はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1 『生野』を参照していただくようお願いいたします。 2014. 3. 9. 日曜日 曇り時々晴れ 気温 ふつう
今から20年ほど前、MTBを始めた頃は(今もだが)よく地形図を眺めていた。それは未知のシングルトラックを 探すため。ここも当初は隧道のあるシングル(あるいは ダブル?)トラックかなと思っていたがすぐにそうではないと知る。 播但線の廃線だとわかったが20年の年月を経てようやく訪れることができた。
当日はジローさん主催の『トロッコ道を歩こう』だったので、早朝にとりつき箇所の下見をする。
そう、ここは市川を渡渉しないと行けないのです。その下見では長靴で行けそうな感じだったので
同行メンバーにその旨を伝えて、ジローさんのイベントが終了後に車で移動する。
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長靴が役に立たない | 現役線との合流地点。黄色線が旧軌道ルート |
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実際に川縁に立って流れを見てみると到底長靴ごときでは渡れないことに愕然とする。 そこでメンバーに提案。 その1:あきらめて帰る。 その2:濡れずに渡る方法(違法だが)でクリアする。 その3:たとえ濡れても渡る。 で、結果は上の写真の通り。
無事?対岸に到着して、斜面をよじ登り、まずは現播但線と旧播但線(軌道は無い)との合流点の確認をする。
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隧道の入り口 | 路面には水は無い |
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そこから反対方向へ進むのだが、合流点から数十mで最初の隧道がある。隧道の入り口(出口もそうだが)周辺には 隧道名を示す銘板は無かった。が、すでにネットではここのこともレポートされており最初の隧道は『向山トンネル』と 言うらしい。 |
隧道内の路面は乾いていた | 待避所もある |
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軌道とか枕木のたぐいは残っていない。馬蹄型の断面はトンネルというより隧道と言ったほうが しっくりくる。表面はきれいに煉瓦で化粧されている。鉄道が通過するだけなので 素掘りでは駄目なのか?この作業だけでもたいへんな労力だと思う。 側面が大きく崩れている箇所があって岩盤の上に貼られた煉瓦の具合がよくわかる。 |
けっこう倒木がひどい | 石垣でしっかり補強 |
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wikipediaによると明治27年播但鉄道(いわゆる私鉄)によって姫路−寺前間が開通される。 翌年に生野まで延伸されたというから、現在歩いている廃線跡(隧道を含む)は明治28年の ものだということがわかる。 播但鉄道は後に山陽鉄道に施設を売却。その山陽鉄道も明治39年に国有化となる。 |
これは渡れない | これだけの高さがあるし |
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wikipediaには時系列で事細かに記載があるのだが、この廃線のことには触れられていない。 ちなみに昨日(3月25日)に購入した播磨の情報誌『BanCul』の今月号は廃線特集だったが、 ここにもなんら記載がなかった。単に忘れられているのか、紹介できない事情でもあるのか?? |
深い切り通し | タガネ?あるいは削岩機?の跡 |
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隧道ではなく深い切り通しの箇所があった。隧道の工事もたいへんだろうが、これだけ深く岩盤を切り崩すのも 並大抵ではないだろうと思う。岩盤にはタガネの跡もくっきりと残っている明治28年のものだろうか?
そもそもどんな道具で隧道を工事したのだろうか?明治に重機があったとは思えないし、人力オンリーで
掘り進んだのか?ならば、ここは生野にも近いし、生野といえば穴掘りのプロが集まっている所だから、
ひょっとして幾人かは駆り出されていたりして・・・。
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地面は泥沼、目の前はバリケード | 倒木の一本橋でクリアー |
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ちょっと焦っている。というのもトロッコ道ハイキング終了して昼食もゆっくりと終えた後に この廃線探索だったので、けっこう時間が押しているのだ。 早く二つ目の隧道、畑山トンネルへ行かねばとつい早足になる。
それをあざ笑うかのように畑山隧道の前は進入を拒むぬたぬたの泥沼と倒木の枝が絡まった
バリケードが目の前にあった。それらをすり抜けて、最後は倒木の一本橋で隧道の入り口に立つ。
こちらから見ると歩ける場所がよくわかるので後続のメンバーに伝える。
隧道の前が泥沼になっているのは隧道内からわき出ている水のせい。うまく歩けば長靴でもクリアーできそうだが、 川渡りで水没しているのでかまわずバシャバシャと歩く。 |
真ん中にある土砂は・・・ | 天井崩落の土砂だった |
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隧道の中程で土砂の小山ができていて、それより奥は乾いた路面になっていた。 その小山の上を見ると見事なほど天井が抜けていてポッカリと穴が開いている。 なにかのショックがあればさらに煉瓦や岩が今にも落ちてきそうな感じがする。 穴から離れた箇所を歩いて通過。後ろのメンバーにも伝える。唯一の女性メンバーは 隧道前で我々が帰ってくるのを待っているという。安全面ではそれが良いかも。 |
補強の跡がある | 隧道にかかる地圧は位置によって違う |
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WEBによると昭和2年の廃線となったらしい。では、その原因は。同行のK山さんの説が すごく説得力があった。それは隧道にかかる地圧のせいらしい。現代ではそういうこともわかっているし、 工法も違うが、時代は明治、はたしてそこまでわかって工事がされたのかは不明だ。 できあがった隧道に均等に地圧がかかればまだ良いらしいが、斜めの斜面に掘られた穴は それぞれの位置によって地圧のかかりかたが違うらしい。そのために長い年月をうちに 弱い箇所から崩れる恐れがある。 この畑山隧道の出口付近も側面をコンクリートで補強した跡があったが、地圧による 崩落を防ぐためだったのだろうか。煉瓦の壁に大きなヒビがあったが、廃線になる直前に そういった予兆が現れたため現在の市川右岸へと軌道を移動させたのかもしれない。
畑山隧道を出て、ここから先を行っても工場の敷地内になるのと、ほぼ時間切れのため帰路につく。畑山隧道への再突入はやめて
川沿いの獣道を利用して帰る。帰路につきながらも川渡りのポイントに良い場所を探しながら歩いたが、
結局は最初に渡渉付近が一番よさそうだった。
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真名谷踏切前にあります | SL脱線事故の弔魂碑 |
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この播但線にはもう一つのドラマがありました。事故が無いようにと軌道を付け替えたわけですが、 昭和34年に廃線跡からわずか南にある真名谷トンネル前でSLの脱線事故があったのです。 そこには遺族有志による弔魂碑があり、裏面にはその事故の模様が記されている。
この事故に関してはWEBでも詳細に語られているが、この石碑から抜粋すると。 団体客を乗せるために無人の客車を新井方面から生野隧道を抜けようとしていたのが C54 5号機だった。 生野隧道は急坂の難所でいつも以上に投炭をしなければならない。当SLは写真でもわかるように逆向き牽引していたのは 運転席より後ろに煙突があるようにして煙に巻かれないよう配慮したためと思われるが、生野隧道は狭いうえにそのときは 逆風で登坂スピード以上だったと思われる。 SLに乗った世代だとわかるのだが、クーラーもない夏場、それまで窓を開け放して風を入れていても 隧道に入ると乗客が一斉に窓を閉める光景が常だった。毎日利用している沿線だとどこに隧道があるのか よく知っているのでその直前に閉めたりしたものだった。 結果、機関士と機関助士は煙に巻かれて窒息失神。止まるはずの生野駅を通過してしまい真名谷トンネルで 脱線となってしまった。
今回の地図はありません。
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黄色い矢印が現在の弔魂碑場所 |
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