佐用行者山

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『土万』を参照していただくようお願いいたします。

2003. 9. 7.  日曜日  晴れ  気温暑い
MTB登山で有名な大柿さんのHPを参考にしてこの山に登ることにしました。いつもなら どんなルートで登るのかがメインテーマになりますが、今回はルートの途中にあるという 秋葉権現の石仏を見るのが一番の楽しみになっています。

佐用から国道373を北上すると正面に見える山の頂上は真っ平らで石垣も見えている。 あれが有名な平福の利神城趾かぁ。平福には何度か訪れたことがありますが、利神城趾には まだ登ったことがありません。地元の人から「利神城趾の標高は国道と同じ373mなんや」と 教えてもらう。その平福から右折して南光町上三河へ抜ける県道へ向かう。すると今度は目的の佐用行者山と その手前にある378mピークが前後に並んで見えている。
平福の町並みから見る行者山

どこに車を止めようかと庵川沿いの県道を走らせていると小和田を過ぎたところで 『行者山→』という大きな道しるべが目に飛び込んでくる。「なんや、正規の登山道(参道)が あったんや」と、これを利用することに決定。車の止めるスペースがなかったので少し引き返すと 小和田の南端の県道沿いに『心了法師・・・』と彫られた石碑のある。ここは手頃なスペースで しかも木陰になっているのでちょうど良い。

車から歩いて10分ほどで先ほどの道標の所へ戻る。9時10分。念のため地元の人に聞いてみたら案外この 参道はわかりにくいらしい。まず、電柵を超えて小さな橋を渡る。正面の谷に向かってほどよい 道があるのだがそれではないらしい。聞いていなければ間違いなく正面の谷に行っていただろう。 橋を渡ってすぐに右手の電柵をくぐって、畑跡を横断するように行くと川に落ちそうな踏み跡になる。 その辺から左手の斜面を登っていくのが正解らしい。

教えられたとおりに畑跡(背丈以上の雑草をかき分けて)を横断して、川に落ちそうな踏み跡から 左手の斜面を登っていく。目印もなにもないので部外者には絶対わからない参道の取り付きである。 植林された小さな谷の中に踏み跡はあった。私はそこから一直線に 谷の斜面を駆け上ってしまったが、ほんとは途中から左の支尾根の方に行く正規のルートがあったようだ。 結果それと合流して少し登ると本尾根に着いた。9時45分。
雑木の茂る本尾根はよい道がある最初の岩窟には不動明王の石仏

さすがにこの尾根から行者山方向には良い道がついている。反対方向の378P方向にはうっすらとした 踏み跡程度しかなかった。とりあえず行者山へ登っていく。すると大きな岩の根元に大師石仏があった。 舟形後背の小さな石仏であったが、いよいよ行者山の核心に近づきつつあるという思いが強くなる。

そして尾根正面に大きな岩場が立ちはだかる。地形図には全く記載されていない。その岩場を右に 回り込むと最初の岩窟がある。奥行きはほとんど無いが岩の割れ目の中には不動明王の石仏が祀られてあった。 しばらく写真を撮ったりしてゆっくりする。

この岩場をよじ登ることができれば頂上まで一直線だがどうも現実的なルートではない。 尾根に戻ってみると左手に道がある。 これで登れるんじゃないかな?それを期待して行くとそこには第二の岩窟があった。
二つ目の岩窟。奥には石仏入り口にある宝篋印塔には
阿弥陀如来が彫られている

先ほどのものより規模が大きい。しかも入り口付近には宝篋印塔もある。宝篋印塔の 相輪部分は欠落していたが、岩窟の中に転がっていた。塔身部分に種子(梵字)が 彫られているのをよく見かけるが、これは正面に弥陀定印を結んだ阿弥陀如来座像が、 残り三面には碑文が彫られている。

ここもさほど深い穴ではないが、中には二体の石仏があった。白い金属の祠に収められているのは 役行者。その横にあるのが蔵王権現だった。これらの石仏群からわかることは やはり行者山は修験道の行場だったということだ。

佐用の平福は宮本武蔵が最初の決闘(有馬喜兵衛)を行った場所として有名だが、武蔵がこの行者山で 修行したと言うことは案外知られていない。この岩窟ならば雨露をしのいで寝泊まりも可能だろう。 ただし最初の決闘の時、武蔵は13歳だっというから修行と言っても単に子どもが山を駆けめぐって 遊んでいたというのが実際ではないのかな・・・・。

