はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『梅迫』を参照していただくようお願いいたします。 2015. 5. 3. 日曜日 曇り 気温 暑い
まったく同じ名前の峠が豊岡市但東町と福知山市上佐々木のあいだにあり、2003年に 三国山というレポートで紹介しています。 そのときもMTBでしたが、今回もこの同じ名前の峠をMTBで挑戦してみます。 ひさびさの遠出で、舞鶴道の西舞鶴ICで降りて舞鶴の市街地に入る手前を左折すると城屋という集落に至る。 この先は行き止まりで、いわゆる袋小路の集落なのだが、昔はこの登尾峠で綾部に抜けることができて、 綾部とは婚姻での結びつきがあった。
駐車できそうな場所が無くて写真の場所に駐車する。たまたま田んぼ仕事をしているおじさんに許可をもらう。
この人が話し好きな人でけっこう時間を取られてしまったが話はおもしろかった。
おじさんが言うには歩けるような道ではないとのこと。
9時55分スタート。
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ちょっとしたスペースに駐車 | ここが入り口 |
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駐車場所からすぐに最終民家となる。その横手にある小橋を渡るとそこにも 耕作地があり入り口の尾根が真っ正面。その尾根の先端には探すまでも無く 明らかに道といえるものあり。道標などは無し。
さっそく入ってジグザグに2ターンほどすると道は二手に分かれていた。
稜線の真上をトレースしている道がほんとの峠道だろうが見ると藪っぽい。
その左手にある道はきれいな道だ。たぶんこのきれいな道は途中で稜線に行くだろうと
勝手に決めこんでこちらを行く。
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これって正解コース? | ここから稜線へ激担ぎ!! |
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帰りには乗れるように路面にある石とか大きな枝などをどけながら登る。 ところがどんどん道幅が狭くなりこれ以上狭くなると下りでも乗れそうにないという 所まで来た。しかも稜線からはどんどん離れてほとんど水平道。つまりこのまま行くと 谷に降りてしまう。 MTBをデポして歩きでしばらく奥へ奥へと行ってみる。予想通り道はどんどん狭くなり 歩くのも困難なほどに・・・。しかたなくデポ地に戻りそこから稜線へ向かって激担ぎだぁ!!
簡単に言っているけどとんでもなくハードな担ぎだ。身一つなら両手両足で登れるのだが
いかんせんMTBはあちこちに引っかかる。したがってMTBをちょっと押し上げる。身体をMTBより
ちょっと上に。MTBを引っ張り上げる。この三動作を繰り返すこと30分で別途地図の
『B』から『C』にワープ終了。途中でミニの三脚紛失。
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稜線コースも藪だった・・・ | こんな良い道のところもある |
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稜線も藪だったので思わず怒りの雄叫びを上げる。怒っててもしかたないので思い直して少しだけMTBを担いでみるが 奥に見えるコースはさらに藪っていた。『C』からちょっと進んだところでまたもやMTBをデポする。 つまり身一つで峠まで行くことになったわけだ。 身一つになると少しぐらいの藪はまったく気にならない。ただコースはU字の掘れた道なので そこに倒木があると歩きにくい。
良い路面のところもあるが藪のひどい所などになるともう帰ろうかと思ってしまう。
地図を見ると峠まであとわずかなのでがまんして進む。すると正面に・・・・!!
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正面に謎の石柱が!!! | すごいことが書かれていた |
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斜めに傾いた石柱。けっこう高さがあるので見逃すことは無い。正面に彫られた文言でびっくり。 頭にある『SM2Z』は意味不明。その下にあるのは『舞鶴要塞第二地帯標』ってことは この近所に要塞があるってこと? 横手には『第十六號』。反対側には『明治三十二年七月』。裏側には『陸軍省』とあった。 竹田の町にある『竹田劇場』というお店でゲットした『日本海戦争遺産』という小冊子にはこうある。 『日清戦争以後、日露の対戦は必至と見て、海岸防備を急いでいた。明治30年3月、舞鶴軍港の着工と 時を同じくして、陸軍も同年11月に舞鶴要塞砲兵大隊の開設と砲台、堡塁の着工に着手し、同年33年 には舞鶴要塞司令部が開庁、同36年10月に全工事を完成させた。・・・』
まさにそれを示す石柱と言えよう。この明治32年の前後で舞鶴港を囲む主要地にはいくつもの
要塞が作られている。ここもその候補地だったのだろう。
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なにこれ? | 登尾峠着 |
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標高差が無いので倒木さえなければ進むスピードは速い。するとこんどは こんなものが現れた。『登尾峠17』という標識だ。志賀郷地域振興協議会と 書かれているから綾部側のものだ。
と、その目と鼻の先に峠の石碑があった。
一瞬とまどう。というのも地形図に書かれている登尾峠はもうちょっと奥になるからだ。
しかし冷静に地形図を眺めてみると、なるほどここが峠と言って良い地形だった
(地形図に書かれている峠はここより標高の下がった地点であきらかにおかしい)。
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読んでみる | 横手は寄進者の名前 |
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『右 たんば』となっているのは今まで歩いてきた道の延長で綾部に下っている。 『左 山ミち』は市境の稜線を指さしているようで確かに明確な踏み跡があって どこに続いているのかちょっと歩いて行きたくなる。 石碑正面下の部分は欠けているがこの周辺の村の名前『城屋 の村寺 油里 女布』が彫られているようだ。 横手には寄進者とその年号。文政三年とは1820年。行者八十八(やそはち)はここ以外にも寄進した石碑が あるそうだ。 峠に着いたのが11時50分。昼食を済ませてもうちょっと周辺を歩いてみようと思っていたら、 急に冷たい風が吹いてパラッと雨が降った。こりゃいかんと下山することに。
下山するついでに要塞の石柱があった所から踏み跡を辿って『F』地点ぐらいまで歩いてみるが
遺構のようなものはなかった。後で考えたら海からの脅威に対する要塞だから
地図にある333ピークか311.7三角点付近を探すべきだったかも。
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下山完了。むこうに見えるのが最終民家 | 雨引神社に立ち寄る |
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MTBをデポした地点まで帰り、そこから正規の峠道を下ろうと思ったがこれまた ひどい藪で乗ることは出来なかった。結局峠道で乗車したのは最後の数十mだけ。 車に戻ったのは13時40分。朝出会ったおじさんはちょうど軽トラで帰宅するところで あいさつはできなかった。 そのおじさんから聞いていた雨引神社に立ち寄る。ここの祭礼がすごいらしい。 いわゆる火祭りで簡単な説明板もあった。ここの狛犬も珍しい姿をしている。 さて、この山域に要塞跡はあるのでしょうか?
今回の登尾峠の地図は
こちら(約100k)
でごらんください。 |