天ヶ峰

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『三岳山』を参照していただくようお願いいたします。

2005.10.16.  日曜日  晴れ時々曇り  気温ふつう
この天ヶ峰(てんがみね)は酒呑童子で有名な大江山と、山岳修験の三岳山との中間ぐらいに位置しています。 山頂直下に鳥居マークもあるので 興味のあるピークでしたが、どういうわけがWEBではまったくレポートがありません。 京都丹波のガイド本にかろうじて書かれているそうですが、それはまったくつまらないルートで登られていました。 (私は読んでいませんが、西にある坂浦から頂上まで続いている林道のピストンらしい・・・)

舞鶴のもっさんは天ヶ峰の南にある小原田(おわらだ)から昔登ったという。さらに やまごさんが言うには小原田にある夫婦滝の横手から登山道があるとの情報。これだけ聞けばもう 登ったも同然。たぬきさんご夫婦と2台の車で行動するので、小原田から登って北にある橋谷へ下るルートを考えました (実はこの下山ルートにはお宝ポイントがあるんです)。 もちろんのことですが、もし下れそうにない場合は南へ下山するエスケープルートも考慮に入れてます。

まずは下山予定地の橋谷集落へ。これぞ山村って感じの所です。山肌に張り付くように家と 畑地があります。府道沿いのスペースに車を止めますが、 ちょうと畑仕事のおじさんがいたので許可を得るついでに山の話もうかがいます。さて、私の車を置いて たぬき号でいざ小原田へ・・・・。

道さえ間違わなければ夫婦滝は道に面してありますのですぐにみつかります。横手に3台ほど車も止められそう。 さっそく準備がてらに滝見物です。8mほどの落差でしょうか。落ち口には注連縄もされています。 お約束の不動明王の石仏もありました。ちょっと上には役行者の石仏もあります。 去年の大水で石の灯籠が流されたそうで、真新しいのが奉納されていました。

この滝はなぜ夫婦滝と呼ばれているのでしょう。上部で2条に別れた流れは途中で交差するように交わり、 そしてまた2条になって流れ落ちていく様を夫婦の人生になぞらえて命名されたそうです。 ところが!!よく見ると上部は3つの流れに別れています。てことは、三角関係の不倫状態が 2条の元の鞘に収まったってことか??男女の仲はマカ不思議なり!!
(不倫の?)夫婦滝を見る下峠に着きました
滝の横手に『天ヶ峯登山口』と書かれた古い標識があります。そこから登り始めます。9時30分。 本来なら風情ある古道のはずなんですが、植林の積み出しのために赤土の露出した醜いユンボ道に 変身していました。古い棚田跡もみんな赤土の下に埋もれてしまってます。 脇道もありますが、谷をずんずんと直進していきます。棚田であった石組みはずいぶんと上までありました。 それが終わる頃、左の尾根み向かってユンボ道は延びています。それをたどると路面はユンボに犯されていない U字状の古道に戻り一登りで尾根に到着。10時ジャスト。

ここは下峠(しもとうげ)と言う。峠と言いながら切り通しのそれではなく、写真のように単なる尾根の上って感じ。 でも、西の谷に下っていく明確な道はあります。小原田の人は先ほどまでの棚田からこの下峠を通って 西の谷の棚田まで仕事に出かけていたらしい。昔の人は働きもんやねえ。 で、仕事嫌いのやまあそは尾根の道を進むのでした。

この道が思いの外超快適。天ヶ峰の頂上下にある鳥居マークへの参道だったのなら至極当然だが、 はたして山頂までこの道が続くのか??しばらくして着いたところは 十字路のような辻だった。ここは上峠(かみとうげ)と言うらしい。 正面の道は消失していましたが、右方向には400mピークを巻くように小原田へ下る道がある。 天ヶ峰へはもちろん左方向だが尾根を行くのではなく、その西側山腹を巻くように道が続いていました。
上峠から先も快適だった・・・が!こんな所も!!

