はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『因幡郡家』、『郷原』を参照していただくようお願いいたします。 2014. 9. 7. 日曜日 晴れ 気温 暑い
まず、千手院のことだが、その存在を知ったのは4年目に柿原近辺の山を登った後、 柿原のことを検索していて鳥取環境大学のブログがヒットしたことによる。 それによると柿原のどこかに千手院窟堂なるものがあるというのだ。ブログの写真は写りが悪かったが 心引かれるものがあった。
その後、近くに寄ったときにブログの記事を参考に周辺を探してみたが見つかることは無かった。
少々あきらめ気味だったが若桜の山ボーイさんから、所蔵の『因幡誌』にある
小畑窟堂(千手院窟堂)の
画像を送ってもらってひらめくものがあった。この画からするとあのへんかも
しれない・・・。
件の『因幡誌』で柿ヶ原村の欄を見ると、この小畑窟堂は『・・・開基の時代知れず傳記もなし・・・』とあって、 存在自身も謎、その起源も謎となるのだが、『因幡誌』と鳥取環境大学のブログを読むと少し謎が解ける。
現在29号線から吉川方面へちょっと入った所に岩屋堂 という集落がある。『因幡誌』によるとその昔は窟堂村あるいは柿ヶ原と呼ばれていた。現在の岩屋堂とか昔 呼ばれていた窟堂村の名前の由来は当然ながら写真にある岩屋堂の存在が起源だと思われる。 その窟堂村に住んでいた住民の一部が移住したのが今回訪問している 小畑にある柿原ということなのだ(ややこしい?)。つまり移住した人たちが故郷の村の古名をそのまま付けたのだ。
その思いの延長とでもいうか、岩屋堂を模して村内の山中に千手院窟堂を造ったと思われる。
いくら造ると言っても岩屋堂と同じような洞窟が無ければどうしようもない。
偶然発見したか、あるいは岩盤をくりぬいて洞窟のようにしたのか・・・。
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ここがスタート地点 | 竹林の中に墓石群 |
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若桜の山ボーイさんとお知り合いのMさんの同行のもと、今回こそ見つける覚悟で柿原へやってきました。 村の手前、道路脇にスペースがあってそこに駐車。『忠魂祭』の石碑があってそこが入り口だ。 そこからまっすぐに道を行くと竹林の中に墓石群が現れる。見ると『千壽院』なる文字もあるので この周辺なのは間違いない。
地形図でここだと思われる所(『因幡誌』の絵図のような地形、別途地図の『う』)へ向かう。汗だくになって
到着したがそこではなかった。がっかりだったが気を取り直して三人バラバラで探す。
エリアは小さいので基本に立ち返り倒木(倒竹)に埋もれた道らしきものを発見。
それをたどる・・・。
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石段があって・・・ | 奥に洞窟が!! |
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入り口からこんなにも近かったのか!という所にあった。あの江戸時代の絵図は なんやったんや! 違う方向にいる山ボーイさんを大声で呼ぶ。
岩壁にポッカリと開いた洞窟。自然のものか、人工的なものかわからない。
言い伝えではここから岩屋堂までトンネルで繋がっているという。
もちろんそんなものはないが、故郷を思う気持ちがわかる言い伝えだ。
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す、すごい | 数字の彫られた丸石 |
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江戸時代の絵図にあるような建物はもう存在していないが、礎石とか瓦の存在が建物のあった 証明となりそうだ。 写真にある多くの丸石には大日如来を表す『ア』という種子と数字が彫られていた。 目に付く数字で一番大きいのが八十八。ひょっとしたら四国の八十八カ所を表しているのかも。 だとするとはじめからここにあったのではなく、参道に並べられていたのかもしれない。 建物が無くなり、お詣りする人もなくなって、ここに集められたと想像する。
念願の千手院窟堂が発見できたものの、謎は残っている。それは祀られていたと思われる
千手観音の行方だ。あいにく柿原集落は完全な無人廃村になっているので聞き取りは出来ない。
残念な思いのまま次の目標地である婆ヶ城跡へ・・・。
