はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『浅利』を参照していただくようお願いいたします。 2010. 8.28. 土曜日 晴れ 気温激暑い
『伊能忠敬日本測量210周年記念 完全復元伊能図 全国巡回フロア展 in 加古川』 ずいぶんと長ったらしい名称で、210年という中途半端な記念もおかしいと思いつつも、いつも地図にお世話になっているハイカーの一人として 無関心であろうはずがありません。幸いなことに?自宅のすぐ近所である兵庫大学でこれが 催されるという。
パンフレットをよく見ると、大図(36000分の1の縮尺)での伊能図のすべてである214枚が
集められ(もちろん複製だが)、フロアーに並べられたその上を自由に歩くことができるという。
これはその辺の陳腐なお寺の秘仏のご開帳よりもよほど価値がある。
それと同時に『伊能忠敬−子午線の夢−』という2001年に作られた映画の放映もあるらしい。 ちょうどその10分前だったので整理券をもらって見ることに・・・。 もちろんフィクション部分もあるだろうが、実際の測量方法とか、 江戸幕府と伊能との関係とか、周辺の人間関係など・・・・予想以上におもしろかった。
以外だったのは伊能忠敬が初めから日本地図の製作に意欲があったのではなく
(映画だけで判断すると、ほとんど興味もなかったような・・・)、
緯度(子午線)1度の距離を測ることによって、地球の大きさを確定したいという大きな夢を持っていたと
いうことだ。
それがしたいがために幕府から依頼された地図の作製を行ったという経緯があった。
それにしても、あの時代の日本にそんなことを考えている人(ちなみに伊能は商人)がいたというのが驚きだ。
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体育館の内部 |
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さて、体育館の内部はこんな感じだ。中二階の通路からも見下ろすことができる。 素足、ストッキングはだめで、必ず靴下を履いてくださいと言われているにもかかわらず そうでない人が多数いた(特に中高年のおばちゃん連中)。 映画でもわかるが、伊能忠敬が歩いたのは日本列島の形を測量するのが目的だったために 地図に表されている町や村は沿岸と街道筋がほとんどである。 内陸部などは真っ白な箇所が多い。特に北海道などはドーナツのように縁だけになっている。
地図の一角が黒山の人だかりになっている。それはちょうど播州付近の地図の上。
当然と言えば当然で、自分の所在地が200年前はどうだったか知りたくて来ている人が
ほとんどのはず。かくいう私も出身地である島根県江津市黒松町を探します。
さすがに島根県には誰もいなくて、かろうじて疲れたおじさんが宍道湖の上にあぐらをかいて
座っているのみ。
黒松村は沿岸にある山陰街道の村ですから必ず載っているはずと目をこらします。 現在は江津市ですが、昔は那賀郡黒松村でした。 村の位置はすぐにわかりました。そして馴染みのある島の名前も確認できましたが、 ちょっと違和感があります。そこで現在の地図と比べてみることに。 |
現在の黒松町。上が北になります |
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まず、現在の地図で『大島』とありますが、大きな方を男島、小さい方を女島と今でも言うそうなので 古地図と合致します。 現在の地図の右上に『秀具利』は古地図でも『ヒテクリ』とあって合致。 ところが地元では『オシテグリ』と呼ばれています。たぶん秀具利の前に御が付けられて、『オンヒデグリ』が『オシテグリ』 へと変化していったのでしょう。ちなみに『グリ』とは岩礁のこと。 古地図にあるヒテクリの横の『エヒスシマ(恵比寿島か?)』は不明。 そして、一番驚いたのは二つの地図の中央部分にある『平島』だ。 古地図では普通に島だが、現在は本土とつながって半島状態になっている。 200年の地形変化を目の当たりにできた瞬間です。 最後に黒松の我が家は赤い矢印です。(^_^;) |