万灯山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『市島』を参照していただくようお願いいたします。

2005. 7.16.  土曜日  曇り  気温蒸し暑い
2001年に京都府三和町にある千草山に 登りました。千草山への尾根は巡礼尾という観音霊場への道ということがわかっていました。 そこで、そこにあるであろうと思われる石仏の探索をするついでにMTBで走ってしまえと欲張った山行きでした。 結果は上々でしたが最終のピークである万灯山の手前で 下山してしまいました。その後調べてみたら、なんと万灯山の頂上付近は珪石の採掘場跡があるらしい。 地形図を見ると確かに頂上付近には崖記号がありますし、これは是非とも見に行かねばなりません。

なにせ暑いこの時期ですから単独で行こうかと思っていましたら母たぬきさんが同行してくれるという。 車が二台の方が楽ちんなのでお願いすることに。地形図を見て登り口を考えてみる。 地点からか、地点からが登れそうだが、ここはの神社から登ってみたい。 たぬき号を草山にある道路沿いにスペースに停めて、やまあそ号を神社の前に停める。

はたして神社から登れるのか?さっそく近所で聞き取りをしてみる。私とたぬきさんで別々のお宅を訪問。 すると、十数年前に地点からの尾根道を整備したことがあり、しばらくはそれを利用して山に登っていた ことがあるらしい。そして神社からも登る道があるという。どちらも予想通りでなかなか勘が冴えてます。 道ばたに停めるつもりでしたが聞き取りしたお宅の空き地を拝借できました。8時40分スタート。 小雨が降ってます。(>_<)

階段を上り詰めると、広くはないが砂利の敷き詰められた境内がある。こぢんまりとしたお社には『三柱神社』と 額がかかっている。祭神は『奥津比古神・奥津比賣神・火産霊神』となっています。つまりこの 三柱神社は三宝荒神、秋葉神社、愛宕神社などと同じと考えて良いでしょう。 万灯山の山名もひょっとしてこれが由来かもしれません。山頂にも祠があるといいな〜♪
薬師堂です木々の隙間を縫って急斜面を登る

右下へちょっと下ると民家で聞き取りをした『薬師堂』があります。それの右から登っていくのが 正解らしい。お堂の横手には板碑型の小さな石仏がたくさん並べられています。 取り立てて言うこともない小さなお堂でしたが、立派な案内板がありました。それには・・・

薬永山薬師寺古跡の由来
四季折々自然美豊な万灯山の山裾に包まれた薬師堂は、「湯ノ谷薬師」と呼ばれ古薬師寺(寺尾寺)の 本尊を祀る。万病特に耳目の病にご利益があり古今祈願が絶えない。
言い伝えによると昔この谷に湯が湧き弘法大師が丹波遍歴の際この地を踏まれたという。
またこの一帯は南北朝〜室町時代に「講」組織によって墓塔石仏が造成回向され病災祈願等生活の 拠点として栄えた。
しかし戦国争乱の中に廃潰され薬師堂・墓塔群のみが遺り往時を偲ばせている。
平成7年春 三和町郷土史会

看板にある温泉は枯れてしまったんでしょうかね? 看板の左手の方がよさげな道でしたが、聞き取り通りに右奥の植林へ潜り込んでいくと U字に凹んだ道が斜面を登っています。登るに連れて徐々に道は良くなってきます。 すると、山腹に平行に走る道と出会う。右に行くと山頂からは遠ざかるが尾根には簡単に乗れそうな予感。 それに逆らって左を選択する『やまたぬ隊』。(^_^;)

倒木の行き止まりになり、そこから斜面をよじ登ると再度平行道に出会う。その平行道を無視して 直進して登っていくと聞き取りで聞いた共同受信施設のある稜線に出ると思う。 我々は平行道を左に行きここぞと思う所からよじ登り始める。踏み跡はないが 木々を縫うように登れるし、稜線も間近に感じられるので辛くはない。
珪石の赤い崖を覗き込む先に進むとさらに高度差が!

稜線には9時17分。いきなり足元には崖があった。崖の表面は赤い色をしています。 これが珪石の採掘跡なのでしょう。麓から掘り進んで稜線までやってきたのか、 あるいは珪石の鉱脈がこの付近にあったのでこの付近だけの露天掘りか、上から見下ろす限りでは判断が出来ません。 昔はただただ赤土の崖だったのでしょうが、今ではいろんな雑木が斜面に生えていて底すら 見えない状況です。

崖の向こうには国道9号線と土師川が見えるはずだがガスに覆われてはっきりとは見えなかった。 たぬきさんと一応に「すごいねえ〜」を連発する。あまり崖の先端まで行くと危険です。 雪庇のように地面がせり出しているので、その上にいると地面毎崖下に崩れ落ちる危険があります。 「たぬきさんの立っている地面、下になんにもないで〜」離れた所から見ると危険なのが よくわかります。
なぜか石垣がある万灯山頂上

頂上に向かって稜線上を歩いていきます。右手は大規模な崖が連続していますが、 左手にも小規模ながら珪石を掘った跡が残っています。 何に使ったのかわからない石組みの跡やら、鉱脈を探るような試掘跡などもあり 右に左にとうろうろしてなかなか山頂には到達しません。

『品川植林地昭和三十四』という石柱の立っている頂上には9時55分着。 標高は330m-と言ったところ。三角点はここより70mほど離れた所にある。 南は雑木、北は杉の植林になっているが昭和34年に植えられた杉は刈られていて ここにあるのはその後に植えられてものと思える。その杉がなければ頂上は ちょっとしたフラットな広場と言った感じ。祠の跡はないがそれらが あってもおかしくない雰囲気でした。

四等三角点(標高320.6m)にも立ち寄ってみるが、やはりここは頂上とは言えないところでした。 ここで下山するにはあまりに簡単すぎるので、ここから千草山へ行ってみる。 三和町と福知山市の境界をたどれば良いのですが、 下降点がわからずにちょっと苦労して境界尾根に乗る。 ところがこれが倒木だらけの蜘蛛の巣だらけ!!

