天王峠〜火打ヶ嶽

はじめに:このレポートは国土地理院発行、2万5千分の1
『篠山』を参照していただくようお願いいたします。

2013. 3.31.  日曜日  曇り  気温  暖かい

2週間前、この時予定していたのは三国ヶ岳から天王峠、さらに市境分岐ピークから火打ヶ嶽への縦走だった。 ところが、その市境分岐ピークに立ってみると小多田への尾根にすばらしい道が存在していたのだった。 逆に火打ヶ嶽への尾根入り口はちょっとわかりにくい感じだった。 そこで急遽、予定コースをキャンセルしてその尾根を歩いたのでした。

それはそれで満足した山歩きだったが、やはり火打ヶ嶽への尾根も行きたい。 北摂の落ち武者新川氏もMTBが乗れるかどうか確かめて欲しいと言う。そこで 今日こそは念願の天王峠から火打ヶ嶽へ行ってみる。

伊丹の西国街道沿いにある『辻の碑』

その前に天王峠について調べてみた。この峠の名前を調べるのに母子でも聞き取りをしたのだが、 思わぬ所にもこの峠のことが記されていた。それは伊丹市にある西国街道沿いの『辻の碑(いしぶみ)』と 言われる所。
古地図に描かれている天王峠碑の近接撮影

ここはそもそも摂津の国の中心になるらしい。現在ある碑には『従東寺拾里』の文字だけが判読できるが、 『摂津名所図会』(寛政十年)には『従東寺(京都の東寺のこと)拾里。従関戸(大山崎あたり)七里。従須磨(神戸の須磨)七里。 従天王七里。従大小路(堺市大小路町あたり)七里。』とあって、摂津の中心だったことを示していとともに、北に 七里行ったところの丹波篠山との境界が天王峠であることも記されている。

つまり、天王峠は摂津の最北に位置するわけだ。今回、 ありがたいことにたぬきさん夫婦が同行してくれると言うので車で母子奥の林道入り口まで行く。

別途地図『あ』にある道標地元のおばさんに聞き取り

その近くにも峠に関わる石造物がある。写真の道標だが文字の判読がむずかしいほど磨耗している。 文政元年(1818)の銘があって表の文字でわかるのは写真のとおり。 右の『妙見道』は別途地図の『い』(裏坂)から後川を経て妙見へ至る。 左の『篠山・・・(判読不能)』は、これから行く天王峠を経て篠山という意味にほかならない。

準備中に出会ったおばあさんの話では奥にある茶畑にはやはり寺跡があったそうだ (二の坊、三の坊などの字があるらしい)。 さらには数十年前までは天王峠を下って篠山の自動車学校へ通っていた人もいたという なんともリアリティーあふれる話を伺った。準備も終えて9時スタート。

林道の両側には茶畑やら普通の畑やらが広がり、さきほどのおばあさんをはじめとして、母子の人が 怪しい我々には目もくれず働いているのだった。

天王峠のお大師さま峠からちょっと下ってみる

林道から外れて、旧峠道へ入りわずかの距離で天王峠に着く。9時20分。 そこには2週間前と変わらず弘法大師の石仏がある。昨日は矢問さんご夫婦も訪れているし、 今日はこの三人組が来ている。急に人気者になったなあとお大師さんも驚いているようだ。

峠から篠山側を見るとまっすぐに下っているように見える。つまり小枕へ下っているように 思えるのだ。ところが、母子の誰に聞いてもこの峠からは小多田へ下ると言う。 地形図で見ても「それはないやろ〜」と一蹴したくなる。

試しにちょっとだけ峠から下ってみることにする。すると、まっすぐに下っているように見えたのは 錯覚で、実際は右へ右へと山腹を巻いていた。つまり火打ヶ嶽への尾根へと回り込んでいるのだった。 母子の人たちが言うのは正しかったのだ。

その裏手から分岐ピークへ最初はプチヤブ

ならば、この峠道を利用して尾根に乗れば簡単だが、分岐ピークからのルートが気になるので 後戻りして石仏の裏側から歩き始める。別途地図の『B』からは2週間前のルートが真っ正面にある。 そこを10mほど行くと左手にわずかな踏み跡がある。そこが火打ヶ嶽への尾根入り口だ。 しばらくはプチヤブが続く。こんな苦労をせずとも天王峠からの道を素直に辿ればなんの問題も無い。
地図の『C』尾根と峠道の交差点。我々は黄色のルートで来た。