山腹をトラバースしながらゆるやかに登って行きます。途中に大きな炭焼き窯跡もありました。 う〜ん、楽ちん楽ちんと喜んでいましたが、徐々に道悪になってきます。 道が崩れて足を乗せるべき路面がありません。生い茂る笹がそれを隠してしまってますので 気を付けないと谷方向へ滑り落ちそうになります。

ちょっと樹木の隙間のポイントがあった。天ヶ峰から南に延びている町境界の稜線が正面に見えるがよさげだ。 山頂から北に行けそうでなければあの稜線を南に下る計画です。その稜線向こうに 三岳山が見えたのでとりあえず写真に写す。見る角度を変えると福知山の姫髪山、 その向こうに親不知やら五台山、なんと岩屋山にカヤマチまで見えています。

道悪がひどくなってきました。 山側の笹を掴みながら滑り落ちないように前進!!すると今度は倒木が!! これもなんとかクリアーしました。 ズリズリと不安定な足元を気にしながら前進していくと 予想通り565mピーク先の尾根にドンピシャで合流。11時ジャスト。

周囲をなにげなく見渡していると、ここにも古い標識があった。 一枚には『橋谷→』とある。確かにその方向には私の車を止めてある 橋谷の集落です。って、ことは橋谷からの登り道もあるってことでしょうか。 もう一枚は『河西村有林』とある。周囲はほとんど自然林なのだが一箇所だけ 桧の林があるのでそこのことかな??
頂上まで400m。笹藪がひどいおっと!石仏発見や

尾根道だしー、参道だしー、本来なら楽勝のはずなのですが、なんやら熊笹が生い茂っていて かき分けながらの登りになります。「どうなってんねん。このヤブは」 母たぬきさんなんか笹に埋もれて見えませんがな。

いきなりヤブがなくなって下草のない植林になりました。ホッと一安心。すると目の前に大きな桜の木がありました。 樹齢はわかりませんが幹周りはすごいです。きっとこの桜の木はこの先にある神域を守る門番のような存在でしょう。 こうなると周辺にはきっと他にもお宝があるはず・・・。目を凝らすとこんどは石仏じゃん!!

朽ちかけた杉板に達筆で『あごなし地蔵』とあります。たぬきさんは石仏を覗き込んで「あごあるで〜」って言ってます。 『あごなし地蔵』とはあごが無いから付いた名前ではなく、原型は隠岐に流された貴人の姿を仏の姿にしたことに 由来します。阿古那地蔵がいつしかあごなしに変化したと聞きます。 御利益はこれまたあごに関係してか歯痛に効くようで、姿形は違っていますが全国各地で目にする石仏です。 丸彫りの姿でしたが、背中の肩の部分に『安政四巳(1857)秋立之』とあります。

地図にある鳥居マークの正体は小さな祠でした。周囲より一段高い平坦地にあり、大きな杉に囲まれています。 中を覗いてみると長い年月でボロボロになっていましたが、中央にある板には墨でこう書かれています。 右に『正一位稲荷大明神』左に『妙見大菩薩』そして中央に『丸子親王』。
祠がありました三角点のある山頂です

丸子ってひょっとしてちびまるこちゃん?まさかそんなことはありません。 丸子親王とは麻呂子親王と言って聖徳太子の異母弟とされる人物です。 なぜその人がこの天ヶ峰に祀られているのでしょうか?実は彼は大江山にいるという 土蜘蛛(当時の土着の支配者を中央政権はこう呼んでいて、決して化け物ではありません)を 退治した人物なのです。

土蜘蛛たちが中央から目を付けられた理由は大江山周辺で彼らがやっていたたたら製鉄の 技術やら資源が目当てだったと言われています。

が!

この話ってどこかで聞いたことがあると思ったら、大江山の酒呑童子を退治した源頼光の お話とそっくりです。ってことは時代的に考えてまるこちゃんの方がオリジナルなんでしょうか?

山頂には11時45分着。標高632.4m、三等三角点。まばらに桧が生えており、空間はあるものの薄暗い。 地形図にある林道は西方向から頂上まであった。道幅はあるものの道の中央に木が生えている状態で とても林道の姿とは言えません。林道から登ったハイカーはあの祠は目にしても、 あごなし地蔵とか桜の大木とかは決して目にすることは出来ませんぞ。

下山予定の北方向が明るかったのでそこでお昼にします。鍋焼きうどんをコンロに掛けていると、な、な、なんと! 地震でもあったのか?はたまたまるこちゃんのお怒りか?コンロごと鍋焼きうどんが全部ひっくり返ってしまいました(>_<)
以下略・・・・・。

12時35分、町界尾根を北東方面に向かって下山開始。とりあえず激下りです。しかも粘土状の黒土なので よく滑る。小さな分岐に注意しないと明確な踏み跡すらないので変な所に降りてしまいます。 この尾根にも桜の大木が多いです。春ならピンクの花びら舞い散る中の下山が楽しめそう。

