陰陽師と法道仙人の足跡を巡るツアー

2011年 3月20日

なんのきっかけだったか覚えていないのだが、陰陽師の足跡を巡るツアーをしようという話になった。 これまた覚えていないのだが、私がそのコース設定を任されることになった。 そこで、陰陽師だけではおもしろくないので法道仙人も巻き込んで何がなんだかわからないツアーにしてしまおうと考える。 そういってしまうとむちゃくちゃなように思われるが、 実は陰陽師と法道仙人とは関係ないようで関係があったりするのだ。

一般の人にはまったく興味のない事柄なので、参加者は私と作畑ガール、YSさん。 直前になって自転車繋がりの泥本さんの4人だけとなる。コースのほとんどが自動車を横付けできる ポイントなのだが、周遍寺だけがプチハイキングに設定しているために そこを最初に訪れる。というのも昼から雨の予報なのです。

周遍寺本堂経尾山(経の尾)山頂

周遍寺は法道仙人が白雉二(651)年に開基したお寺ですが、同時期に開基された 一乗寺の今日の隆盛とは違い、このお寺は残念なことに今は廃寺となっています。 どなたかがお世話されているのか、庫裏以外はさほど荒れた感じもありません。 願わくばそういう人にお願いして本尊である如意輪観音を拝んでみたいものです。 (横にある開山堂の中も見てみたいな)

もともとは法道仙人がここの裏山の頂に石に写したお経を納め(地中に埋めた?)堂宇を建立したことが始めという。 そこを見てもらうためにまずは経尾山に登らねばなりません。 八十八カ所巡礼路の最奥からしばらく進むと分岐があり右を選んで5分も登れば 三等三角点のある山頂になる。そこには誰かが経の石を探すべく地面を掘った跡もあるのだった。 (ほんとかどうかは自ら見て判断してくだされ)

毘沙門洞窟へ向かう尾根は快適な遊歩道状態

さきほどの分岐に戻る。分岐には『経尾山 毘沙門洞窟』と書かれた標識がある。 第二ポイントはこの毘沙門洞窟である。その標識に従って進むと、最初はシダのちょっとしたヤブだが 足元の道はしっかりしている。加古川市と加西市の境界尾根に出ると、そこからは 快適な遊歩道状態となる。分岐標識から20分ほどで毘沙門洞窟となる。
白い矢印の道で到着

上の写真で三人は洞窟を向いているが、その背中はもうゴルフ場の敷地である。 こんなところにぽっかりと洞窟がある。正確には岩の裂け目と言った方が良いだろう。 中には数体の石仏があるのだが、メインはなんといっても この毘沙門天だ。岩棚と天井の間に挟み込まれたようにある。
毘沙門天と二体の脇侍

毘沙門天を主尊とする三尊形式。残念なことに真ん中で大きく割れている。 毘沙門はかろうじて右手に宝棒、左手に宝塔と思われる持物が確認できる。 脇侍は私にはわからなかったが妻の吉祥天と子供の善膩童子ということらしい。

洞窟の入り口には記念碑(昭和11年)が倒れた状態である。それは表を上にしているので文字は読みとれる。 全文はとても無理だがかいつまんで読んでみると、この洞窟は 法道仙人が周遍寺から一乗寺へ向かう際の休憩所ということだ。

さて、今から700年ほど前の元亨二年(1322)に虎關師錬によって書かれた『元亨釋書』という書物には こういう記述がある。
法道仙人は天竺の人なり、・・・・・されはある時、紫雲に乗り仙苑を出て支那を経わたり百済を過ぎて吾日域に入り 播州印南郡法華山に下りけり・・・・つまり大陸から法道仙人が一乗寺に降り立ったと書かれています。さらに 一日多聞天王雲に駕し来たり法道に語りて曰く大仙久しく此に棲り我まさに正法を擁護し邦国を鎮撫すべし又 牛頭天~形を西の峰に現じて曰く、我願わくば災いを除く役に任ぜんと・・・・・ ある日多聞天(毘沙門天)が「法道さん、どうぞ末永くここに居てください。私は仏法を守り、この国の混乱を鎮めます」 さらに牛頭天王が一乗寺の西の峰に現れて「私に災いを除く役をお任せ下さい」と。