問題の天王峠からの道との交差点に着。ここから小多田へ下る道を少し歩いてみるが、周辺の枝も切り払われているために 歩きよい。このまま谷に下っていくのか、あるいは439への尾根を行くのかは不明。たぬきさん夫婦を待たせることになるので 途中で切り上げて縦走を続ける。
道は明確です良い道です

下り基調でどんどん進んでいく。今すぐにでもMTBが欲しくなる。そんな道が延々と続く。
地図『D』の分岐ネットが現れる

と、また分岐に出会う。これも地図が無ければどっちへ進もうかと迷うような分岐だ。 当然左が正解なのだが、右に行けばこの分岐も小多田へ下ることが可能だ。 篠山の自動車学校へ行ったという御仁は前述の『B』分岐か、この『D』の分岐からか、どちらの道を行ったのだろう?

立ち入り禁止のネットが現れる。道はこのネットの右にあるので問題なし。 ところがそろそろ気をつけなければいけない。このネットを越えて虚空蔵山へ行きたいからだ。 必ず道があるはずなので注意しながら進んでいくとそれらしい隙間を発見。 細い道だったが間違いなく虚空蔵へ導いてくれた。

虚空蔵の鳥居に到着鳥居の奥には磐座が

真っ平らな広場と石の鳥居が見えた。「大きな石を祀ってあるよ」と教えてもらっていたが、立派な鳥居で 驚いた。扁額には『虚空蔵大菩薩』とある。虚空蔵菩薩は仏教の仏であるが、ここでは神社の祭神となっている。 鳥居には昭和9年の年号があった。

その奥にはまさしく磐座があった。小さなお社もあり、一対の石灯籠も昭和9年の彫り文字がある。 磐座のさらに上が頂上になるのでそこまで登ってお茶休憩とする。10時30分。 お茶とおやつを済ませて尾根に戻りましょう。

はっけよ〜いのこった!!

この小枕奥地区では毎年9月13日にこの鳥居前の広場で奉納相撲が行われていたそうです。 それこそ村中の老若男女が集う例祭だったのでしょうが、 近年は高齢化のためにしていないようです。 そこで我々がそのまねごとを・・・・。
良い道はさらに続く落ち葉が深い

尾根に復帰して縦走を続ける。地図の『G』も不明瞭ながら分岐である。小多田側は倒木などが目立つが、奥がどうなっているかは 不明。地形図上では広い尾根なので案外歩けるかも。
左手下には谷松寺が見えている火打ヶ嶽手前から金網出現

小さな吊り尾根を通過。左下には谷松寺がある。火打ヶ嶽はもうまもなくだ。 またもや金網が現れるが歩くには支障はない。
火打ヶ嶽頂上さらに北上

火打ヶ嶽頂上には11時20分。三等三角点。資料では古墳があるらしいが素人目にはわからなかった。 また、山名からして狼煙を上げる砦跡だったのか、あるいは愛宕系のお社があったか(春日神社の入り口に 小さな愛宕の石灯籠があった)。

さて、ここからの下山をどうするか。春日神社へダイレクトに降りる尾根へ下るかとも思ったが、 先ほどまでの道は頂上を巻くように続いているのでそちらを選択。

地図の『I』民家脇に下山

楽に下るとしたら地図の『I』が良い。金網にある扉を開けて小多田側へ降りるか、ちょっとヤブだが 左の尾根にある踏み跡を下るか。 我々はとりあえずもうちょっと前進してみる。まあ、この辺が限界かなと思い、金網に沿って下って 下山完了。11時40分。

春日神社には11時55分。ちょっと見学してそのまま母子で私の車を回収して 『シュガー』で昼食。いろいろと寄り道しながらでも2時間ほどの山歩きでしたが、後日 新川氏が峠からMTBで走ると1時間弱だったそうです。

今回の天王峠〜火打ヶ嶽の地図は こちら(約180k) でごらんください。


それじゃあみなさんも「山であそぼっ」(^o^)/~~~


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