はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『但馬竹田』を参照していただくようお願いいたします。 2017. 7.30. 日曜日 晴れ 気温 暑い
どこに行こうかと悩んでいたがアイデアが浮かばなかったので行ったことの無い唐川(養父市)に行ってみようと思い立つ。 唐川という谷の行き止まりにある集落はどんな感じなのか、またそこにある徳本上人の名号塔も見てみたい。 とりあえずスタートは和田山町の三波(さんなみ)からにしてみる。
竹田の町の北はずれ(ここにも徳本上人の名号塔がある)から安井川に沿って西に向かう。
竹田城の雲海を撮影するのに有名な藤和峠への分岐を西の谷へ。そこからが三波の集落となる。
三波の集落へ入るところに三波城趾があるのを確認。そこで唐川から大路山に登って三波城趾へ下る
帰路コースを思いつく。さて、どうなるか。
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三波の駐車場を借りる | 谷を詰めていく |
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狭い谷の集落だが公会堂の横手にある駐車場を借りることに(地元の人に了解を得た)。 準備を済ませて9時10分スタート。周辺の人に唐川へ抜ける峠の名前を聞いたが名前は無いという。 仕方が無いのでこのレポートでは『唐川越え』という仮称にする。
「唐川には三波の持山があってそこに行くのには、唐川へ行こうとは言わずに向こう山へ行こうと言っていた」
「昔は養父に行くにはこの峠を越えるのが早かった」というような話も聞いた。
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林道が続く | 林道の終点から |
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害獣避けのゲートをクリアーしてさらに林道は続く。三波の人は「峠まで行くなら車で林道を詰めたらええ」と言ってくれたが 路面の状態からして車であまり奥までは行けそうでは無い。歩いてて気になるのは山ヒルだ。今の所大丈夫。 林道の終点から木橋を渡って行く。この辺からヒルがお出ましになる。 やがて踏み跡が不明瞭になりルートを外してしまったよう。斜面をよじ登っていてきれいな道に復帰。峠はもう 目の前だ。 |
左斜面からよじ登って峠道に復帰 | まもなく峠だ |
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どこで踏み跡を見落としたのか、後から振り返るとあの辺かと思うのだがとりあえず斜面をよじ登って行くと きれいな峠道に復帰できた。そのままつづら折れの道を進めば難なく峠に着く。 |
小さな切り通しの峠 | 石仏があった |
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かわいい地蔵菩薩 | この先の安全をお願いする |
峠には10時15分。小さいがきれいな切り通し。しかも石仏もちゃんとある。なのに名前が無いのは 納得がいかないなあ。光背部分に彫られた文字を読み取ろうとするが足元のヒルの処理などで 気が散ってしまう。かろうじて『妙〇信女 天明三(1783)・・・』『羽渕』?という姓らしき文字もあった。 |
下り初めてすぐに石仏あり!! | 川ジャブで明るい所に出る |
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さて、足元の掃除も済んでいよいよ唐川へ下る。するとすぐに石仏があった。 地蔵と言いたい所だがどうも弘法大師像のようだ。その先で道が消失するので川ジャブで クリアするといきなり明るい広場『C』にでる。 |
イヌワラビをかき分けて行く | きれいな石仏だ |
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そこはジュクジュクの地面でイヌワラビが広がっている。向こうを見るとそこにも石仏が!! 足元が泥だらけになるのも気にせず駆け寄る。比較的新しい(たぶん明治期)もので『久留引村 足立吉右エ門』とあった。つまりは竹田の久留引との行き来が盛んだったことに他ならない。 興味深いのは光背部分の左右の文言。『右 ヤマミチ』とあるのは私が来た方向。足立さんのいた 久留引村の方向でもある。ならばヤマミチなどとしないでせめて竹田とかにしてほしかった。
さらにおもしろいのは『左 タキノヤ』。ここから建屋へどう抜けるのか?別途地図に予想される
鞍部を書き加えてみた。石仏の位置から考えると『う』か『え』の鞍部から抜けるのが合理的だ。
いずれ訪れてみたい。
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突然二車線の舗装が現れる(この手前にも石仏あり) | 白いドームと第一村人発見 |