一番やっかいだったのが387ピークから東に折れる所。踏み跡どころかヤブがひどくて前すら 見えません。手前にあった孟宗竹の竹林斜面をトラバースするのがよかったかも・・・。 三人が横にならんで「右や〜」「左や〜」と言いながらズルズルと斜面を下ります。さらに激倒木が 尾根を塞いでいます。こういうときは獣の足跡をたどるのが賢明。彼らはちゃんと迂回路を造っていて 無事に尾根に復帰できました。
387手前の竹林俵峠に着きました
この先には橋谷と天座を結ぶ小さな峠があるはず。すると目の前を電線が横切っています!! 橋谷集落は大江町から孤立した山村なので、どうやら福知山市の天座からこの峠を越えて電気をもらっているようです。 その小さな切り通しの峠には13時40分。

「石仏や〜!!」期待はしてなかったのでこれにはチョイ興奮。舟形光背の地蔵菩薩ですが、 この小さな峠に似合わないほど立派なものです。 向かって右側には『天保四巳(1833)九月日 橋谷村』左には『道供養(養と言う字は実際は美と 良をくっつけた漢字でした。実際、養は美しいの下に良と書きますから それを横並びにした会意文字?なのかもしれません) 六斉念佛 天座村太山立』と峠を挟む両村の名前が刻まれています。

たぬきさん達とじっと石仏を見つめますが、まさに飽くことがない良い表情をしています。 普通ならここで天ヶ峰登山もめでたく終了ってところですが今回はまだあります。 この峠からちょっと登り返した所に大岩をお祀りしたところがあるのです。

お地蔵様の横手から登って10分で到着です。途中には天座からの道とも合流します。 そこには事前に調べた通りに大岩が鎮座しています。 橋谷側と天座側の両方に祠があって両村が仲良くお祀りしているようです。 この岩は御座岩(大亀岩)と呼ばれていて、天照大神がこの岩に降臨したという言い伝えがあります。 ふと見ると岩の上に父たぬきさんが降臨していました。 「お父さん!バチ当たるよ」と母たぬきさんも怒ってます。
大亀岩も両村がお祀りしてます峠道の入口にも石碑が
木立のあいだから大江山、パラグライダーの飛んでいる赤石ヶ岳、そして今日登った天ヶ峰が見えます。 いずれも神話やら昔話のからんだ知的好奇心をくすぐる山々です。 その中心にこの御座岩があるというのも何か啓示を感じさせます。

峠に戻り、橋谷側に降りていくとすぐに民家が見えました。 奥の谷に砂防工事がされている関係上この峠道は遮断されたようになっていますが、 舗装の道からちょっと見上げると丸っこいなまこのような白い石碑が目印になっています。 『百万遍供養塔(養は峠の石仏と同じ文字)』『道祖神』と二つの異なった碑文が彫られています。 そして『文化七(1810)以下不明・・・』

さらに道祖神の文字の横には『右ハ むらみち 左ハ かうもり(河守)』 百万遍供養塔の方は『右ハ たじま 左ハ やまみち』とある。 てことは、きっと四つ辻に立っていたのでしょうから、ひょっとしたらここではなかったのかも しれませんね。

ちょっと下った所に入母屋造りの民家があったので訊ねてみる。80才を越えるおじいさんがいて 峠の話を伺う。お年にもかかわらずしっかりした口調で話をしてくれます。 これぐらいの年齢の人でないと昔のことを聞いても知らないことがほとんどです。 この俵峠という名前もおじいさんから教えてもらったのだが、峠の急坂を滑らないように 俵を敷いたことからこの名前が付いたらしい。

「この家は峠に一番近い家だったから、家の前にお茶を用意して旅人に振る舞ったんや」 もちろんそれはおじいさんのおばあさんの頃(安政の頃とか)のお話です。 峠は小さかったが鳥取街道と呼ばれ、鳥取やら出石のお殿様が京都へ赴くときには ここを通過したらしい。

駐車ポイントには14時40分着。ここで終わりではありません。たぬき号を回収するために再度 小原田へ向かいます。到着して帰りの準備をしていると、どこからかお兄さんが現れて天ヶ峰のことを 教えてくれました。下峠やら上峠の名前もこの人から聞いた名前です。さらに我々が歩いた山道も 15年ほど前に造った道らしい。「緩い傾斜だったので路面さえよければMTBも乗れ乗れやなあ」と言うと、 なんとこのお兄さんは昔MTBで走ったらしい。

さらに、山頂直下にあった祠は昔は違う所にあったという話もあるらしく、場所は地図に示した『い』の 付近らしい。始めに聞いていれば間違いなく探索していたのに〜。 年に一度天ヶ峰の周囲の村々からそれぞれのルートで村人が集まったらしい。そしてお酒を飲んだり、 相撲を取ったりして過ごしたという。

今回の天ヶ峰の地図は こちら(約190k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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