寺尾山田へ降りる峠(10時50分)まではそれが連続するので写真も撮る気がしない。 峠を過ぎると急に尾根道は良くなる。 しかし、こんどはお腹が減ってしまい足がもつれ始める。途中の休憩でゼリーを食べて復活。 でも、全身汗みどろで着替えのシャツを持ってこなかったのを悔やむ。
大内峠の石仏を拝むこの出合いからいよいよ巡礼尾となる

大内峠には11時45分着。ずいぶんと時間が掛かってしまったがここまでくれば安心。 とりあえず峠にある弘法大師の石仏にご挨拶して後半の安全をお頼みする。

ゆるやかに登りきった所が三叉路になっています。正面は千草山への稜線。右に下っている道が 大内へ向かう道です。この大内から千草山へ向かっている道が『巡礼尾』と呼ばれている道です。 前回はMTBで走り抜けてしまったので、今回は石仏を見落とさないように 慎重に歩いていきましょう。

道は巡礼者が楽なように尾根にあるピークを巻くように付いています。たぬきさんも「地形図に 載ってないのが不思議なぐらいええ道やね」と驚いています。 途中に石組みの台座跡のような所が一箇所あり!!きっと石仏があったに違いありません。 この先、食事に適したところがないので仕方なく道ばたに座り込んでお昼にします。
千草山手前にある石仏下山路を間違ってしまった

巻き道で進むために三角点ピークを通り過ぎてしまいました。 333.2mの三等三角点が千草山と思っていましたが、明確なピークではないし、 里から見るとその先にある360m+のピークがそれのように思えます。 そのピークの手前に石仏はありました。前回発見した地蔵菩薩の石仏です。 ところが、その石仏、前回見たときと向きが逆になっています。

尾根道は360m+のピークへまっすぐに登っていますが、巡礼尾と思われる道は このピークの南を巻いています。石仏はちょうどその二本の道の間にあるのです。 前回は巡礼尾に向かって立っていましたが、今回は逆に尾根道が正面になるように立っています。 きっと誰かが動かしたのでしょう。この石仏は指さしの姿をしており、右手で向かって 左を指さし『さいこくみち』と彫られてために向きは重要なのです。

ピークにはなにもないことがわかっているので、今回はその巻き道をたどってみます。 昔は明確な道だったのでしょうが、今では道の真ん中に木が生えていたりして歩きにくくなっています。 この斜面にも珪石を掘った跡がありました。この辺りで急に道が不明瞭になってくる。 巡礼尾なのか、珪石を運び出した道なのか、あるいは獣道なのか・・・。 気が付くと大きく下ってしまい、尾根から外れてしまっています。

尾根から行者堂を経て谷に降りるつもりでしたが、こうなったら谷まで直行です。 ズリズリと滑り落ちそうな植林の斜面でしたが、二人ともこういうのには慣れているので 難なくクリアーしてちょうど林道の終点付近に降り立ちました。13時20分。
林道にも石仏があった小路の廃屋

またまた汗でパンツまでびっしょりです。谷川の冷たい水で顔や腕を洗ってさっぱり。 熱を持った頭がスキッとしたおかげか?林道を少し歩いたところで石仏を発見!! 見ると、巡礼尾にあったのと同じ指さしの地蔵菩薩です。 やはり巡礼尾はここまで続いていたことがこれで判明しました。

光背には『観音講中』という文字が彫られていて、千草山のそれと違って左手が指さしになっています。 横手に道標と思われる石板が置かれていますが、文字がもう消えかけています。 よく見ると『右 大内村 左 ○○○・・』う〜ん、わかりません。

この谷には小路と言う集落があったのですが、現在では廃村となっています。 廃屋を見ながら林道を下って行き草山の府道沿いに止めていたたぬき号には14時着。 最後にミスコースしてしまいましたが、万灯山にも登れたし、巡礼尾の全容もほぼ掴めました。 万灯山の珪石は明治以降に脚光を浴びたようです。というのも、珪石は耐火レンガなどの原料となり、 日本の工業化には欠かせないもので戦時中が採掘も一番盛んだったようです。

さらに巡礼尾について考えてみました。西国三十三箇所の書写、法華、清水と播州の札所をお参りした 巡礼者は瓶割峠 (瓶割峠も西国霊場の巡礼路でした)を越えて由良川沿いに成相山に行くのが一番合理的です。 山中にあって体力的にもたいへん、しかも遠回りになる草山−大内を結ぶ巡礼尾をわざわざ行くのはなぜか? 巡礼者にありがちな若干の苦行を伴うことによる気分的高揚感を高めるためだったのではないでしょうか。

たぬきさんおお知り合いがこの近所にお住まいなので帰る途中におじゃましました。 その人も山の好きな方で山の写真などを見せて頂きながらの四方山話でした。 その中で今回の千草山の山名を言いますと、草山集落は昔は千草山と言っていたそうで、 その千の文字が無くなって、現在の草山となったということです。 なんとも面白い話での締めくくりとなりました。

今回の万灯山の地図は こちら(約200k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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