黒松古傳 『寺坂吉右衛門墓碑』

2007年 7月20日

日本人で忠臣蔵を知らない人はまずいないでしょう。その大石内蔵助の筆頭とする 47士の中で唯一生き残ったのがこの寺坂吉右衛門。足軽という軽輩にもかかわらず この仇討ちに参加できて、本来ならスポットライトの当たらないはずなのに、 実際を知る生き証人となったために後世に名を残すこととなった。

その寺坂吉右衛門の墓がなんとこの黒松にあるという。子供の頃は気にも止めなかったが 年を取るとこういうのがおもしろく感じてくるのだ。

駅から下ると左上に見える

内蔵助はこうかんがえた。討ち入りが成功したとして、その後はどうなるか。 全員許される可能性はほとんどなく、ふつうに考えれば切腹は免れないであろう。 しかし、関係者(瑤泉院とか浅野家本家など)に討ち入りの詳細を報告したい・・・。 そこで白羽の矢が当たったのが寺坂だ。足軽なので討ち入り後に姿をくらませることも たやすい。周囲の反対があったらしいが、案外、内蔵助はそのために足軽の寺坂に仇討ち参加の許可を与えたのかも・・・。
坂の上に行くと

民家の横手からちょっとした坂を上ると小ぎれいなお堂がある。 母親が子供の頃(今から70年ほど前)には当然こんなお堂はなくて墓石があったらしい。 どんな墓石か記憶は無いそうだが、五輪塔だったらしい。 その墓石の前で学校の先生が忠臣蔵の話をしてくれるのが楽しみだったとか。

お堂の横手に説明文がある。
元禄十五年義士討ち入りをして後世に名を残した赤穂浪士四十七人の一人、寺坂吉右衛門は大石内蔵助の命を受け、 吉良家討ち入りの本懐の注進を南部坂の亡君の奥方広島浅野家、豊岡に身をよせている内蔵助夫人の許に報告に下った。
 役目を終え江戸に帰り幕府に自分も義士の一員であることを自首したが、その時は義士切腹のあとにして、 若輩と軽輩を理由に無罪放免となった。その後、吉右衛門は僧名を万水と号して、苦難を共にした同志四十六人の 冥福を祈りつつ、諸国の遍歴の旅を続け、母の里が江津市敬川である事から当地方に来り、 黒松の地に草庵を結び信行庵と名づけて人生無情、出離の一大事を布教した。・・・
以下略、原文のまま

内部はこのようになってます

『咲く時は 花の数には入らねども 散るには同じ 山桜かな』という辞世を遺して 延享四年十一月六日麻布で八十三才の生涯を終えた。 当地にもその死は伝えられ分骨をこの丘に埋葬したという。

母親も子どもの頃(戦時中)学校の先生に連れられてここで忠臣蔵の話を聞いたということです。 その頃は小さな五輪塔が数基あっただけだったとか。 昭和43年12月、信行庵を復元する意味でこれを建てたということです。



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