途切れているからです。 大ナメラに流れ込んでいる支流に橋が架かっているが、今はそれがなく石で組まれた 桁だけが残っています。つまり向こう岸に行くには川を渡る必要があるので登山靴の人は ここでUターンすることになってしまうでしょう。
一の滝(布引の滝)

それを見越して長靴なので歩いて渡れます。この支流も一枚岩の川底なので 小ナラメと呼びましょう。案外グリップがよくて滑りません。 実際は3歩ほどで渡りきれるのでそれほどオーバーに言うほどのものではありません。 渡りきって先に行く前に右手支流の奥を覗いてみましょう。 そこには立派な滝があります。地元では一の滝と呼ばれていますが、その姿から布引の滝 とも言われているようです。

本道に戻ります。 正面に石で組まれた祠が見えてきました。 中には地蔵菩薩の石仏があります。湯飲みとか花入れがありますが、お参りされた形跡は ありません。周囲も暗いし、中も暗いのでうまく写真は撮れませんし、光背に彫られている 文字も彫りが薄くなっていて判読が難しいです。 『安永三(1774)年  午十月吉日』と確認。
この周囲が観音堂跡か?中は地蔵菩薩の石仏

何度かここに訪れていますが、なぜこんな所に石仏があるのか不思議に思っていました。 実は法道仙人が修行していたという洞窟にあった観音菩薩の像は、 最終的には法道寺に降ろされましたが、一時、この遊歩道の途中にあったという 観音堂(周辺を観音屋敷と言うらしい)に祀られていた期間があったという。

ならば観音堂があったと言われる場所はこの祠周辺が候補になりそうですが、先ほどの橋桁を渡る手前 には瓦が散乱していた広場があったので、ひょっとしたらそちらかもしれません。
石仏の先にある二つ目の橋桁箇所

石仏のある祠の先にも先ほどと同様に石組みの橋桁がある。『に』は法道谷の本流で 大ナメラがこの先にも続いていて『は』はその遊歩道跡。ちなみにここは 2001年9月 に歩いていますが、最終的には岩屋観音、行者岳までも続いているものでした (が、写真の通りに廃道状態なので、沢歩きの用意が必要です)。 『い』は支流でこれも3歩ほどで渡ることができる。そして『い』の先には二の滝がある。
『は』の先にあるのは
鉄骨の残骸が放置された遊歩道跡
二の滝は写真に撮りにくい

二の滝を写真に撮ろうと支流をザブザブと長靴で歩いて行く。ここも良い滝なのだが アングル的に写真に撮りにくい。数枚撮したもののあきらめて戻る。そして『ろ』のルートを行く。 ここも2000年11月 にMTBで、2001年7月 には歩きで訪れています。しかし、その両方とも洞窟なるものは目にしませんでした。 はたしてほんとにあるんやろか?

『ろ』のルートは二の滝の左を巻いて登っている。高度差10数mほど登ると滝の落ち口に着く。 そこからまたゆるやかな谷(行者谷というらしい)になる。いくつも炭焼き窯跡があって、ここまでも上生野の 生活の場だったようだ。
良い谷だが、ヒルだらけ

村に人の話によると洞窟はさほど深くないらしい。しかも落石で入口は ふさがっているという。それもあって今まで見逃していたのかもしれません。 注意深く左右を見ながら歩いていく。時々は長靴のヒルが靴から身体へ越境していないかを見る。 すると、どこから来たのか股ぐらに一匹ひっついていたので引っぺがす。

二の滝の落ち口から300mほど行くとさらに小さな滝がある。 その滝は正面に大岩がいくつか積み重なっているために流れが見えにくい。 道は右側の斜面をジグザグによじ登っていくように付いている。 この滝までに洞窟はあるはずと思っていたのだが、なんとそれは 滝の手前左側にあった。
洞窟(行者穴)発見!!

たしかに普通に歩いていたら見つけにくい場所だった。 近くに行ってみたが、なるほど入口は落石などでふさがっている。 よじ登ろうかとも思ったが、ヒルもいるだろうし、足元が崩れそうなのでやめる。 足元に祭祀に使われたような陶器の破片などがないか探してみる。 数百年前には中に観音菩薩が祀られていたのだろうと想像するだけでワクワクする。 今日のこのルートはかの多田繁次氏も歩いておられるがこの洞窟のレポートは無い。 (この洞窟は『行者穴』と言い、近くには法道仙人が行をしたという『浄土岩』もある)

この山を越えた多々良木にもこの洞窟についての伝説がある。 それは、ここで修行をしていた法道仙人は、実は三体の観音像を造ったという。 それは一本の楠から造られたもので、一体は法道寺に、残りは物部のお寺と多々良木にあった 正法院に安置されたという。ただ、正法院の観音は火事で焼けてしまったらしい。
車の所までついてきたヒル

伝説の洞窟も見つけることができて大満足です。 普通に山に登ることも楽しいが、伝承やら言い伝えのルートを探るのも一興かと思う。 先ほどの谷を詰めるともっつい山の山頂まで行ける。ここは点名『赤星』と言うので 一部の人は赤星山と呼んでいる人もいるが、やはりここは上生野の人の呼び名を 尊重したいところです。

今回の法道寺渓谷の地図は こちら(約110k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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