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保木元神社 | ここが登山口 |
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その前に婆ヶ城跡に関連する保木元神社へ寄り道。道路沿いにあるが小さくて目立たないので 気をつけないと見過ごしてしまう。保木元氏は姥ヶ城の家老を務めていて、この柿原は搦め手、 谷向こうの清徳は追手という位置関係にある。境内(とても狭いが)にはたくさんの五輪塔があり、 それらは姥ヶ城の闘いで亡くなった保木元氏ゆかりの墓らしい。
二台の車で来ていたので一台はここに置き、もう一台で尾根の取り付きへ向かう。
ここから尾根に入ると登ることなく姥ヶ城へ行くことが出来る。10時45分スタート。
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しっかり道のある尾根 | 城跡手前にある岩場 |
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まったくヤブもなく快適な尾根道が続く。駐車した所が標高470mほどで城跡が510mほど。 まったく楽な尾根歩きだ。城跡に近づいてきたので掘切とか曲輪の存在を期待したが この南尾根にはなかった。が、山頂手前で岩場があったり尾根が細くなったりで攻めにくい難攻のコースだ。 |
真っ平らな主郭付近 | 西側で食事 |
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四等三角点『姥ヶ城』を通過するとすぐに本丸跡になる。 『うばがじょう』は『姥ヶ城』が正しいのか『老婆ヶ城』が正しいのか?ネットには二種類あるようだ。 山頂には11時20分。スタートから 高低差もなくヤブもなく歩きやすかったのであっという間だった。これから行く北尾根には 数段の曲輪跡が認められる。西にも張り出しがありそちらで昼食を摂ることにしよう。
30分ほどで再スタートしたが、食事と話に夢中で大事なことを忘れていた。
それは山頂のどこかに黄金の茶釜が埋められているのだ。それを探すつもりだったのだが・・・。
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曲輪跡も掘切もある北尾根 | 快適な尾根道 |
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本来は本丸から東にある清徳から道があるはずなのだが踏み跡らしきものはなかった。 搦め手である柿原へは食事をしたポイント付近から下れそうだった。 清徳にある清徳寺は城主である小松氏の菩提寺で多くの五輪塔がある。同時に 柿原にある清常神社も小松氏が篤く信奉していたという。 現在清徳寺は無住だし、清常神社も数年前は鳥居が倒れてヤブにまみれていた (現在は鳥居も取り払われヤブも刈り込まれています)
未確定の情報だが清常神社は地元ではキヨトコと呼ばれています。清徳寺も
読みようによってはキヨトクと読めるのは小松一族に関連しているのが
意味しているのでしょうか。
四等三角点『三山口』を通過して下山口に設定している送電線鉄塔には12時30分着。 地形図で見ると送電線に位置が微妙に違うのは付け替えの工事のためのようだ。 鉄塔の周辺には工事用の資材が積み置かれている。ここは今回のルートで 一番の展望だった。
巡視路は清徳方向にも柿原方向にもある。巡視路だし、工事中のこともあるし、 歩きよいと想像していたが予想は裏切られる。急坂で滑りやすく歩きにくいこと この上なし。とりあえず平地へ出た。ここから登るのは巡視路の入り口がわかりにくい。 |
降りました | 石標発見 |
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目の前が駐車ポイントだが小畑川が道路とのあいだに流れているのでちょっと迂回して橋を渡る。 通り過ぎようとした林道の入り口に石の道標があるのを発見。 みるとなかなかおもしろいことが彫られている。大正4年に三浦の青年団が設置したもので 片面に『左 智頭へ通 約四里』とある。これは柿原奥にある綾木峠から智頭へ行くことを指す。 もう片面には『右 栃谷へ通 約一里』とある。栃谷とは『因幡誌』にも書かれているが 大江谷の奥にある栃原集落の場所のこと。今回も小さなことだがいくつかのおもしろい謎が 解明できて大満足だ。
今回の千手院と婆ヶ城趾の地図は
こちら(約110k)
でごらんください。 |