相沢墓地の墓石のこと

2014年 1月

生野にある金香瀬山(銀山のある生野にふさわしい山名だ)へ登るために、旧相沢町からのルートを 探索してみた。相沢町は明治23年に洪水で消失しており、そんな町があったことすら 忘れ去られているのだが、道路脇から斜面にある踏み跡を登って行くと銀山に縁のある相沢稲荷跡もあるらしい。 で、じっさいに登り始めてみると稲荷跡までの山腹は多くの墓石が残る墓地跡だったで驚く。 町は消失したが墓地はこんにちまで残されていたようだ。

矢印の奥にある相沢稲荷の途中にあった

ただ戒名が彫られているだけの墓石ならなんの興味も起こらないのだが、ここの墓地にはいろいろと そそられる墓石が多い。亡くなった友人のことが彫られたものやら、辞世の和歌が彫られたものとか、 単に鉱石を掘る労働者の町ではなく、文化の香り高い地域だったことがうかがわれる。

その中でも相沢稲荷への参道途中にあった墓石に目がとまる。 なんの変哲もない小さな墓石で、なぜ、こんな道途中の斜面に寄り添うようにあるのか謎だ。 これを見てくださいとばかりに墓石の側面にはこのような文言が彫られていた・・・。

側面にあった文言正面にはこれ

目に飛び込んできたのは『和пx(和州)わしゅうと言い、現在の奈良県のこと。 さらに『式上郡』は現在の桜井市。続けてお寺の名前を思われる『慶運寺』、その下の文字は最初読み間違えて 『才子』と思いこんでそれなりの意味を想像していたが、あとで『弟子』が正しいと教えてもらう。 目の前の側面の反対側の側面には『天保六未(1835)六月十日』と、ここに眠る人の時代がわかる。

正面にまわると『明誉大了法子』とある。明誉というのはこの人の名前かな。大了の意味は不明。 法子は仏の弟子という感じか。この時点で想像できるのは奈良の慶運寺の修行をしていた 明誉さんが天保六年になぜか奈良ではなく生野で亡くなられたということか。

山に登るのもさることながら、この墓石を見ていろいろと疑問がわいてくるのは自然の成り行きだ。 なぜ、奈良からわざわざ生野まで来たのか。僧侶にもかかわらず卵塔でない普通の墓石なのはなぜ? 200年近く誰にも知られずにいたのにやまあそに見つかったのが運の尽き?? ちょっと調べてみたい気持ちになる。

慶運寺周辺を上空から眺めてみると

さっそくネットで検索してみる。まさかとは思ったが慶運寺が現在も存在していた。まさに桜井市にある。 そうなると現地まで出むかないわけにはいかない。1月26日がちょうど奈良でコンサートがあるので その前に訪ねてみる。前もってお寺には連絡を入れていたが、あいにくその日はご住職は留守らしい。 ご住職がいたとしても、行けばその場で謎が解けるというものでもないし、行ってその場の空気を感じるだけも良い。

あとでというか、行ってみてわかったのだが、慶運寺周辺は歴史と神話の宝箱といった場所だった。 お寺のすぐ東には三輪山があるし、西には卑弥呼の墓と言われている箸墓もある。

氷雨の慶運寺

当日はあいにくの雨で1月ということもあって、とても寒い訪問となりました。 墓地の駐車場に車を止めて正面へ移動する。
門をくぐって左に石棺仏!

門をくぐって本堂の左手には石棺仏が!!播磨ではいくつもあって見慣れているが奈良のこんな所にも あるんだとちょっと驚くが、よくよく考えてみたら周辺には数え切れなほどの古墳がある。
弥勒菩薩です本堂の真裏にある古墳

案内板によると慶運寺の周辺には6つもの古墳があって(本堂の真裏にはまさにそのうちの一つが今もある)、 この石棺仏もそのうちのどれかにあったのではないかな。ちなみにこの石棺仏はふたの部分ではなく身の部分を使用している。 彫りにくかったと思うけど・・・。
歴代住職の卵塔

奥さんの案内で本堂裏手にある墓地の卵塔を見せてもらった。初代から言うと現在で二十数代目らしいが、 卵塔の数はそれに足らずいくつかは散失したようである。

そもそも浄土宗慶運寺は寛永11年(1634)の創建という。初代住職は別のお寺で長年住職として 勤められていたが老年になったためこちらへ隠居したという。が、周辺住民の願いでこの寺を 創建して、短い期間ではあったが再度住職として勤められていたらしい(後日、お電話をいただいたご住職のお話の抜粋)。 その後、二十数代に渡る住職はすべて血縁ではないというのも珍しいかも。

本題に戻るが、現ご住職も遠く離れた生野に自分の寺に関係している墓石が現存していたことには 驚かれていた。このときに才子→弟子の間違いを指摘されたのだが、それによって想像できるのは 生野からなんらかの縁で慶運寺に修行に来た若者が修行半ばで生野に帰省。時を経ずして亡くなられたため 縁者が冒頭の文言を彫った墓石を残したのではないだろうか。

生野は鉱山の町だが、小さな町にもかかわらず寺社の数は驚くほど多い。そのうちの一つ、 あるいは水害で無くなった相沢町にあったかもしれない寺が当時(天保年間)奈良の慶運寺と なんらかのつながり(宗派的?)があって弟子として修行していたのかも。

もう少し調べられることも残っているように思うが私の力ではこれぐらいかも。生野の歴史は 多くの人が調べて残されているが、こんなことに興味を持つのは私ぐらいなもんかな・・・。



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