法道仙人の足跡を地図で見るとほぼ直線となる。私はこれを『法道仙人ライン』と呼ぶ・・・(^_^;)

この700年前の『元亨釋書』の記述がまったくの絵空事かと言うと案外そうでもないことがわかる。 地図で見ると一乗寺の西にある王神峯の頂上にはまさしく牛頭天王が祀られているし、 一乗寺の東にあるこの洞窟には毘沙門天がいるのだった。つまり古の人たちがこの『元亨釋書』の記述をもとに 書かれているのと同じ世界を創りあげていったということに他ならない。

毘沙門天は四天王の一人として知られているが、牛頭天王のは何者ぞ? ここで説明すると長くなるのでWikipediaででも調べてください。へへへ・・(^_^;)
超簡単に言うと、姫路にある広峰神社の祭神がこの牛頭天王で、吉備真備が大陸から陰陽道とともに 持ち帰ったと言われ、その後、陰陽師とともに全国に広まっていくのです。

傾いてます!!顔が崩壊してる

次はその陰陽師の痕跡を訪ねる。まずは平荘湖のほとりにある『こけ地蔵』という石仏だ。 道路から一歩奥に入り込んだ所にあるので、初めてだとちょっとわかりずらいかも。 石仏といっても普通のそれではない。それは古墳なので使われた石棺を利用した石棺仏で加古川から加西にかけて多数ある。 また、こけ地蔵のこけとはこける、つまり倒れているという意味で、まさに その通りの姿をしているのだ。

この『こけ地蔵』は播磨陰陽師の芦屋道満(あしやどうまん)に関わるもので、 こんなお話が残っている。それは道満が住んでいた屋敷の井戸から式神である火の玉が 飛び出してここまでやってくるのです。それは京都にのぼった道満を慕って 主人と修行に励んだここ升田山の麓までやってくるのですが、 この石仏にぶつかってまた井戸に帰っていくのが毎夜続いたという。

そのためか?この石仏の表面は黒く焦げています。さらに!! 以前から顔の部分とかが崩れて欠け落ちているのですが、数年前よりもひどくなっているような・・・。 ああ、これも陰陽師のなせる業か?

道満の屋敷があった正岸寺道満の碑がある

当然ながら次のポイントはその火の玉の出所である道満屋敷だ(現在は浄土真宗の正岸寺というお寺である)。 ここも初めての人にはわかりにくいかも。 お寺に入って左手に道満の碑とかお堂があるのだが、勝手に入って写真を撮るのも礼を 失する行為なので許可をいただきに・・・。そうすると堂々と写真も撮し放題です。
道満の像道満の一つ火が飛び出た井戸

見落としそうになるが、ここで一番のお宝はなんといっても一つ火が飛び出していたと言われる 井戸だ(正確には井戸の枠だけが残っている)。もともとはこの位置ではなかったそうだが、ここに移動させたということだ。 そろそろおいとましようとするとお寺の奥さんが呼び止めてくれてお茶をごちそうになる。
お寺の奥さんと道満談義

芦屋道満は歌舞伎やら、映画、小説などで悪役に設定されているが、やはりここは地元。 顕彰碑にも書かれているのだが、地元の人たちにとっては功績のあった人物だったという。 お寺の案内板にこうある『・・・その後、道満が岸に戻ってからは陰陽道と薬草を売って 一生を終えました。』この短い文章の中に道満に対する地元の気持ちが込められているように思う。

今回のメンバーは『播磨陰陽師紀行』という本で予習をしているのだが、その中に道満に関するこんな おもしろい一文があった『・・・天の助希成かな法道仙人に出逢、天文地理易歴を学び。・・・ 法道仙人之弟子那里と号法道之道之字を取。道摩法師と名附たり。・・・』 つまり、法道仙人の弟子となって『道』の一字をもらったということです。 (ちょっと強引に法道仙人と陰陽師を繋げてしまったかなあ・・・)

