黒松古傳 『山陰本線 黒松駅』

2015年 8月14日

今年もお盆に帰省することができました。子供の頃は大阪駅から夜行急行で帰省していましがが、 いつからかその手段は列車から車へと変わってしまいました。 もう何十年も列車での帰省はしていません。

黒松駅は我が家の玄関からまっすぐに伸びた上り坂の終点にあったので、駅の改札を抜けてその坂道を下って いくと徐々に家が見えてくるその状況も 懐かしく思い出されます。気がつけば黒松駅も無人駅になり、その駅舎もいつのまにか 無くなってしまいました。

大正7(1918)年に黒松駅が出来ました。ちなみに江津駅は大正9年に開業となっています (順々に延伸していくために主要駅である江津の方が遅い開業です)。 黒松駅は 上りにある石見福光駅まで2.8km、下りにある浅利駅まで4.4kmあります。 福光と浅利のあいだにある町で駅を造るに ふさわしい所は両駅からの距離とか、町の規模から言ってやはり黒松が妥当かと思われます (当時、約300世帯、1000人ほどの人口があった)。

国道9号線から見た高い土盛りの軌道

周辺の地形の関係(駅の場所の標高が高い)からその前後1.6kmほどが土盛りされて、 その上に軌道がある。そのために『三つの隧道』 もそのときに併設されたと想像できる。大正時代のことなのですべて人力だと思うのだが実際はどうだったのだろう。

大正7年(祖父孝一は小学5年生ぐらい)、黒松には大きな出来事が二つあった。年の瀬も近い11月25日に 黒松駅が開業したこと。4月1日に電気が通ったことです(ちなみに水道は昭和36年)。なんという 田舎だと思われる人もいるかもしれませんが、考えれば江戸時代が終わってわずか50年ほどで鉄道と電気が こんな辺鄙な所まで出来たということです。日本という国がいかに文明の進歩に対する対応力があったかということに他ならない。


ホームにあった古い駅名板現在はこんな感じ

昔、親戚のおばあさんが大きなブリキ缶を背負ってこの駅から魚の行商に行くのを見たことがある。 この駅のおかげで漁村の黒松から行商という商いが成立したのだろう。

改札を抜けた所現在はこんな感じ

時代の流れで無人駅になるのは仕方ないにしても駅舎が無くなってしまうのはなんとも切ない。 現在いたるところで多くの無人駅があるがそれらは駅舎だけは残っていて、そこで写真展をしたり、 展示物を並べたりして地域の寄り合い場所になったりしている。 黒松駅も残ってさえいればなんとか利用価値があったかと思う。

昭和60年の駅舎
現在はこんな感じ

平成11(1999)年に駅舎は解体されてしまいました。現在 トイレだけが当時のままに残っているのがなんともわびしい。 「駅にあった松の木は残っているのかなあ」と母親は言っていたが、それも 無くなっているようだ(古い写真には写っています)。

このページの古い写真は『プラットホームの旅』 というブログから拝借しました。



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