内尾神社由来

2015. 7.12.  日曜日  

加美町から丹波市へ抜ける清水坂トンネルが出来て久しいがまだ一度も利用したことがなかった。 6月の末たまたま近くに来たので加美町側から初めて通行したときのこと。 「ずいぶんと便利になったなあ・・・」と、思うまもなく現れたのがこの内尾神社。 道路の反対側はゴルフ場だが、ここだけ時間が止まったような静かな森がある。 トンネルが出来るまではここは道路のなくなる地点だったわけで、こんな場所にあるにしてはずいぶんと大きな神社で驚く。
内尾神社鳥居前

せっかくなので境内を散策してみる。両側にある杉、檜の大木はこの神社の古さを 表している。砕石の敷き詰められた参道の奥、石段を登り詰めた先には本殿が見えている。 手水場で清めて石段を登る。
絵馬堂があるさて、これはなんでしょう?

石段を登ると正面の本殿よりも右手にある絵馬堂のほうに目が行ってしまう。 二つの杉玉がぶら下がっていて、お堂の奥には多くの絵馬がある。ほとんどが消えかけているが どうやら雨乞いが多いようだ。それらの絵馬よりもおもしろいのが二つの不思議なもの。

一つは『嘉永元申(1848)初穂吉旦・・・・』もう一つは『天保三(1832)年 辰六月吉日・・・』と 銘がある。それはどうみても竹の根元から5〜60センチほどを切ったもの。 普通と違うのはどちらも根元から二股にわかれているというものだった。

これは双生竹と呼ばれ、存在が非常に希で縁起の良いものとされ、琵琶湖に浮か竹生島では寺の宝物としてある ぐらいのものなのです。これを竹林で見つけた村民が奉納したのでしょうが200年近くたった今も こうやって飾られているのです。

拝殿前に記名帳とおみくじなどがある

拝殿には記名帳、おみくじなどがある。そして白黒のコピーが置いてあった。なにげにそれを手に取ってみると それは神社の由緒などが書かれたもので、 祭神が『鵜草葺不合命(コピーとはちょっと字が違う)』とあった。『うがやふきあえずのみこと』と言うのだが、 この神様のことを知っている人はどれほどいるだろうか?

この神様のおかあさん、おとうさん、さらに奥さんの話がすごくおもしろいのだが 書き始めるととても長くなってしまうので省略。古事記、神話に詳しい人なら 「ああ、あの話ね」という具合にわかってもらえるのだが・・・。まあ、簡単に言うと神武天皇のお父さんになる 神様です。

白矢印の下ぐらいに内尾神社がある

そのコピーの中の文章で驚いたのはこの神社が法道仙人に関係があるということだった。 それによると大宝二(702)年に丹治大登峯に山伏の宿堂が建てられ社頭に春日大明神、地蔵権現、八幡宮、天神、 弁財天を勧請して法道仙人が千日の行法をつとめられたのが内尾神社の起源であると。

法道仙人が何十という寺の開基に関わったことは知っているが神社にも関わっていたのは初耳だ。 実はこのレポートを書こうと思ったのは次の訪問地でさらなる驚きがあったからです。 それは去年登った弘浪山 にあった高山寺(昭和33年に里に下ろされた)のことが気になっており、今日はそこに訪れるための ドライブでした。

弘浪山にあった仁王門の礎石その仁王門がこれです

その高山寺(現在は氷上町常楽にある)に到着。朱塗りで立派な仁王門がある。たぬきさんから聞いた話では弘浪山にあった 仁王門をバラしてあの山道から持って降りて再度組み立て直したのがこの仁王門だそうだ。 なんともすごい話だ。

それ以上に驚いたのが高山寺を説明する看板だった。それの最後に書かれていたのは先ほど観た 内尾神社のことで『法道仙人開基を伝える葛野庄十八ヶ村の総社。神仏分離まで高山寺は別当職であった』と。 高山寺自身も法道仙人が開基であるし、ある時期までは高山寺の敷地内に内尾神社があったようだ。

法道仙人フリークとしてはもっと詳細が知りたい。すると『内尾神社御頭帳』という史料があって、そこに 『当庄一宮丹治大明神ト申事者、二一原之奥丹治之山太登峯ニ山伏之宿堂被立候・・・』から始まる一文があった。 だいたいの意味はわかるのだが神社の起源に関する部分だけ綾部の久後さんに完璧な現代語訳をしてもらえることになった。


『当地の一宮、丹治大明神と申す社は三原の奥、丹治の山の太登峯の山伏の宿坊として建てられたものでございます。 併せて春日大明神、地蔵菩薩、権現様、八幡宮、天神様、弁財天等も勧請してお祀りしてあります。 また法道仙人が千日行法をなさった所でもあります。

その後天平宝字五(761)年の半ば、丑年に高山寺が本堂を開き、 その僧坊も六舎建てられた所です。その当時は寺も里もともに富貴、栄華を極め繁盛していたということです。 高山寺があった三百余年の後、ここは城郭となり、度々の戦乱により仁平三年には一円が焼失し、暫くの間廃墟となっていた所に 、関東右大将頼朝卿の勅願により修乗上人が建立されたのが文治元年のことである。

同年に寺の領地寄贈の御くだし文があり、 寺院が富貴になった時、丹治大明神が内尾に飛んで来られた。暫くの後、朝廷からこの神を正一位内尾三社大明神とする院宣が下った。 その時代には神事祭礼も正しく執り行われ、公方の祈祷所ともなっていたので、また神社の領地として田畑、栗林御寄進の下文があった。 それが正応三年庚寅の年である。 神は人に敬われる事によって威厳を増し、人は神に守られる事によって威勢を増す。』

現代語訳は完璧ですが、元の文章自体がちょっと舌足らずな所があるので補足しますと、 法道仙人は最初丹治にある太登峯で千日行法をしていた。その後、高浪山で天平宝字五年に十一面観音を感得し ここに高山寺を建立する。その際に丹治大明神も高山寺の鎮守として高浪山に存在していたが戦乱により 寺門は荒廃してしまう。

その後、源頼朝の命により重源上人がこの地を訪れ 中興される(高山寺の看板では文治五年、ここでは文治元年となっている)。『内尾神社御頭帳』では修乗上人となっているがこれは同一人物です。 上人は東大寺の再興で有名だし、播州では小野の浄土寺を建てたことでも知られています。

そのときに頼朝によって内尾の土地をもらったのですが、なんとこの丹治大明神は 弘浪山よりもこっちの方が良いんじゃないとばかりに自ら内尾へ飛んでいったと書かれています。 それが現在の神社となったわけです。すごい霊験!!

丹治集落を行く

これで内尾神社ならびに高山寺のこともわかったわけですが、まだ謎は残っています。 それは丹治の太登峯とはどこのことでしょう?丹波志では大栂ヶ峯となっているようですが 丹治では大登ヶ峯(おおのぼりがみね)となっていてどうやら現在の篠ヶ峰のことのようでした。
日光寺の文殊堂。丸いのは知恵の輪文殊菩薩。獅子の頭が欠落しています

法道仙人は大登ヶ峯で文殊菩薩と丹治大明神を祀っていて、丹治大明神はその後内尾へと行き、 文殊菩薩も山を下りてこの地で祀られることとなった。

それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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