槇ヶ峰〜谷山城趾

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『篠山』を参照していただくようお願いいたします。

2014.11.23.  日曜日  晴れ  気温  ふつう

11月9日に篠山の紅葉を下見ドライブした際、ここ宇土観音を訪れてここから槇ヶ峰に登れることを思い出した。 まだ登ったことの無い山だったのでその計画を練る。せっかく登るのだから普通のルートではなく 歴史を感じられるルートにしたいなあ。

そこで槇ヶ峰山頂から東に延びる尾根の縦走をしてみよう。そこには山岳寺院跡やら山城跡などもあるという。 TQFさんと二人で登ることとし、下山地に近い道路沿いに一台を止めて登山口である宇土観音へ向かう。 駐車場で準備を済ませ8時50分スタート。

宇土観音の境内

宇土観音は正確には清瀧山弘誓寺(せいりゅうざん・ぐぜいじ)と言い、曹洞宗のお寺である。 しかし、その前身は天地山極楽寺という法道仙人の開基による山岳寺院でした。 槇ヶ峰山塊には千軒坊というほどのたくさんの寺院があったとされ、今回はその極楽寺跡も 見る予定。

山門を抜け正面の大銀杏の黄葉を愛で(残念ながら、かわいそうなほど大規模に枝が切られており痛々しい。 その幹の太さからして本来はすごい枝振りだったと思う)、 多宝塔の横手を抜けて三十三観音霊場巡りのルートへ入る。

多宝塔の横を通って・・・期せずして楽しむ紅葉

他人の墓石を見るという行為はあまり勧められないものだが、多宝塔の横手には 明治時代の力士の墓などもあって興味深い。昔はその土地から出た力士はスーパースターなのだ。
これぞ錦の絨毯だ法道仙人に間違いなし?

お寺の裏庭付近は紅葉まっさかり。その紅葉を眺めながら時計回りに進んでいくと 西国三十三観音霊場巡りのコースとなる。山腹をぐるーっと一周するようになっていて、 まずは第一番の如意輪観音が出迎えてくれる。その先にあるのが件の行者像。

普通なら役行者と言いたいところだが、周囲に何も無い所にポツンと単独であることや、 右手の錫杖はともかく左手には未開敷蓮華を持っているという不思議な像様。 前鬼、後鬼があれば問題なく役行者だが、ここは法道仙人開基の寺ということを 思い出して欲しい。

18番から登るシダがあります

行者像から山腹に刻まれた巡拝路を時計回りに登っていく。石仏のある祠は霊場の番号通りにあって、 18番が一番高い位置にある。そこから槇ヶ峰への登山道となる。 いきなりシダが現れるがさほどうるさくない。登り切った所は槇ヶ峰から延びる北尾根の先端部分。 9時25分。
市街地にはまだ雲海が残っていた頂上への尾根道

そこから少し市街地方向が見える。するとわずかに雲海が残っていた。 加古川からここまで来る途中、霧が多かったので、もう1時間早く行動していれば さらなる雲海を見ることが出来たかも。

ここから頂上まではまっすぐだ。最初はゆるやかでやがて急登りとなり ちょっと小広いピークに到達する。9時40分。

槇ヶ峯神社跡のあるピーク三角点のあるピーク

極々小さな石の祠があり、裏手には朽ちた材木があった。たぶんこの祠を覆っていた建屋跡なのだろう。 手前には『槇ヶ峯神社』と彫られた石柱もある。祠の中はからっぽだったが、その有り様からこの神社は 金比羅のようだ。

ついでに三角点ピークにも行ってみよう。5分ほどで三等三角点のあるピークに到着。 三角点は無残にも打ち砕かれている。ふつう、この山に登るハイカーはここから北に下るようだ。 途中から巡視路に合流するためか、明確な踏み跡が続いていた。

我々は極楽寺跡に行くために東の尾根と辿る予定。しかし、何を勘違いしたのか(単に私の 思い違いだが)神社跡まで戻り、そこから支尾根を下ってしまうという間違いを犯す。 すぐに気がついて引き返すが、当然TQFさんからするどい突っ込みを入れられるしまつ。

良い道でしょちょっと謎の『D』地点

地図をよく見れば(よく見なくても)東尾根の入り口はすぐにわかった。 ちょっと倒木などもあったがすごく良い尾根道だ。WEB上でここを歩いているのは 大柿さんと織田さんの二人だけ。実にもったいないルートだ。

『D』地点には10時40分着。土橋のある鞍部で地図を見る限り、稜線をたどるには黄色の矢印へ 行かねばならないが土橋は左にカーブしている。地形図に従って矢印方向へ登っていったが さきほどまでと打って変わって藪っぽい尾根だった。土橋方向へ向かった方がよかったか・・・。