京都の晴明神社もそうだが、最近では佐用もこの陰陽師に関連して活発な活動をしている。 この加古川にも陰陽師に関しての逸話、遺跡などが多いのだから、うまく活用すれば もう少し地域興しの活力剤になりうると思うのだが・・・。 あっ!これは今日の結論です。

手形石はいずこ?すごい手だあ〜

所変わって、札馬神社に着。ここは山陽自動車道の工事に伴って現在地に移動されたという。 ここには法道仙人の手形石がある。私と泥本さんはその位置を知っているが、YSさんと作畑ガールは 知らないので、ニヤニヤしながら探している姿を見る。勘の良い作畑ガールが発見。 全体を撮すとわかるのだが、これも石棺なのだった。 次は法道仙人の駒の爪ですが、その前に・・・。
店内に入るとこれが目に入るぞご主人登場!

お腹がへったので昼食ですが、駒の爪の近くに駒の蹄というレストランがあります。 実はここのご主人が駒の爪のお世話をしているのです。 店内に入るとさっそく大きな看板が目に入り、ご主人の駒の爪に対する熱意が 感じられます(そもそも店名も駒の蹄ですからね)。
駒の爪はどこ?ここですがな!!

店の前に車を置かせてもらい、そのまま駒の爪へ。法道仙人が天馬に乗ってここに舞い降りたときに 出来た跡とも、また逆にここから一乗寺に飛び立った時に出来た跡とか両方の説がある。(^_^;) ここは普通に見ても蹄の跡が見えにくい。心の目で見るべし。
仙人の道を行く投げ松

ここから法道仙人の投げ松へ行きたいのだが、店のご主人のアドバイスで仙人の道を行く。 それは駒の爪の裏手から池(その名も駒ヶ池)を回り込むようにある。 (つまりは、ご主人が整備したに他ならないのだが、昔の街道だということだ)
全体を撮してみる。切り口からはいまだに松ヤニが!!驚き

投げ松の場所もわかりにくい。集落のほぼ最奥と言って良い場所にきれいなお堂があって その中に納められていた。あまりに大きくて1枚の写真では撮しきれない。 またその姿もあまりにも異様である。法道仙人が法華山から投げ捨てた小松が 枯れずにそのまま大きくなったのがこれだとか。そう言われればそうかと納得しそうな松だ。
あまりにボロ小屋すぎるセイメイさんも怪しすぎる

おおとりは『セイメイさん』だ。資料によっては『セイメンさん』となっているのもある。 この呼び名によって中身が違ってくるのだ。セイメンさんだと、セイメン→青面、つまり庚申信仰の青面金剛となるし、 セイメイさんだと、セイメイ→晴明、阿部晴明となって陰陽師と関わりが出てくる。

お堂(煉瓦造りといえば風情があるが、実際は写真のようなあばら屋)の中には庚申につきものの くくり猿もぶら下がっていないし、地元の泥本さんも首をかしげているので『セイメンさん』ではなさそうだ。 したがって『セイメイさん』として今回は登場してもらおう。

えくぼがかわいい?セイメイさん

入り口にある案内板には『厄神駅の近くで井戸を掘っていて発見された・・・』と書かれている。 違う話では厄神駅の工事の再に井戸のふたになっていた石をどけたらセイメイさんだったとか・・・。 その際のつるはしの傷がほっぺに残っている。

像容は錫杖を持った地蔵菩薩そのものですが、その顔といい姿といい、あまりにもすごすぎて さすがの作畑ガールもそのオーラにたじたじになっていた。

今回のツアーでなにかしらの結論とか、推論とか無理矢理に導き出そうとは思わない。 ただ、千数百年に渡ってこれらのものが伝えられたということ自体がすごいことなのだ (実際は数百年ぐらいのスケールだと思うけど・・・)。 それらは事実ではなく、こじつけだったり、本来のものとは違ってしまったかもしれないが、 民衆がそれらを良しとして残してきたことにはなんらかの意味があるはず。

小難しいことは学者に任せて、我々は楽しくイメージをふくらませて遊びつつも、これらの遺跡?を 後世に残していく努力をすることが必要なのではないだろうか。



雑記帳表紙へもどる