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道標石仏を離れ、橋が消失した川を渡渉して未舗装林道を歩く。すると突然目の前にきれいな 二車線舗装路が現れる。その先には唐川の住民と思われるおばあさんがいたので話しかけてみる。
教えてもらった話では、この白いドームは木材のチップとかを肥料などにしているドームだとか・・・。
この謎の舗装路は計画では先ほどの石仏分岐から谷を進みトンネルを掘って藤和に通じるはずだったとか・・・。
(地図にそのトンネルの予定位置を書き入れました)
図書館などに行っても唐川に関する本がない。昔は辛川と言われていたとも聞く。 まるで隠里のような場所なのでいろんな物語がありそう。 |
倉谷神社に立ち寄る | 拝殿から本殿を見る |
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おばあさんに徳本の名号塔の位置を教えてもらって別れる。途中にある谷倉神社に立ち寄る。 谷倉大明神という額もあったが祭神は『大山咋神』らしい。それにしても荒れようがハンパない。 無住の集落ではないのだからもうちょっとなんとかしてもらいたい。 |
それは地蔵堂の横になった | 徳本上人の自筆と言われている | これは竹田町にあったもの |
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おばあさんから聞いた地蔵堂の横手にそれはあった。徳本上人の自筆と言われており、さらに養父市で8基あるという 徳本文字の名号塔で一番古いものらしい。年号を見ると『文化十三 子卯月日(1816年4月)』とあった。 さらに徳本さん独特のサインも彫られている。
徳本上人は和歌山の出身なのだがなぜか但馬周辺に縁が深くて、彼の弟子の物も含めると50基以上の
名号塔があるとか・・・。ちなみに竹田町にあったものも貼り付けてみた。
こちらは『弘化二(1846)』の年号でした(徳本さんはもう亡くなられている)。
竹田のは文字が黒く塗られているので文字の形がわかりやすい。
(なぜこんな奇妙な形の文字にしているのか、また竹田のはなぜ黒く塗られているかは説明が長くなるので省略)
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大路への谷に入るとあった | 峠道は右岸にある |
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もっといろいろと見てみたいがそろそろ帰路に。といいながら実はもう暑さでヘロヘロになっている。できればタクシーで帰りたい。 最短はピストンだがせっかくだから大路峠までは行ってみたい。大路峠への谷の入口は目印は無いが地形図で確認して入る。 道は左岸にあるのか、右岸にあるのか、あるいは真ん中の河川沿い(耕作地跡がある)にあるのかわからないまま進入。 するとここにも石仏があった。
多くの倒木があったが冬のあいだに切られていたのか跨がずに通過できるのがありがたい。
途中、わかりにくい所があって斜面をよじ登ると峠はもう目の前だった。その道中も
足元には相変わらずヒルが登ってくる。汗でドロドロになって峠には12時05分。
昔、物部山から稜線沿いにこの大路峠に来たことがある。そのときはそのまま大路ダムへ下って行ったのだが、 今回はここから大路山へ登っていく予定。 だが、もう体力が限界に来ているので前回同様にダムへ下ろうと思う。 |
大路山側の斜面にあった | 合掌の地蔵 |
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おばあさんは言わなかったがここにも石仏があった(前回は見逃していた)。 石仏には『宝暦十三年未(1763)』頭の上には『カ』という種字がある。『二世安楽』とも彫られていて、 それは現世も来世も安楽であるようにということ。
昔は(といっても数十年前のつい最近まで)買い物というとこの大路峠を下って竹田まで通っていたという。
ようやく自動車を手に入れても冬になると八代峠が越えられない。
それが八代トンネルができ、あすなろトンネルができ等々でずいぶんと楽になったとおばあさん。
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林道が出来ていた | 大路ダムから竹田城を見る |
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ランチも食べていないし暑さでグロッキーだし私も唐川の人に倣って大路ダムへ下ることにする (その後は延々と舗装路の歩き地獄が待ち構えているのだが)。 つづら折れの古道を下って行くといきなり林道が見えて来た。昔にはなかったが伐採作業でこの標高まで 来ているようだ。ヒルのことがあるので助かった。 そちらへ降りてあとは楽に下る。途中の流れで顔を洗いスパッツ裏に取り付いているヒルを 排除する。 竹田の町をすり抜けて三波には14時50分。疲れたけど見所も多かったです。
今回の唐川越え〜大路峠の地図は
こちら(約630k)
でごらんください。 |