藪を抜けて399分岐からは元のように歩き良い尾根となる。 次の鞍部への道が倒木に埋まってわかりにくい。TQFさんはナビに従って直線コースを 摂ろうとしているが、私は倒木に埋まった道を探し当ててそこを行く。そして・・・。

極楽寺跡

道の左手に広い削平地を見つける。雑木があるがそれが無ければずいぶんと広い。 資料でもこの辺りが極楽寺跡となっているので間違いないだろう。 石垣の類も無かったが言い伝えでは 今から800年ほど前に三草山へ向かう途中の義経の軍によって焼かれたという。 (ということは、この寺院は平家に縁があったということかな?)
峠『F』に降り立つ薬師池を見る

そこからちょっと下った所が明確な峠だった。しかも峠の向かい側には池があり、ふと見ると 『薬師池』と書かれた看板まであった。現在、池は泥沼のようになっているが、義経が極楽寺を 攻めたときに薬師堂の釣り鐘を護るためにこの池に投げ入れられ、本尊の薬師如来は 戦禍を逃れて里に下ろされたという。

薬師池で思い出したのが小枕にある春日神社だ(話は違うがここも義経にまつわるおもしろい伝承がある)。 ここには平安時代に造られ、槇ヶ峰に祀られていたという 薬師如来が安置されているのだ。これが極楽寺から持ち出された薬師さんかと思ったが、調べてみると 安土桃山時代に現地に移されたものとあった。

下山後、岩崎の集落を訪ねてみると、岩崎にある浄念寺という寺にも山から逃れてきた薬師如来があるという。 地元の人の話ではそれが義経から逃れたものらしい。寺を焼き討ちした義経は里に下りた後「ああ、しんどかった」と言い、 池の水を飲んだので、その池は『しんど池』と呼ばれ現在も岩崎にある。

最後は谷山城趾を目指す土橋のある掘切

薬師池を離れ、さらに東進する。展望の無い、変化も少ない、おもしろみのない尾根道で 気がつくとお昼に近い時間になっていたので適当な場所で昼食。その後、『G』の分岐ピークには 12時02分。ここから北へ下る尾根もよさげだった。

最後のピーク401に近づくと明らかに山城跡を示すもの(土橋のある掘切跡など)が出てくる。 こちらの方向が搦め手なのかな?

本丸跡を歩く何段もある北尾根の曲輪跡

山頂の谷山城趾には12時15分。南斜面を見ると幾段にもなった曲輪が確認できた。 この本丸跡からは東と北に尾根がある。車を北に止めている関係で北尾根を下る。 ここがすごい。いったい何段あるのか、途中で数えるのをやめてしまったほど曲輪が 連続する。

このまままっすぐにこの尾根を下るつもりだったが、左の谷に降りるルートを発見( 注意深く見ていないとわからないかも)。 しっかりとした道だったのでそれを利用する。

稜線から谷に下るジグザグ道向こうに稲荷の鳥居が見えるぞ

谷に到着すると流れの向こうに赤い鳥居が見えた。TQFさんに寄ってみようと提案する。 赤鳥居の連続する石段を登っていくと囲炉裏のある籠堂?と、さらに一段上に稲荷のお社があった。 一対の狐の狛犬(金網がかぶせられている)と片流れの 派手さは無いが、いかにも古さ漂うお社だ。

篠山の市街地にある王地山稲荷は負け嫌い稲荷として有名だ。江戸時代、将軍上覧の相撲(各藩お抱えの力士)で 篠山藩はすぐに負けてしまい藩主は不機嫌だった。文政三年、地元篠山より8人の力士と行司、頭取が江戸にやってくる。 藩主はまた負けるであろうと思っていると、連戦連勝。

谷山稲荷

藩主は大喜びで褒美を与えようとするが彼らの姿が無い。篠山まで追いかけたが行方知れず。 その四股名を調べてみると藩内にある稲荷の地名であったことがわかる。それ以来 大関:王地山平左衛門の王地山稲荷が負け嫌い稲荷として有名となる。

実はここ谷山稲荷も江戸にはせ参じる予定だったのだが、足を痛めており行くことが 出来なかったという幻の力士なのだ。 そのためか、足の病気などに御利益があるという。

小さな山塊である槇ヶ峰も数知れない歴史に彩られていることを知った山行きだった。 稲荷を辞し、法福寺の横を通過。舗装路を歩いて 13時過ぎ、TQFさんの車に到着。

今回の槇ヶ峰〜谷山城趾の地図は こちら(約100k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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