ここから道はばったりと無くなっている。戻って岩場をよじ登ろうかと思ったが、うっすらと踏み跡が ある。それがまったく危なっかしくてまさしく片足の幅だけの踏み跡である。山腹を巻いていて 頂上には登っていない。頂上はすぐ上だと思うのだが岩壁が続いているのでこのまま平行に 進むほか無い。すると行者山の東にある460Pへの尾根にたどり着いた。 そこには『七』と書かれたコンクリート杭がある。そこからさらに鹿よけネットに沿って南の尾根に出て、 そこでようやく立派な参道に合流する。 そこには木の鳥居があり少し登ると石段の上に小振りだが立派な祠があった。10時20分。 三角点無し、標高Ca.460m。
行者山頂上の祠南方向を見る

写真ではわからないが祠の左手はフラットに整地されていてゴミ一つ落ちていない。周囲は黒松が バリケードのように生えているが、身を乗り出すと展望は一気に広がる。 地形図には載っていないが西方向は先ほどの岩場となっている。そこからは大撫山や利神城趾とかが 見える。松の枝に大柿さんのプレートがぶら下がっていた。『・・・378Pを経て庵に降りる予定。 岩場をうまく下れるか心配です』とある。大柿さんはこの岩盤の尾根をダイレクトに下ったようです!!
北方向は広角に展望が広がっている
北方向はなじみの山々がそびえている。東には山頂の電波塔跡でそれとわかる黒尾山。 日名倉山は特に大きくすぐ近くにあると思わせるほどはっきりとしている。その真後ろには この行者山と同じ修験の山の後山。西方向は岡山の山だが那岐山だけはしっかりとわかった。

登っているときはさすがに暑かったがここは木陰にもあるし涼しい風も吹き抜けている。 とうてい早すぎるのだがこれ以上居心地の良い場所もないだろうとお昼を食べ始める。 無線もしたり、オカリナも吹いたりで気ままな単独の山行きを満喫できた。

なぜ小和田からの参道は岩窟で終点になっていたのか?私がたどったのは獣道以下の少々危険な 踏み跡だった。そんな道でしか頂上へ登る道はないのか?ひょっとしたらほかにも道があるのでは ないかと周辺を探ってみるがやはりそれらしいものはなかった。 頂上の祠から白木の鳥居を経て真南に続いているきれいな参道は田坪からあることを 下山後そちらへ回って確認した。

どうやら山頂の祠は田坪が、山頂の直下にある二つの岩窟は小和田が管理しているということであった。 そのため小和田からのルートは岩窟で終点になっていて、山頂の祠まで道がなかったというわけである。 しかたなく帰路は同じ危ないルートで岩窟まで戻る。途中、行者山の東にあるほぼ同じ標高の460Pに寄って 見ようと思ったがこれまたヤブっぽくてUターンする。

右に下っていく参道の分岐までやってきた。ここから道は薄い踏み跡程度になる。12時05分。 軽くアップダウンを繰り返すと10分ちょっとで目的の378Pに到着する。 こちらから見ると後ろ向きになるが、目的の石仏に出会うことができた。 崩れた石組みに支えられるようにしてそれは立っていた。
秋葉(飯縄)権現の石仏はめずらしい

火炎後背と右手に剣、左手に索。これだけだと不動明王とまったく同じだが、その 姿はなんと天狗そのものであった。さらにそれは白狐の上に立っている。 これは秋葉権現(あるいは飯縄権現)と言われる火伏せの仏様である。

信濃生まれの三尺坊という人が修行ののち阿闍梨となり、さらに不動三昧の法を修し 秋葉権現になったという。本を見ると秋葉権現はくちばしの尖ったカラス天狗(天龍八部衆の迦楼羅) がその姿だが、ここでは普通の天狗像である。 狐の上に乗っているいるのは狐火の張本人を押さえ込んでいるという意味だと聞く。 これが設置されたということは、昔このピークが山火事にでもあったのだろうか。 あるいは中世以降は修験者=天狗というふうにとらえられていたから、この行者山への 門番としているのかもしれない。

ここからの下り道の途中にも大師像の石仏があった。最後まで道は悪く、降りたった畑地から 登るとしても踏み跡を探すのは困難でしょう。ただ、二体も石仏が あることからこの尾根も行者山への参道であったのでしょう。12時50分車に着。

今回の行者山の地図は こちら(約135k) でごらんください。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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